ナポリとポンペイからソレントへ 

                          田中 孝之記 2005214()

地中海クルーズに御参加の皆様に旅の資料の一つとしてこの一文を提供いたします。

ナポリ港とナポリ湾の向こうにヴェスヴィオス火山を望む

このたびの地中海クルーズではローマを後にして最初の寄港地がナポリ港です。船がナポリ湾に入るにつれて湾の右手にかの有名なヴェスヴィオス火山の山容が見えてくるのです。

実を申しますと4年前世界1周の船旅でドブロクニクの観光の次がこのナポリ港だったのです。ですからこのナポリ港は私にとって懐かしい港なのです。

ただこのナポリ市は大港湾都市であまりにも大きい町なので観光をしてもとらえどころが無かった感じでした。港町を歩いて観光しましたが表通りは車と人の波、裏通りは隅々のゴミ溜まりに嫌気がさしこのナポリの町の観光はそこそこにして船室に舞い戻ったものでした。

翌日はオプショナルのバスツアーでカメオ製造工場への見学をし、その後ポンペイの遺跡とカンツォーネで有名なソレント市への見学に行き其処での観光を堪能したのでした。

今回ネットであらためて調べてみるとポンペイもソレントの町も意外と近く、電車で行くと、ポンペイへは30分ぐらいだし、ソレントでも1時間ぐらいの距離のようなのです。

大阪から京都や神戸へ行く感覚でいいようです。

それ故オプショナルツアーを利用しなくっても何人かまとまってポンペイへタクシーで行ってもいい感じですし、ソレント行きの地方鉄道の駅をナポリ市内で探して行く方法もあります。ポンペイはソレントの途中の駅のようです。

前回はバスで揺られて眠っていたから判らなかったことが調べてみるとわかってくるのも楽しいことですね。

ソレントへは、ナポリから「チルクム・ベスビアーナ鉄道」で約1時間の距離。ベスビオス山の周囲を迂回するように走る私鉄は、途中ポンペイ遺跡を訪れる観光客で混雑する観光列車。のんびりと1時間ほど揺られると終点ソレント駅です。ナポリとはまったく異なる南国ムードのソレントは、カプリ島、アマルフィ海岸への観光拠点になるリゾート地。レモンのリキュール、リモンチェッロや、レモンのリゾットが知られるレモンの町です。  

私たちもソレントではレモン農家を訪ね、レモン攻めに会いました。ここはナポリとは違う海と緑の田舎町でした。

さあ次にポンペイの遺跡を 訪ねてみましょう。

以下HPから借用しました。

ポンペイの歴史
ポンペイ──ナポリの南東、ヴェスヴィオス山のふもとの町。

古代ローマ時代には貴族たちの別荘地として発展し、パクス=ロマーナ期の繁栄ぶりはめざましいものがあった。当時の人口は2万。公共施設が次々と建てられ、建物の構えはローマにひけをとらないほどだった。その悲劇は、79年8月24日にやってきた。

ヴェスヴィオス山が突然、大爆発を起こしたのである。

大地は鳴動して山頂は吹っ飛び、火口がぽっかり口をあけた。きのこ雲は天に達し、かきくもった空の下に、三日三晩、火山灰と火山弾が降り注いだ。泥流は火口をあふれ出し、町を襲った。ポンペイの町にも大量の石や灰が積もり、噴火の翌日までにその灰の深さは5〜7mにも達した。屋根の損壊や有毒ガスによる窒息による犠牲者の数は人口の1割、2000人と考えられている。


その日、博物学者の大プリニウスは、ヴェスヴィオス山から25kmほど離れたミセヌムにいた。昼ごろ、遠くに黒く異様な雲が見えた。どの山のものかはわからないが、まるで松の木のような形で、雲が湧き上がっていた。彼はもっと近くに行って観測するため船で出かけることにした。その間にも次々と報告が入り、また助けを求める手紙も届いて、ヴェスヴィオス山が大噴火をしたことを知った。灰は彼の乗った船の上にも落ち始め、軽石や火に焼けた土や石も落ちてきた。夜になって、ヴェスヴィオスの火柱はいっそう不気味に輝いた。火山灰と軽石でどんどん建物は埋められ、また絶え間のない地震で大地は揺れ、もはや脱出して退却する以外助かる道はないことがわかってきた。

すでに朝で日が高く輝いているはずなのに夜中のように暗かった。たいまつをともして海岸に向かったが、そのとき、硫黄の匂いがあたりにたちこめてきた。

大プリニウスは、2人の奴隷に寄りかかって立ち上がったが、すでにおそく、その場に倒れてしまった。おそらくあまりに濃い煙のため、呼吸ができなくなったのであろう。8月26日の朝、久しぶりに日が差して遺体が発見されたが、どこも傷ついておらず、眠るように死んでいたという。


その後、人々はしだいに火山灰に埋もれたポンペイの町を忘れていった。ただ、そこに町が栄えていた、というかすかな記憶だけが残り、「キヴィタ」(町)と呼ばれた。そして1500年の時が流れた──。

ポンペイの町の名が、ふたたび人々の口にのぼるようになった。

18世紀になって、本格的な発掘調査が始まったのだ。発掘が進むにつれ、古代ローマの美しい町並みと人々の暮らしぶりが、生々しく現われてきた。ポンペイのメインストリート、アボンダンザ通りには、多くの商店が軒を連ね、道路はすべて石で舗装され、車道と歩道とがきちんと区別されている。車道は一段低く造られ、当時は下水道も兼ねていた。そのために交差点には、歩行者のための渡り石が設けられている。上水道の方は給水塔に水をため、その水圧によって鉛製の給水管を通して町の隅々まで給水された。

町の中心には公共広場(フォルム)があり、神殿・公会堂(バシリカ)・投票所・円形闘技場・公共浴場などの建物が並んでいた。人々の住宅の台所では、パン焼かまどの中に炭化したパンが見つかったり、シチュー鍋の中には子豚の肉が入ったままのものもあった。台所はどの家も全体の規模から見て非常に小さい。おそらく、一般の住宅では、素材に買ってきてそれを料理するのではなく、インスタント食品のような半加工品を買って、それを温めるとか、少し調味料を加えるとかして食べたのではないかと思われる。


ポンペイの犠牲者の姿は、火山灰の中の空洞となって残り、それを石膏でかたどったものが、博物館に展示されている。鎖でつながれたまま手足を引きつらせて死んだ犬、両手に金・銀貨をしっかり握りしめた死体、そして、抱き合ったまま死んでいる恋人同士……。それは、もっとも美しい瞬間に突然滅んだ、ローマのタイムカプセルにほかならない


又別のHPを借用して現状のポンペイを見ますと

ポンペイ (1/5)


ポンペイはベスヴィオ火山の南の裾野に栄えた人口約2万5千人の古代都市で西暦79年の噴火で逃げ遅れた約2千人とともに火砕流に埋没していたものが18世紀になって発掘されたことで知られている。
犠牲者の多くは脱出をためらった資産家やその使用人たちとみられる。
ナポリから約30分でポンペイ・ヴィラ・ミステリ駅に着き、駅前の坂を徒歩で5分ほど上ったところで入場券12,000リラ(約850円)を求めた。

マリーナ門 (29KB)


発掘された古代都市は東西約1キロ、南北0.5キロの台地に築かれた城塞の中にあった。

写真はポンペイ西端の海側の入り口でマリナ門と呼ばれている。
門は歩行者用と車両用に分かれていて、今は車両用が観光客の入り口に使われていた。

この付近は今も続いている発掘の作業者が飼っているのかネコの鳴き声がさかんに聞こえていたのが印象に残っている。

中に入るとすぐ左手に北西にそびえるベスヴィオ山を正面に配したアポロ神殿があった。

日時計とアポロの神殿(34KB)

祭壇の左側の白い柱の上には日時計がついていて丁度正午の日差しが降りそそいでいた。
さらに東へ進むと政治・経済・宗教の中心であった広場フォロが続いている。

ポンペイ (2/5)


広場フォロは東西38メートル、南北157メートルの長方形で周囲には公共建築が立ち並んでいた様子でギリシャ様式の石柱の列が残っていた。
天井の残っている建物は無かったが説明では屋根付きのホールもあったらしい。

ギリシャ様式(33KB)

ベスヴィオ山はその後、何回も噴火したらしいので、倒れていた柱の一部が元通りに修復された。

広場の北や東に住宅街が続いているが碁盤の目のような舗装道路が完備していた。
ここでは東西南北よりもベスヴィオ山の方角に合わせて道路がつくられた様子である。

横断歩道(34KB)

両側に歩道が設けられ、石畳の車道は雨が降ったときには排水路になっていたものと想像される。
あちこちに横断歩道と思われる大きな飛び石が置かれていた。
たまたま此の場所の石のひとつは持ち去られて無いが、車輪に削られた跡がくっきりと見え、対向車がすれ違える道幅が用意されていたことが分かる。
どうやら車輪には鉄製のタイヤが用いられていたものらしい。

さあお邸街に進みましょう


ポンペイ (3/5)


住宅街に入ると街角に水汲み場があった。
この水汲み場に続く道に沿って鉛の板を丸めて作った水道管の一部が露出していた。
ベスヴィオ山寄りの最も高い場所につくられた分水場からこの種の公共水汲み場と公共浴場と富裕層の邸の3系統で給水され精巧なポンプや止水栓が用いられていた。
水はレオナルドダビンチが考案した螺旋式回転揚水機などを用いて奴隷の力で運びあげられていたそうだ。

町角の水汲み場と水道鉛管(40KB)

主にブドーやオリーブが栽培され、ブドー酒やオリーブオイルが町工場の規模で生産されていた。
水汲み場の近くには炉と引き臼のあるパン屋さんの跡があった。

パン屋と台所の壁画(46KB)

この引き臼は大人の背丈より少し高い大きなもので、臼に通した棒の両側をロバや奴隷が押して回したらしい。
引き臼のうしろに見える赤レンガの建物でパンを焼いたと説明があった。

水道管に沿った通りを山の方角へ進むと裏通りだったらしく道沿いに何軒かの台所があった。
かまどには鍋などが昔のまま置かれ、壁には魔よけのためと思われる蛇の絵が描かれていた。

つぎは浴室に入ってみましょう


ポンペイ (4/5)


北部のお邸の内部には自家用と思われる浴室があった。
眼がなれても浴槽がよく見えないほど暗かったが、浴槽だけでも6畳敷ほどあった。

浴室内の噴水(40KB)

浴室のとなりの部屋には天窓があり、その真下には写真の大理石の水盤が置かれ、水盤の中央には噴水があった。
床も装飾を施した大理石が敷かれていた。
水盤のふちには人の名前が彫り付けてあるということなので、個人の自家用の浴室ではなくて近隣の邸に住む親族で共有していたものかも知れない。
市内には大きな公共浴場が3つあり、温水浴場や冷水浴場や球技などもできる運動場も備えていた。

さあ中庭へ出てみましょう


ポンペイの最終頁


通りから見るとお邸とお邸は隙間無くくっついているが、それぞれのお邸に中庭がつくられていた。
中庭には人物像や透き通るほど薄く加工された大理石の水盤や噴水が配置されていた。

住宅中庭(27KB)

お邸の壁画にエジプトのナイル河畔の景色がよく見られるのは、壁画を描かされた奴隷たちが故郷の風景を描いたのではないかと思われる。
奴隷とともにもたらされた文化が集まって豊かな工芸技術が花開いたものと考えられる。

あるお邸の壁には丁寧に描かれた秘画もあったが、教育用とも魔除けとも考えられている。
男性器を壁掛けの燭台にしたものもあり、豊かなみのりの象徴であったらしいと説明された。

発掘で発見された空洞に石膏を流し込んで形を現した遭難者の姿が博物館に展示されているが写真を撮るのは忍びなかった。
2001年は「日本におけるイタリア年」であり、「世界遺産ポンペイ展」が日本各地で開かれるが、その説明によると、最近では人を泥流が包んだ空洞を発見すると石膏ではなくて透明なプラスティックを流し込んで「人型」を採取して装身具などの遺留品も見逃さないようにしているそうである。
 

写真だけを以下に見てみましょう。


廃墟から見上げるヴェスヴィオス山

              商店街?

金持ちの邸宅に有った壁画

最後に

この廃墟を見てつくづく感じたことと言えば、ローマ時代の生活は2000年余りの歳月を経た今日とあまり変わらない生活をしていたように思いました。(輸送とIT通信を除いて)

金持ちもいれば貧乏人もおり パン屋さんではパンが焼かれ、酒場では呑み助がぐびぐびと酒を飲み、娼家からは嬌声が上がっていたのでしょう。又金持ちや貴族の館ではゆったりと湯浴みをし美味しいご馳走を戴き音楽の調べに寛いでいたことでしょう。

2000年前とすると日本では縄文時代の頃でようやく稲作が始まったかどうかの時代です。

もちろん当時の日本は文字の無い未開の頃だったのでしょう。

中国では秦の始皇帝の中国統一後 漢の時代に入り漢字がほぼ完成した頃でしょう。

そんなころのローマ時代の人々の生活がタイムカプセルの中から飛び出して来たようなものですから本当に貴重な歴史遺産なのだとおもいます。

                          以上

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