少年探偵団 神原克收 |
||
目 次 (クリックで開きます) | ||
1 | バギオでの日本人の歴史 6 | ルソン島北西部への旅 |
2 | 贅沢な遊び 7 | 交通費は安い |
3 | メイド文化 8 | フィリッピン人はスローモー |
4 | 選挙あれこれ 9 | バギオ雑感(1)・(2) |
5 | 日本男性とフィリッピン女性の結婚 10 | バギオでの費用 |
1バギオでの日本人の歴史 |
フィリピンのバギオといってもご存知ない人が多いと思うので少し紹介したい。 バギオはルソン島のほぼ中央でマニラの北約250Kmに位置する。標高は1400m〜1700mの高原の町で人口は23万人と言われている。標高が高いので暑いフィリピンにあって一年を通して最高気温が26℃を超えることはなく絶好の避暑地となっている。 特に乾季の12月から5月は湿度も低く大勢の観光客や避暑客が押し寄せる。フィリピン政府は夏の間暑いマニラを避けここバギオに政府を移すとのこと。 この町と日本人の関りは非常に深いものがあり、その興亡の歴史は涙なしには語れない。 今でこそバギオに住む日本人は数十人しかいないが、最盛期には目抜き通りの商店は数軒を除き全て日本人が経営していたらしい。いまは逆に日本人経営の商店は1軒しかない。 フィリピンの歴史はマゼランが1521年にセブ島に上陸して以後約350年間スペインが支配し、1898年アメリカがスペインを破ってフィリピンを僅か$2000万で買い受け以後1946年に独立するまでアメリカの植民地であった。アメリカはマニラの熱さに耐え兼ね避暑地をバギオの地に求め開発に取り掛かった。しかし道路建設で難渋したアメリカは日本人の勤勉さに着目し、日本からの移民にその建設を託した。 |
ケノン道路の一部 | |
移民日本人は劣悪な労働条件のもと峻烈を極める自然と闘い多くの犠牲者を出しながらようやく1903年に完成した。道路の名前は建設責任者の名前を取ってケノン道路と呼ばれているが現地では日本人が造った道路と認識されているとのこと。 この建設に従事した日本人の一部が現地に残ってフィリピン人と結婚し勤勉さを発揮して事業に成功した人も多く次第に日本人の地位が向上し第二次大戦前が繁栄のピークであった。この我が世の春は日本軍のフィリピン侵攻と敗北により暗転する。侵攻した日本軍の残虐行為・敗退に際して村々を焼き払ったことへの怨念は凄まじく、日本人及びその子孫は現地人からの襲撃に晒された。彼等は山奥に逃げ込んで常に生命の危険に怯えながら飲まず食わずの生活を強いられた。その悲惨な生活は戦後も続き1972年シスター海野が命を張っての救出活動を始めるまで続いた。 シスター海野は1973年に北ルソン比日友交協会を設立、1974年奨学金制度を始めるなど日系人の地位向上に尽力した。一方ではフィリピン人を貧困から救うため1983年に農業協同組合を創設するなどフィリピン人の生活向上にも多大の尽力をし、バギオ市のあるベンゲット州から名誉州民の称号を贈られるまでになった。 1989年シスター海野が死去した後、その活動はカルロス寺岡・寺岡マリエの兄妹、尾辻ヨシの各氏に引き継がれ今日に至っている。寺岡兄妹や尾辻さんの辿られた悲惨な過去と日系人発展に尽くされている現在の姿には頭が下がるものがあり、比日両国民から尊敬を集めているのも当然のことであろう。 以上述べた状況は下記の本に詳しいのでご興味のある方はご一読下さい。 ・「バギオの虹」鴨野守著 アートビレッジ発行 またカルロス寺岡氏の活動は昨年報道されたNHK日曜スペシャル「日系人の誇りを守りたい(カルロス寺岡の闘い)」に詳しい。 更にシスター海野については暮らしの映画社が制作した「健全映画鑑賞会創立25周年記念作品」に彼女の貴重な記録が残されている。 この2本のビデオは山田氏のご好意でダビングし持ち帰ったので機会を作って見て頂きたいと思っている。 |
2贅沢な遊び | |||
|
3 メイド文化 |
日本ではメイドを使っている家庭はかなりの金持ち層に限られる。 しかしフィリピンではそんなに贅沢ではない。家庭によっては子守・家事全般・運転手など3〜5人くらい雇っている。メイドにまつわる話をいくつか紹介しよう。 1 メイドの給料は地域によって差が大きいようだが4,000〜 7,000円/月くらい。斎木氏の話ではドライバーは5,000円以 上で7〜8,000円くらいらしい。 2 メイドは住み込みと通いがあるが住み込みが主流。 3 メイドを雇っている訳ではないが、親戚から子供を預かっ てくれと言われて仕方がないからメイドとして使っているケ ースも多いらしい。この場合給料は払わなくても生活費の面 倒をみるだけというケースもある。以上は斎木氏のはなし。 4 メイドを使う姿勢も家庭により当然のことながら違う。使 用人として徹底的に使うのが普通なのだろうが、日本人の場 合はファミリーとして扱う姿勢が強いようだ。ファミリーと して扱えば恩に着て定着率が良いかといえば必ずしもそうと は限らない。概して恩に着る」思想は希薄なようである。こ の辺りの事情はタイとよく似ている。 5 メイドに関する苦労もフィリピンとタイではよく似ている。メイドがホストファミリーの物を盗む、盗まないまでも食料品な どをせっせと自分の家に持ち帰るのは一部の例外を除いて常識のようだ。盗むと言うのは日本人の感覚から言えば盗むだが、彼 女たちは盗むという感覚は希薄で不要なものを拝借している、或いは有 効に使ってあげているくらいの感覚なのであろう。ここら辺りの管理をどの程度厳しくするかが難しい。甘過ぎるとどんどんエ スカレートするし、厳し過ぎるとすぐに辞める。 6 フィリピンのホテルでは一流ホテルを除き、6人部屋とか8人部屋などというのが多い。室内はベッドがずらーっと並んでいる。これはフィリピン人は子沢山という事情と、メイドも一緒に連れて旅をするという習慣からこのような大部屋が必要なのである。 メイドを連れて行くのは勿論食事の世話とか子供の面倒を見させる、要はメイドとしての役割を期待してのことである。しかし実はそれ以外の理由もあるようだ。メイドを家に残してくると留守中にメイドの家族や親戚が入り込んできたり、或いは物がなくなることがしばしばあるのでその予防策という面もあるようだ。 この話も斎木氏と山田氏からお聞きした。 フィリピンやタイではメイドで徹底的に使うのが基本。それに対して日本ではメイドではなく「お手伝いさん」である。即ちホストファミリーも働きお手伝いさんがその手伝いをするというのが日本の感覚。この感覚をフィリピンに持ち込むと良い結果は望めない。 それは「メイドの仕事を奪う」ことになりトラブルの原因になる。 フィリピンでメイドをおいた生活もしてみたいが、それに伴う家内のイライラを考えたら慣れぬことはしない方が無難なのであろう。 やはり根が貧乏人なのでしょうねぇ。 (写真:友人の家のメイド達) |
4 選挙あれこれ |
バギオ滞在中にフィリピンの総選挙があったのでその話題をお伝えしたい。 フィリピンの選挙は日本のそれとは趣を異にする。 1斎木さんの奥さん(フィリピン人)から「投票日にはバギオの町か ら出ないように」との忠告を受けた。理由は選挙にまつわるトラブ ルに巻き込まれる恐れがあるということ。忠告通りにバギオの町で 大人しくしていたが選挙風景を見ようとあちこち歩き回ったがそれ らしい現場には行き当たらなかった。 唯一選挙らしい雰囲気は町に溢れる夥しい数の選挙ポスターだけ。 全くの無風で拍子抜けで少々オーバーな忠告だと思った。新聞報道 でも「今回の選挙は近年になく平穏に実施された」と出ていた。 2しかし現地の新聞を読んで彼女の忠告がオーバーでないことが解っ た。 選挙が公示されて以来5月14日現在で選挙がらみの死者が141名に達 したらしい。フィリピンでは応援した候補者が当選すれば仕事にあ りつけるが落選すれば仕事を失う。生活が掛かっているから当然熱 くなり、死者が出るほどの騒ぎに発展するらしい。 選挙ポスターの洪水 3今回の選挙は平穏裡に実施されたとの評価のようだが死者の数で見る限り逆の結果になっている。即ち選挙毎の死者数は1992年 56名、1995年83名、1998年87名、2001年111名、そして今回141名と年々死者の数は増えているのである。 4選挙は5月10日に実施されたが2週間経った24日現在大統領の当選者は確定していない。新聞報道によると出口調査の結果では アロヨ大統領の勝ちとなっているが、民間機関の出口調査に基ずく発表の開票率は23日現在僅か65%にしか過ぎない。(その後5 月31日になってやっと公式集計が始まったが6月12日 現在当選確定はしていない) 5総選挙なので各種選挙が行われたが大統領選挙は現職のアロヨ大統領と人気俳優のポー候補の一騎打ちで、ポー陣営は選挙で不 正があったと連日街頭での抗議行動を行っている。(但しバギオでは無風)流石に度が過ぎると思ったのかポー候補は15日以降 は街頭での抗議行動は行わず、公式発表を待つと発表した。しかし翌日ポー陣営のサポーター責任者はポー候補が言ったからと いって止める訳にはいかないと抗議活動継続を宣言した、いやはやである。 6これに関連して16日付けの新聞にキリスト教関係の団体が全面広告を掲載した。内容は「いつまでも選挙にクレームをつけずに 結果を待ち、その間は通常の仕事に精を出そう。」という呼びかけたもの。今回が2回目の呼びかけとあるから2回目の全面広告 なのであろう。 このような広告を打たなければならない状況を国民はどう思っているのであろうか? |
5 日本男性とフィリッピン女性の結婚 | |||
仲睦ましい斎木氏夫妻 A 関西空港からフィリピン航空に乗った。空港で目についたのが 子供連れのフィリピン人女性の姿である。いづれも堪能とは言えな いまでも日本語を話す。察するに日本人男性と結婚していて子供を 連れての里帰りといった趣である。 B マニラで日本人経営のホテルに泊った。見るからに女性とゴルフが目的で遊びに来たと思える日本人男性とフィリピン女性のコンビが目に付いた。 C バギオでは現地に定住している日本人やヨーロッパ人男性とフィリピン人女性のカップルが仲睦まじく歩いているのが目立った。 この3つのパターンについて女性側からの視点で見てみよう。 フィリピン人が日本で働けるケースは次の4つしかない。 @日本人と結婚してとる結婚ビザ A歌手やダンサーとして入国する就労ビザ(6ヶ月が限度) B日系人が日系であることを証明できる戸籍を探して取得するビザ C日本企業の研修ビザ Aのケースは恐らく歌手やダンサーとして来日し、日本で結婚し たのであろう。日本では水商売の女性との結婚ということで色眼 鏡で見られることが多いが、彼女たちはフィリピン国内での厳し い訓練とフィリピン側及び日本側両方のオーディションを勝ち抜 いて来日したエリートなのである。(以上は斎木氏からの情報) しかし日本での結婚生活は閉鎖的な日本社会に適応できる女性は少なく破綻をきたす場合の方が多いのであろう。 Bのケースは一時的な関係が多いのだろうが中には日本企業の駐在員と結婚しているケースもあるだろう。 Cのケースは男性がフィリピンで根を下ろした生活をしている為うまく行くケースが多いと想像される。 いづれの場合も経済的に見れば羨まれる存在ではある。フィリピンの経済状態は芳しくなく、最大の産業は出稼ぎと言われているくらいである。従ってマニラ以外には就職機会も少なく現金収入は極端に少なく給料は日本の20分の1くらいしかない。外国人と結婚した彼女たちはそうした人々と比べると遥かに羽振りがよく、メイドに出なければならない立場からメイドを使う立場になるのだからその差は大変な差である。フィリピンで生活するのであれば日本人の年金だけでも貧困層から金持ち層へ位を変えることが出来るし、日本で生活するのであれば僅かな仕送りだけでも一族郎党を養っていけるのである。 上記Bの日系人を証明する戸籍探しは日本人ボランティアの活躍で細々と続けられているものの、時間の経過と共に困難さが増している。Cの企業研修という幸運は選ばれたエリートか金持ち層のコネでもないと至難のわざであろう。従って@の結婚ビザ、Aの歌手やダンサーが憧れの的になっている。結婚の経済効果を考えると結婚に際して年齢の差は何の障害にもならないことは当然であろう。 この辺りの事情はタイでも全く同じである。 Bの遊び目的のケースを除いて、我々もフィリピン女性との結婚に対して色眼鏡で見ることだけは改める必要があるのではないか。 斎木氏の話によればフィリピン女性が日本人と結婚するのは年間1万人位で、その内10年以上続くカップルは30%くらいとのこと。 やはり両国の考え方のギャップが大きいのであろう。 |
|||
6ルソン島北西部への旅 | |||
フィリピンには8ヵ所の世界遺産があり、その内4ヶ所はルソン島北部にある。目玉はスペインの古い町並みが残っているビガンと棚田で有名なバナウエである。今回はビガンへ行ったのでその報告である。 スペインがフィリピンに入って来たのは1521年にマゼランがセブ島へ上陸してからで、1898年アメリカに敗れてフィリピンを$2000万で売り渡すまでのおよそ350年間はスペインがフィリピンを統治した。 スペインは海洋国家だったのでフィリピンの港湾を重点的に整備し、アメリカは道路と鉄道の整備に精を出した。ルソン島の西海岸は良好な港があり、スペインの影響を深く受けた地域である。ビガンの町は16世紀には出来ていた様だが最も繁栄したのは17世紀で、それも1720年の大火で消滅し、今ある町並みはそれ以後に作られた町である。従って260年ほど前の町並みということになる。ここまでの話はパンガシナン州在住の斉木氏の話である。 美しいビガンの街並み 町の中心には教会・州庁舎・広場があり、そこを起点に南に350m程スペイン時代の古い町並みが続いている。道は石畳で車は通行禁止、カレッサという名の観光馬車がパカパカとのどかに走っていて郷愁を一層そそる。道の両側には民芸品を中心にしたお土産屋が並び、一定間隔に馬車をイメージしたべンチが並んでいる。家内の買い物の間ベンチに座ってそよ風に吹かれながら地元のお婆ちゃんや子供たちと他愛のない話が出来るのも車が通らないことの恩恵だろう。 翌日はフィリピン最北端に近いラワグまで足を延ばした。途中バタックという小さな町がある。元のマルコス大統領の実家がある町として有名である。マルコス博物館なるものがあって、そこにマルコスの冷蔵遺体が納められている。これだけの人を顕彰する博物館だから当然標識も大きく出ていて立派なものだろうと思って行ったが、案に相違して分りにくいところにひっそりと建っていた。建物も古く写真を中心にした展示物も貧弱で遺体安置場所の表示が何もない。ウロウロしていると物売りをしていた小父さんが近付いてきて「遺体を見たいか?」と聞くので「見たい」と答えたらおもむろに蔵のような戸を開けてくれた。中は流石に手入れが行き届き荘厳な雰囲気には包まれているが、毛沢東やホーチミンの霊廟と比較することも出来ないくらいお粗末である。 国の英雄である毛沢東、ホーチミンと国賊扱いのマルコスの立場の違いを見せつけらた。本来衛兵が守っているべきところを元の熱烈な支持者と思しき人間(或いは親類縁者か)が片手間に管理している。 人間、引き際が大切というがマルコスも引き際さえ誤らなければ英雄として君臨出来たものをと、死んだマルコスに教訓を授けられた思いでそこを後にした。 町の規模にしては分不相応な学校や病院が存在感を強調していた。 恐らくマルコス全盛時代にわが世の春を謳歌した名残であろう。今でもそんなに荒れ果てていないのは、落ちぶれたとはいえ未だ力を持っているイメルダ夫人の影響なのだろうか?それにしては霊廟の落ちぶれようが腑におちない。やはり現政権の睨みが効いているのか? 肝心のルソン島北西部の素晴らしさを述べることを忘れていた。 道路も比較的よく整備され、道中の景色は緑のトンネルに覆われ、火炎樹の橙色とブーゲンビリアに赤色がアクセントを添えてくれる。時々姿を現す海岸線も穏やかで目を楽しませてくれる。沿道の民家はこれがフィリピンかと目を疑うくらい立派な家が多い。ラワグの近くには立派なリゾートホテルとゴルフ場もあり、是非お勧めしたいルートであった。 (写真は美しいビガンの街並み) |
|||
7交通費は安い | |||
バギオでの移動手段の主役はジプニーである。ジープを改造して後ろに2列の座席を設置した乗合バスである。チェンマイのソンテウとほぼ同じものであるがソンテウより少し大き目で、無理したら16人くらい乗れる。 ジプニーの機能はバスだからコースは決まっている。しかし途中どこでも下車出来るし乗車も出来る。日中は数分置きに出ていて行き先も様々で、慣れれば誠に便利な乗り物である。 驚くべきはその料金で区間により少々差はあるが概ね10円である。給料が1万円〜1万5千円/月くらいだから日本の15分の1くらいだろうか。それにしても10円というのはい余りにも安い。因みにバナナは1本5円、有料トイレが10円と比べるとその安さが分る。 ジプニーだけでなくタクシーも安い。初乗りが40円で以後2円単位で上がりバギオ市内ならどこへでも100円もあれば行ける。しかもメーター制で交渉の心配がなく安心して乗れる。 飛行機は日本と比べれば高くはないがフィリピンの物価を考えれば相当に高い乗り物である。マニラ〜バギオは片道4,300円だから日本の半分くらいだろうか。でもフィリピン人には相当に高い乗り物だ。 交通費ではないがガソリンは安くない。大体50円/Lだから日本の半分で飛行機と同じくらいフィリピン人には高い。ガソリンスタンドでみていると日本のように満タンにする人は余りいない。現金が手に入った分だけガソリンを入れる人が結構多い。だから雨降りでタクシーが捕まえにくい時はガソリンスタンドで待っていれば次々とタクシーが来て楽に捕まえられる。 待機中のジプニー フィリピンの総選挙が5月10日に実施された。どこの国でも政治家がやることは同じだなぁと可笑しくなったのが諸物価の値上げラッシュである。選挙が終わるのを待ち兼ねて上がる!上がる!である。 ・ジプニーは最初の4kmが8円→11円(37%)、以後1Kmごとに 1.3円→2円(54%)平均して45%の値上げ。 ・バスは最初の5Kmが8円→12円と50%の値上げ。 ・ガソリンは50円/L→52円と4%の値上げ。但し今年になって既に 何回か値上げしているとのこと。 アジアの国に来る度に痛感するのは日本の交通費の馬鹿高さである。確かに人件費は高い。しかしそれ以上に役所が絡んで競争原理が働かないのが最大の理由と思う。日本の国民はおとなしい、いや大人し過ぎる。そろそろ声を上げて改革を促さなければならない。 |
|||
8 フィリッピン人はスローモー | |||
日本人と韓国人は勤勉との評判が高い。それに比べて東南アジアの人々は余り働かないというのが定説となっている。この評価はフィリピン人にも当てはまるような気がする。東南アジアの人々は暖かい気候のせいで食べるだけならいくらでも自然から享受出来るし着るものもTシャツ一枚あれば凌げる。住居も雨露が凌げれば良い訳で屋根さえあれば壁はなくても痛痒は感じない。従って最低限の生活は保障されているようなものである。だから何もあくせく働かなくても困ることはないのである。 理屈では理解できても実際に遭遇してみるともう少し何とかならないものかと、つい思ってしまう。いくつかの例を見てみよう。 @ 町を歩いているフィリピン人は兎に角遅い。私はもともと歩くのが早い方なので「郷に入っては郷に従え」で努めてゆっくり歩いてもどうしても人々を追い抜いてしまう。現地人から見たらきっと「そんなに急いで何処行くの?」と思われていることであろう。 Aレストランでもウエイターの動きはスローモーだし、同時に用 件を2つ以上はこなせない人が多い。注文して食事が出てく るまでには少々辛抱が必要だ。イライラして催促しようもの なら、同じものが2つ出てくる危険性も頭に入れておく必要がある。この辺りの事情はタイでもそうだし、フランスでも同様であった。但し フランスの場合は人手不足が主な原因である。 但しフィリピン人の名誉のために付け加えると、jolibeeや Chawkingなど最近流行のチェーン店の従業員はどこでもキビキビ働いていた。いくら国民性と言っても訓練すれば出来るという証左であろう。 (写真は:路上で物売りに励む女性(バギオ)) B往きも帰りもフィリピン航空を使った。フライトアテンダント(スチュワーデスと言った方がピンとくるが)に日本人が乗務している。スッチーの働き振りを見ていると日本人の方が倍は働いているように感じる。動きがまるで違う。もっともフィリピン社会でこれだけ働くと かえって浮いてしまうのではないかと余計な心 配までしたくなる。 C娘が日本人と結婚すると決まったらその収入を当てにして親は仕事を辞めてしまう。親族の誰かが外国へ出稼ぎに行く場合でも同 様のこ とが起こるらしい。収入が発生したら辞めるのではなく、収入が見込める時点で仕事を辞めてしまうのである。 Dメイドの給料を上げると喜びはするが一層働こうという発想にはならない。金が出来たので金がなくなるまで休もうという発想になる。 (CDは斎木氏と山田氏の話) 以上見てきたように概してフィリピン人は働かないのは事実だが、それは日本人の価値尺度で考えるからそうなのであって、彼等から見れば日本人の働き蜂ぶりは異常としか思えないのであろう。(今の日本人は昔ほど働かなくなったと思うが、それでも働き蜂には違いはない) |
|||
9−1 バギオ雑感 | |||
@停電 フィリピンに電力事情はまだ安定していないようでしばしば停電があった。ホテルは自家発電装置をしているので直ぐ復旧するが商店街では非常灯やローソク頼みである。 バギオからマニラまでの航空券を買いに行った最中に停電があり、カードでの支払なのでどうするのかと興味があった。すると慌てず騒がずカードの上に請求用紙を乗せ上からボールペンの背中で擦る。すると名前やカード番号など必要項目が請求用紙にプリントされる。それからTELにてカード会社と連絡を取り、全ての情報を口で伝えて信用照会をする。時間は掛かるがこれで無事カード決済が出来る。停電に慣れていない日本ならこういう芸当は出来ないに違いない。 ATV事情 バギオ、ウルダネータ、ビガン、マニラの4都市に泊った。ビガン以外ではどんな小さなホテルでも、或いはアパートでも日本語放送が入る。しかもNHK国際・NHKのBS1・BS2・WowWowの4つが楽しめる。だから滞在意中は日本にいる時以上にニュースはよく見た。 Bインターネット事情 インターネットカフェが主な都市にはある。バギオでは受信は日本語でも出来るが発信は英語でしか出来なかった。料金は40円/Hと大変安い。パソコン持参ならプリペイドカードでプロバイダー契約なしでインタネットが楽しめる。料金は10時間で200円+電話代とこれも安い。因みにプリペイドカードを買ってパソコンへのセッティングは買った店でやってくれるので安心だ。このあたりの事情はタイと同じ。 陽気な子供たち C清潔好きなフィリピン人 ・フィリピン人は清潔好きである。バギオ以外は年中暑いので一日に数回シャワーを浴びる。その度に着替える(洗濯はメイドがするから気にならない?) ・ビガンへ2泊3日で小旅行したとき気がついたが、洗濯物を実にキレイに干している。ロープはピシっと張り、洗濯物は気持ちがいい位整然と吊るしている。特定の家庭ではなく全ての家で見掛けたので本ものであろう。 |
|||
9−2 バギオ雑感 | |||
|