ジャカルタは10月1日からの石油値上げを控えて、大規模な反対デモが計画され、各ガソリンの給油所は値上がり前にガソリンを給油する車で大行列が出来、道路をふさいで、市内のあちこちで大渋滞、まさに騒然とした雰囲気だった。ところが、29日にバリへ帰ると、ガソリンスタンドはガラガラ、人々もおだやかで、空港から宿に向かう途中「バリは平和だなー、やはりバリはすばらしいあ」と感じた直後のこの爆発だった。 ほんとうになんてことをするんだ!この爆発で、やっと立ち直りかけていたバリ人の生活がまた苦しくなる。私たち夫婦はこのようなことがあったとしてもやっぱりバリにいく。私たちのサヌールの宿は平和そのものの場所にある。しかし、友人や知人は誘えないではないか。バリは以下に記すとおり、神々への祈りの島で本当に平和な島なのである。
私にとって旅の第一の楽しみは現地の人々とのふれあいである。そのためには言葉が必要ということで約2年ほど前から、自宅の近所に住むインドネシア人の女性に夫婦でインドネシア語を学んでいる。そして現地に行くと、とぼしい語学力ながらできるだけチャンスを見つけてバリ人とおしゃべりに励む。バリ人は人なつっこくおしゃべり好きでいくらでも相手をしてくれる。知っている言葉を駆使してまずしゃべってみると、彼らはまちがいをていねいに直してくれる。そして商売をしている人は、日本語を教えてくれと言い、熱心にメモしながら日本語の勉強をする。路地や通りでこのようなやりとりをしているとバリ人の生活が目に入る。感動的だった風景 @ 30歳台の華奢な女性が20kgもありそうな足の短い屋台用の食卓を頭のうえに載せてある路地にやってきた。すると2人の男性が彼女に近づき食卓を降ろすのを手伝った。その女性の食卓はバリ人の一般的な食事の一式が乗っている屋台であり、数人がそのまわりで夕食を摂った。客の食事が終わると、また2人ほどが近寄って食卓を女性の頭の上に乗せるのを手伝った。女性はまた見事にバランスを保って20kgの食卓を担いで次へ向かった。女性のたくましさ、周囲の人々のさりげない協力体制に深く感動した。この女性の担いでいた食卓というのは、日本で4人家族の食卓くらいの大きさでその上には、ご飯の釜、おかず類が数種類、皿、スプーンなど屋台の営業で必要なものはすべて載っている。この食卓を頭の上にのせてバランスをとって歩いているのである。周囲の協力体制、この女性のたくましさは信じられない光景であった。 A 路地で2歳くらいの幼児が一人で遊んでいる。周囲には観光客相手の店の女性が数名いる。その幼児が転んだり、泣いたりすると誰かれなく近寄って面倒をみる。結局だれの子どもなのか見分けがつかない。みんな母親のように自然に接している。みんなで子どもを育てている。ここでは母親の育児ノイローゼはないだろう。 B ホテルの前に美容院とワルン(食堂)と衣料品を経営している一族がいる。上は85歳のおじいちゃんから2歳のひ孫までの大家族、道路に面した街路樹の下にテーブルを置いて、客のいないときはここでみんなくつろいでいる。2歳のひ孫は家族みんなに大事にされ、85歳のおじいちゃんは地元の人や、道行く私のような外人の観光客を相手に話に花が咲いている。決して経済的に豊かとは思えないが、精神的にはとても豊か。バリ人の誰もがみせるさわやかな笑顔はこのような豊かな人間関係から生まれてくるのだろうと思う。 サヌールの朝
桟橋はないので、海の中を歩いて乗り降りする。単車や大きな荷物が担がれて積み込まれる。アウトリガーの小さな船は屋根の上まで満員で、少々の嵐でも出航する。日本では有り得ない風景である。海辺のホテルのレストランでこのような風景を見ながらゆっくり朝食を摂る。 シュノーケル 目の前は遠浅の海岸である。潮の流れが非常に速いので、海を知らない私達はいままではこの海に入ることを躊躇していたが、今回は海のベテランLSCの杉本氏といっしょになったのでつれていってもらった。なんと想像以上に色とりどりの熱帯魚がたくさんいて何時間見ていても飽きない。一人で行く時は潮が腰の高さ以下のときでかける。 プール このホテルには色々なプールがある。健康維持のため、長さ80m位の細長いプールで毎日1時間以上歩く。全身運動で心身がほぐれ夜もぐっすり寝むれる。 ホテルのオーナー(チプタ氏とまさみさん) オーナーチプタ氏は日本に留学そして日本で就職、計10年日本で生活したので日本語はぺらぺら。オーナー夫人まさみさんは日本人でバリでも有名なデザイナーである。オーナー夫妻の経営は意欲的で我々に細やかな配慮をしてくれる。バリ独特のおやつを部屋に届けてくれたり、いろいろな行事に招待してくれる。中でも満月の夜、ホテルの中庭での優雅なレゴンダンスのパーテイに招待された時はとても感動した。オーナーの祖父の時代まで、この地方を治めていた王家であったので、オーナーからオランダの侵攻を受けた時のこの王家の歴史等を聞くのも楽しみの一つである。このホテルはバリが観光地として脚光を浴びだした初期にはバリで5本の指に入る高級ホテルであったという。当時、広い敷地にある100以上のバンガローは常に満員の大盛況であったとか。時代は移り、今やあちこちに近代的な高級ホテルが立ち並び、このホテルは衰退の一途をたどっていた。しかし今は現オーナー夫妻の努力で立ち直りつつあるホテルである。私達はこの広い敷地のゆったりとしたバンガローの生活がとても気にいっている
食事 食事は基本的にはホテルで摂る。13人いる料理人が交代で昼夜を問わず注文に応じてくれる。オーナー夫人が日本人ということもあって、てんぷら、麺類、丼などの日本食も用意され、インドネシア料理、バリ料理、いずれも安くておいしい。このホテルは東京LSCの岡田氏の定宿で、岡田氏や同宿の日本人、オーストラリア人、オランダ人なども加わって、バリの焼酎アラックやビンタンビールを飲みながら話に花が咲かせることもある。今回の新しい発見はバリの米がおいしいことである。スーパーで米を買おうとしていたら店員が赤米、黒米、緑豆等をまぜて炊くとおいしいと教えてくれた。バリで買った炊飯器で炊いてみるととてもおいしい。ここの赤米 黒米はもち米なので、緑豆を入れて炊くとまさに赤飯である。赤米 黒米は日本で買うととても高いがバリでは日本の約30分1くらいでとても安い。
買物 朝市へ 朝はまだ暗いうちから10時頃まで朝市が開かれている。バリの市場ではまだ冷蔵の設備がないので、生鮮食料品は朝暗いうちから売られ10時ころには終わる。安くて新鮮である。しかし例によって観光客には値段がつりあがる。今年はインドネシア語で交渉したので、安くしてくれた。(と思っているが実際にはどうだか・・・) スーパーへ ほぼ何でも揃うスーパーが近くにある。ここは定価販売なので安心して買物ができる。このような店で値段を見ておくと、個人の店で安心して買物が楽しめる。日本人は金持ちと思われているから、金持ちからお金をもらう事は当たり前の世界なのでうっかりするとは現地人の10倍以上の値段をふっかけられることもある。 買物を楽しむ (コミニユケーションを楽しむ) 前述のとおり個人の店では定価はない、客の顔を見て値段が決まる。驚いたのは、絵葉書に貼る切手でさえ高く買わされる。のちになってバリの情報誌「ぴあ」で定価は4500RP、日本円で(50円前後)と知った。しかし私はいつも6500RP払っていた。同じホテルの宿泊者は8000RP払っていた。郵便局で買っても油断できない。少し高額の買物をする時は絶対に一度で決めてはいけない。あちこち見て歩いて相場を研究し、それから本格的に交渉に入る。しかし旅行者としてお世話になっていることでもあり、インドネシア語の勉強にも付き合ってもらうのだから、現地の人より気持ち多く出すべきだろうとは思っているが・・・。
ホテルから頼んでもらうタクシーが一番手軽 バリの中心テンパサールまでは約15000RP 1日チャーターで40万RP前後(朝9時〜5時頃) ベモ(乗り合いのミニバス) この料金も最近は毎年値上がりしている。今年は一回3000Rp このベモも私達日本人が乗ると、すぐチャーター便に早代わりして値段がつりあがる。幸いドアはいつも開いているので、このような車からはすぐ降りることにしている。大概は降りようとすると「OK OK」といって3000RPで乗せてくれる。近距離であればどこでも乗り降りできる。 プラマ社のバス 一人ないし二人で移動する時はこのバスが安くて便利 例えばサヌールの我々の宿から同じくLSC神原さんのウブドの宿に行くには、約30分15000RP。どちらの宿も停留所に近くてとても便利。島内の主だったところをつないでいる。ただし便は少ない。3人以上になるとタクシーやベモをチャーターした方が安くなることもある。 バリからの格安航空券 インドネシアは去年よりビザが30日となり、観光ではそれ以上延長できない。そこで大阪のインドネシア領事館に2ヶ月滞在したいがどのような手続きをすれば良いか尋ねると、延長の方法は無いと冷たくあしらわれた。そこでバリのビザを扱う旅行社にメールで相談した。いろいろな方法を教えてもらったが、時間もかかり費用も高い。そんな時私たちのインドネシア語の先生から、とても安い運賃の航空会社があるという情報を得た。マレーシアのAIR ASIA(URL:http://www.airasia.com)である。この会社のキャッチフレーズは「Now Everyone Can Fly」で、誰でも利用できるように価格を抑えている。航空券の購入はインターネットのホームページで予約しカード決済する。予約した画面をプリントアウトし当日飛行場のAIR ASIAのカウンターに持っていて搭乗券と引き換える。もちろん空港のAIR ASIAのカウンターでも直接買える。旅行社はこのチケットはあつかっていない。今回2ヶ月滞在するために、この飛行機を使って一度マレーシアに出国した。航空運賃だけなら往復6000円ほどであった。ややこしい手続きをして大金を払うよりこの方法は得策である。次はバリを起点にこの飛行機でペナン、コタキナバル ランカウイなどのリゾート地に行ってもいいかなと思っている。今回ジャカルタへも2度この飛行機で往復した。機内の飲食サービスは全く無し。インスタントの飲食物が販売されているのみ。
去年から緊急用に海外専用の携帯電話持参、この代金は非常に高いので、普通時はインターネットカフェでメイルを使うことにしているが、今年は特にインターネットカフェのパソコンの動きが悪く、いらいらするのと、時間がかかって結構高くつくので、ケイタイを利用した。結果はやはり高額であった。現地でケイタイを買ってプリベートカードを買ったほうが経済的かも。
友人や仲間と一緒のときは車をチャーターして観光に出かける。車のチャーター代は乗る人数や時間によって違うが、だいたい1日30万〜50万RP。行きたい場所はキチンと指定する。食事も高級レストランはことわり「enak dan murah」を合言葉に 安くておいしい店につれていってもらう。旅行社のオプショナルツアーより効率的で経済的。
印象に残った観光地 サヌールを中心に東へ バリの原住民の村トウナガン村。バリでking of kings と呼ばれるクルンクン スマラプラ王宮、こうもりが群生する聖地ゴワ・ラワ、天日干しの塩田クサンバ 北へ
西へ 海に浮かぶタナロット寺院、メルと呼ばれる塔が美しいタマ・アユン寺院、おだやかで、かわいい猿の森モンキーフォーレスト、月2回くらい催される竹の楽器のジュゴクの演奏会、その村までの途中のライステラス 南へ どこまでも続くジンバランの海岸の夕日とイカンバカール(焼き魚)のレストラン、断崖絶壁の上に建つウルワトウ寺院、ここで催される夕日を背景にしたケチャダンス(別名モンキーダンス)。 中央部の芸術の村ウブド バリの文化、芸能の中心。美術館、ギャラリー 毎日あちこちで催されるバリダンス、バリ音楽ガムラン 見ていて飽きないバリ民芸品の店店。バリ料理、バテイック(染色)バリダンス ガムランなどの観光客むけの教室も多数ある。
バリヒンズー教の総本山 ブサキ寺院とバリ最高峰のアグン山 総本山と聞けばやはり行ってみなければならない。おだやかに見学できる時もあるが、日によっては入山料だ、ガイド料だと次々料金を払わされる日もある。アグン山の中腹にある美しい寺院であるが、ブサキ寺院で観光に携わっている人々の評判は非常に悪い。
ホテルの前の美容院も祭礼、儀礼に行っているといってしょっちゅう閉まっている。子どもの儀礼は学校を休んで行う。したがって我々旅行者も祭礼、儀礼に参加したいと思えば、チャンスはたくさんある。ということで私もいくつか参加してみた。中でも最も驚いたのは7月初旬から準備が始まった(写真)ウブド王家の火葬式である。バリ島で最大、最後の火葬式ということで一度帰国後再度見に行ったのであるが、日本人の常識では計り知れない豪華な火葬式であった。巨費を投じ、長い月日をかけ、多くの人手をかけて葬式をこのように豪華にする、バリ人の人生観、死生観とはいかなるものであろうかと大いに興味が湧いた。以後そのような儀礼があると聞くと出来るだけでかけて、いろいろな儀礼に参加することで、すこしでも、その意味を知りたいと思うようになった。 バリ人が行う人生儀礼を大きく分けると・出生後の儀礼、・成人してからの儀礼、・死後の儀礼があり、この中で特に死後の儀礼に多大の時間と労力と経費が費やされる。すなわち、「死んだ人の霊を祖先の霊の地位まで高める」のだが、その過程を見ると、人が亡くなると@ひとまず墓地に埋葬される(このとき死んだ人の霊は地表を徘徊し、悪霊に近い)。→A火葬式に掘り起こされ火葬され、遺灰は海へ(死者の霊は海にとどまる)ガベン火葬式。→B海にいる霊を呼び戻し、その霊を再び火葬して浄化し海に返す、ムムクル儀礼。→C海にいる霊を祖霊として迎え、山に送るニュガラ・グヌン儀礼、→D祭礼の時、家族の住む屋敷の寺院に来訪し、子孫の祈りをうける。時が来るとその家の子孫として生まれかわる。 またこの各儀礼で興味深いのは、ヒンズーの階級によって、一連の流れに違いがあることである。最高位のヒンズー祭司家、次の位の王家と庶民のやり方は大きくちがっている。私の滞在中、この祭司家と王家の儀礼に参加したので、これらについて次に記録したい。 @ ウブド王家の火葬式 Pelebon 2004年7月23日 火葬される中心人物
普通、火葬式はガベンNgabenと呼ばれているが、このように位の高い人の火葬式で、おおくの庶民とともに行う火葬式をプレボンPerebonと呼んでいる。 共に火葬される人 直系ではないがウブド王家の一つPuri Saren Kangin宮殿の夫人ヘンニーさん ウブドの4バンジャール(集落を単位とする住民のまとまり)の過去4年間になくなった人の58体 ウブド王宮の周辺に用意された火葬式のための建造物 王女ムテルさんの場合
そのタワーの高さ15m付近にムテルさんの遺体を収めるのでその遺体をはこびあげるために仮設階段、背に入れて火葬する牛のはりぼてLEMBU(王族は黒色)、王族しか許されない竜NAGA BANDA ,この竜を火葬場へ運び最後に竜と牛をのせて焼く火葬台など、いずれもヒンズーの神々で美しく豪華に飾られている。今一人の王族のヘンニーさんもの牛のはりぼてとタワーが造られている。 バンジャール地域共同体の人々の建造物
この人々のための建造物は北へ向かう道路には祭壇 西へ向かう道路にタワー 南へ向かう道路に火葬のための動物の乗り物(家によって動物の種類が異なる)が置かれていた。
火葬場への行進
百数十名の男性が担ぐ輿に担がれた牛の背にはこの王家(Puri Saren Kangin)の当主がまたがり、祭の神輿のごとくあおられている。そしてこの日の中心人物王女チョコルダ・ムテルさんの竜naga banda 牛のはりぼて(やはり背には当主がまたがっている)最後に高さ25mのタワーbadeが数百人(数千人?)に担がれてやってきた。 火葬始まる 火葬場に到着すると火葬台の上にはりぼての牛がセットされ、
火葬台には牛とともに竜(Naga banda)が据えられこの竜にも点火された。王族はより高い天界へ行くのでそのための乗り物と思われる。火葬台の下ではすでにヘンニーさんの牛に火が点けられている。まわりは多くの王家のファミリーや観光客でいっぱい。 30分ほど後にはあの高さ25Mの美しいタワーBADEにも点火される。ものすごい勢いで燃え盛り、近くの高い椰子の木に燃え移り、控えていた2台の消防自動車が消火していた。この、見事なタワーBADEも女王ムテルさんの遺体を載せて、1時間ほど火葬場に運ぶ任務を終えることで燃やされる。火葬を終えるまで3時間ほどかかっただろうか。その後遺骨が取り出され、親族の手で拾われ、それを石臼のようなものでさらに細かく挽かれ、聖水で清められ、くりぬいた椰子の実に入れて白布で覆い、人形状に美しく飾られた。祭壇に安置されると、2人のバラモン祭司Pudandaによってさらに数々の儀式がおこなわれ、最後に全員が地べたに座り、花をささげて数回礼拝し火葬場での儀式はおわった。夜の9時半であった。一同バスや車に乗り込み火葬場をあとにした。私たちが見学したのはここまでであるが、王家発行ののパンフレットによると、サヌールの北の海岸、Ketewel Beachで海にまかれたそうである。また、このパンフレットの説明によると、これで葬式がすべて終わったわけではなく、この12日後Maligia Punggalという儀礼がある。この儀礼は火葬式と同等の重要な儀礼で海にながされた霊をもう一度よびもどし、その魂をさらに火葬して再び海に流す。そしてそのさらに3日後、その霊を海に迎えにいき、本山ブサキ寺院で儀礼の後山に送られる(Nyegara Gunung儀礼)。そして、祭礼には家族の住む寺院に来訪して祈りをうけ、いつの日かその家に生まれ変わる。という。
A バラモン祭司家の火葬式 Plebon 2005年7月8日 いつも利用するタクシーの運転手デイルガ氏はヒンズー教の最高位、バラモン祭司の階級である。ある日デイルガ氏に車を頼むとその日はデイルガ家の葬式があるので駄目という。かねてより祭司家の火葬式に興味があったので出席させてもらっていいかと訊ねたところ、快くどうぞといってもらった。亡くなったのは彼のお祖母さん91歳で3月に亡くなったという。 当日7月8日8時デイルガファミリーの式場寺院に到着。すでに門の前には
今回の火葬式の喪主デイルガ氏は91歳の祖母が3月に亡くなってから次々儀式をこなし、パコダや牛の張りぼて火葬台ほかを大勢の人々の手で建造し、これだけ大規模な火葬式をするわけであるから、その費用は莫大なものであろう。それをタクシーの運転手をしながらまかなうわけであるから大変であろうと思い、彼にそういうと彼は「Tidak apa apa大丈夫 大丈夫」という。勿論デイルガ氏が一人で負担するのではなく、一族みんなで負担するのであろうけれど、デイルガ氏のタクシーの収入は、仕事があったりなかったりで、とても安定しているようには見えない。まったくどのようにしてこの費用を工面するのであろうか。どうして「Tidak apa apa」なのか不思議で仕方がない。 B バラモン祭司家の霊の火葬式(第2回目の火葬式) Maligia Punggal 2005年7月21日 次の観光の機会にまたデイルガ氏にタクシーを頼んだ。すると又、彼は、友だちの家で第2の葬式があるから駄目という。そして「観光地はいつでも観光出来るけど、この行事は5年に一回ほどしか見られない大きな行事なので、是非これを見学するように」と勧められた。この行事は去年の王家の火葬式を見学した時、第2の重要な儀礼があると知ったことから大いに興味があったので見学することに決めた。7月21日午前8時半、この儀礼のために仮建設されたサヌールの公園の儀礼場に着く。儀礼の中心となる故人はこの6月1日に火葬式を終えたバラモン祭司プダンダの女性である。
私としてはどうしても費用のことが気になってしまうのであるが、この会場にいた男性の話では、この儀式は「one billion RP」かかっているという。日本円で約1200万円となる。バリ人の平均給料が月50万〜70万RP、日本円で6〜8千円。この祭司家は6月1日に大規模な火葬式(Pelebon)を行っている。その火葬式でもその位の費用が必要であるから余程のお金持ちなのであろう。普通はそのためのお金が溜まるまで待つのでこの儀式は数年から数十年後になるのが普通のようである。ちなみにウブド王家は火葬式の12日後にこの儀式がおこなわれている。今回もこの儀式の一部始終を出来るだけ見逃すまいと、翌朝9時半再び浄化された魂を海におくるまで密着して見学した。午前の部は12時頃、故人の霊を祭ったsukahにいろいろなお供えを供えていったん終了。みんなそれぞれの家に帰って一休み、私も徹夜に備えてホテルで一眠り。夕方5時に再び会場へ。
そして会場の全員でいろいろな花びらを両手にはさんで5回から7回拝む。そのつどささげる花は変える。彼らの各家族も次々に聖水を受けて礼拝する。礼拝がおわると削歯式の少年少女は一段と高い祭司の階に上り、祭司からさらに祝福を受けて終了。(削歯式Potong gigiとは 獣性の象徴である犬歯などのとがった部分をやすりで削って平らにするもので、遅くとも死んで火葬に付されるまでに受けておかないと天界に行けないという、バリ人にとっては結婚式より重要な儀式。多くのお供え物、たくさんの親戚や客を招くことにより、多額の費用がかかるので、このような大きな儀式のとき同時に行われることが多い)
すると会場のすみで数十人の男性がお金を賭けて賭け事をしている。トランプのグループとさいころのグループに分かれている。罰当たりじゃないかと思ったがあとで聞いたところによると、葬式のような行事では賭け事が認められているとのこと。このもうけの一部が儀式用の費用の一部に使われるのだそうである。影絵劇ワヤンは一人の演者によって延々3時間ほど続いた。真夜中の1時半頃から3時ごろまで休憩に入るという。この夜更けに女一人でホテルにかえるのやはり怖い。どうしたものかと思案していると、「Tidak apa apa」と男性ばかりのある一族に誘われて、彼らと共にいろいろな話をしながら過ごした。彼らはインドネシア語やバリ語を教えてくれた。そして私は日本語を教えた。また、バリの料理や行事についていろいろな情報を教えてくれた。2時50分になるとガムランが始まった。ガムランのグループはふた手に別れ、交互に演奏している。3時10分会場の一角で歓声があがったのでその方角へいってみると、お供えに飾られていた紙幣がまかれていた。4時20分 全員地べたにすわってお祈りが始まった。
今ひとつのパコダへ安置される霊は、同じ祭司階級でも少し位がひくいのだそうである。 7時に二つの美しいパコダと共に50体のバンジャールの人の霊がガムランの鉦や太鼓の演奏とともに長い行列となってサヌールの海岸に向かった。
そして最後に奥にあるAlit家の祖霊の前で報告し結婚式終了。その後みんなで御馳走をいただいた。日本の結婚式と雰囲気がまるでちがう。初めから終わりまですべてがオープンで、日本でいう厳粛さは感じない。儀式の間私達はどこで写真を撮っていいと言われた。集まった一族の人々は、特に儀式を見守るでもなく、その間中、それぞれおしゃべりをしていた。すべてが終わって客が帰るとき花嫁花婿は出口で客に挨拶していた。ここだけは日本と同じであった。
D 子どもの成長を海に知らせる儀礼Mesakapan ke Pasih 2005年9月23日 ホテルAlit’s 滞在中の7月、オーナーより9月下旬にこの儀式をするので出席してくださいと招待を受けた。そこで再び9月20日バリへ出かけた。 今回は前日から儀式の準備を見守った。ホテルの海辺のレストランに仮設の儀場が設けられ、プールの周囲には来客用のパイプ椅子がたくさん並べられている。当日の朝8時に玄関へ。玄関にはすでにAlit家の親戚が正装で集まっている。私もこのために作ったバリの伝統の織物ダブルイカットの巻きスカートサルンと揃いの帯スレンダンを身につけて出席。今回の儀礼は3ヶ所で行われた。最初に行ったのはホテルの斜め前に位置する海岸の寺院。ここに着いてみると、入口付近ではホテルAlit’sの男性スタッフがガムランを演奏していた。セキュリテイ担当のたくましい男性、レストランのスタッフ、部屋の掃除担当のスタッフ等、顔なじみの人々がのどかにガムランを演奏している姿はなかなかほほえましい風景であった。寺院の前ではこの地域の祭司とAlit家の祭司プダンダが儀礼台で様々な儀礼を行っている。お供え物の量もすごい。
続いて関係者のみ、近くの本家の寺院の祖霊に行き報告した。そして自宅のホテルに帰り、最後の儀礼を行う。しかし予定の時間が大幅に遅れていたので、先に昼食となり、お客さん全員にご馳走がふるまわれる。ホテルの従業員はみんな一生懸命接待している。子ども達はこの時点で相当疲れている様子。しばらく休憩した後最後の儀礼がレストランに作られた儀礼場で行われた。この儀礼場にも豚の丸焼き2匹、他、山ほどの供え物が積まれていた。祭司によって子ども達とオーナーであり子どもの父親であるチプタ氏に様々な儀礼が行われた。ここでとても驚いたことは、儀礼の最中、回りにいた家族や親族その他の客たちが、全くこの儀式に注目するでもなく、大声で楽しそうにしゃべっていたことである。この日たまたま日本人の家族(祖父母と孫の大学生の兄と妹)が来ていたが、この二人の大学生はとても感じの良い若者で、Alit’s家の家族親族に大歓迎されて式の最中も式場のまわりは大賑わいであった。その賑やかな談笑の中に、儀礼を受けているチプタ氏本人も式場から大声でその話に加わっている。儀礼といえば静粛なものと思っている日本人の私には理解をこえたにぎやかな儀式であった。このようにしてにぎやかに子どもの成長を海に知らせる儀式はすべて終わった。それにしても3ヶ所に供えられていた6人分の計6匹の豚の丸焼き等のものすごいお供え物はその後どうなるのであろうか。オーナー夫人のまさみさんに尋ねてみると、あとで従業員たちが食べるという。
E 日々の儀礼 寺院祭礼(オダラン) バリではこのような大きな儀礼だけでなく日々の儀礼がある。Alit’s家でも係りの女性が毎朝、大きな盆にお供えを載せて屋敷内の数十箇所にお供えを供え、線香を立て、聖水をふりかけている。夜になると沐浴をすませた主人のチプタ氏が家の寺院で祈りを捧げる。 また、島内を走っていると毎日どこかで寺院の祭礼オダランにぶつかる。バリ島内の寺院は3000以上あり、その寺院がそれぞれバリ暦の210日ごとに祭礼を行い、1回のオダランは4日間続くという。女性達は伝統の美しいバリ衣装クバヤ、スレンダン、サルンで身を包み、高く美しく盛られたお供えの果物を頭に乗せて歩く姿は毎日のようにどこかで見ることが出来る。バリの人々はまさに儀礼祭礼を中心に生きている。経済活動から見ると、非常に不合理ではあるけれど、バンジャールの人々が助け合って、神々や祖霊を大切にする精神はすばらしいと思う。バリ人の「tidak apa apa」「大丈夫、大丈夫!」の大らかさにはこのような背景につながるのであろうか。まさに「神々の島、祈りの島」である。 観光地では日本人の観光客とみると、しつこく付きまつわれて閉口することも多いが、バリ人は知れば知るほど温かくそして親切で、その笑顔に心が和む。そして、海から吹く心地よい風、宿のまわりに咲き乱れるブーゲンビリア、ハイビスカス、熱帯雨林を思わす大木の木陰、などが心底ほっとさせてくれる。私達にこのようなやすらぎをあたえてくれるバリ島の平和を心から願わずにはおられない今日この頃である。 (完) |