2016年9月15日〜10月1日
神原 克收
目次
1 コソボ入国 | ||
セルビアからコソボに入国した。コソボは2008年に独立宣言をし現在では国連加盟193 ヶ国中111ヶ国が承認している。セルビアは当然独立を認めずコソボ・メトヒヤ自治州として扱っている。そのためセルビアからコソボに入る場合、セルビアからすると自国に入るので出国手続きはしない。逆にコソボは独立国なので当然入国手続きをする。結果としてセルビアには入国したが出国することなくその後の旅を続けることになる。 面倒なのはコソボ(アルバニア人)の中でセルビア人が多数を占める北部はセルビア人が実権を握っていてコソボの支配が及んでいない。そのためアルバニア人が北部国境からコソボに入る場合はトラブルが頻繁に起きる。暫く国境も閉鎖されていたが2週間前から国境が再開されたが車の通過は許されず徒歩でのみ通過できる。 今回はバスの運転手がアルバニア人のため当初はセルビアからマケドニアに入り、それからコソボに入る(赤線のルート)計画であった。ところが前日になって運転手が「北部の別の国境から入れそうだ」との情報を得て青線のルートで入ることにした。 幸いセルビア人の妨害もなくコソボ国境に到達した。コソボ国境では同じアルバニア人でありながら運転手はかなりしつこく尋問を受けていた。この国境を大勢の日本人が観光バスで通過するのは多分初めてのことで、その入国目的をしつこく聞かれたようだ。それでも無事通過でき結果として大幅に時間短縮が出来た。 |
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2 コソボ紛争の歴史 | ||
12-13世紀、セルビア人はコソボ地方を中心としてセルビア王国を建国した。これによってコソボはセルビア誕生の地となった。 14世紀後半迫りくるオスマン帝国に抵抗したがコソボの戦いに敗れセルビア王国は滅亡し、コソボはセルビア消滅の地となった。爾来1878年に独立を果たすまでの500年間オスマントルコの支配を受けた。 オスマントルコ支配の中コソボでのイスラム化が進みイスラム教に改宗した多くのアルバニア人がコソボに入植してきた。一方キリスト教徒もオスマントルコに税金を払い信仰の自由を得ていて、両宗教の共存が出来ていた。 ところが17世紀末のハプスブルグ帝国を中心としたヨーロッパ諸国とオスマントルコとの戦争の際ヨーロッパ側についたセルビア人は戦後オスマントルコに徹底的な報復に逢い、コソボの地を追われた。 1878年にセルビア独立、2度のバルカン戦争を経て1912年にアルバニアも独立を果たす。しかしその際コソボは何故かセルビアに組み入れられた。コソボはセルビア誕生の地であり、消滅の地でもあるというセルビア側の聖地のため、セルビアがコソボ編入に拘ったに違いない。 その後第一次大戦後コソボはユーゴスラビアに、第二次大戦後はチトー率いるユーゴスラビア連邦セルビア共和国の自治州となった。コソボの独立志向は強くアルバニアの後押しを受けて内戦に発展した。戦闘は圧倒的にセルビア優位に進みコソボ虐殺の恐れが出たた1999年 3月にNATO軍がセルビアを空爆しようやく停戦が実現した。この間コソボの数十万人のアルバニア人が難民化した。 一方セルビア軍は1999年6月にコソボから撤退したため、それと同時にコソボ在住のセルビア人もアルバニア人の報復を恐れてコソボからセルビアに避難した。 停戦実現後国連の暫定統治下セルビア・コソボの独立交渉が行われたが決裂し、2008年コソボは独立宣言をし、セルビアはそれを認めないまま今日に至っている。 |
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首都プリシュティーナも繁華街、戦争に明け暮れた街とはとても思えない。 |
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街で出会った学生たちと、正に「戦争を知らない子供たち」。 |
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現在の街は戦乱に明け暮れた街とはとても思えない賑わい |
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5 ガイドの体験談 | ||
今回も昨年に引き続き日本在住のクロアチア人Jさんに同行してもらっている。彼女の祖父母はコソボに住んでいて、子供の頃よく遊びに行った。時代は進んでセルビア人とアルバニア人・クロアチア人の関係が悪化しクロアチア人の祖父はセルビア人に殺害され、墓はコソボのセルビア人支配地区に存在する。 Jさんは今回コソボに来たついでにどうしても祖父の墓に参りたいと意を決して墓参りに挑んだ。この地区はセルビア兵や警官が多数屯していてクロアチア人であることがバレると不測の事態に発展する可能性は極めて高い。この地区にはアルバニア人は顔を見ただけでそれと判るので絶対に入れないが、クロアチア人は顔を見ただけではセルビア人と区別がつき難いが、話をするとすぐにクロアチア人と判るらしい。 彼女は先ず祖父母が住んでいたアパートに行き、たまたま祖父母が住んでいた部屋から住人が出てくる気配を感じ上の階に身を潜めた。目を合わすと普段見慣れない人なので「どなたですか?」と質問されるに違いなく、そうなるとクロアチア人であることがバレる可能性が高い。 その後素知らぬ顔をして大よそ見当をつけていた墓地に赴き、無事祖父の墓を見付けた。そこに留まると危険なので写真も撮らず引き上げて、無事コソボのアルバニア人地区に帰還し我々が待つプリシュティーナに戻ってきた。朝4時に出て8時半の帰着である。(写真が撮れなかった原因は「その時に限ってスマホが動かなくなった」と言っているがそれだけ緊張してスマホの操作が出来なかったのだろうと推測している) そこまで危険を冒して墓参りする気持ちの強さに感嘆するとともに、万一不測の事態になった場合は我々の旅行に大きな影響を与える。責任感の強い彼女がここまで危険を冒して祖父の墓に行く、この辺りの感覚は日本人には理解を超える。 墓に行く前日父母に電話で連絡したが「絶対に行くな」と強く止められたようだが、行った。その日のバスの中であらましの説明をしてくれたが何度も声を詰まらせながらの報告であった。 |
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6 Tシャツの威力 | ||
バルカン半島ではセルビア人とアルバニア人の対立が激しい。コソボは大半がアルバニア人なのでセルビアでコソボやアルバニアのTシャツを着て歩くのはご法度。当然逆にセルビアのTシャツでコソボやアルバニアの街を歩くのは絶対に避けなければならない。 逆にコソボのTシャツでアルバニアの街を歩くと大受けする。写真のTシャツでサランダ(アルバニアの代表的な保養地)を歩いた時の体験を2つ。 (1)街で若い女性3人組と出会った。私のTシャツを見て話し掛けてきて一緒に写真を撮った。その日の晩我々の仲間が夕食を摂っているときその3人娘と出会った。彼女らは「コソボのTシャツを着た人と写真を撮った」と言って昼間撮った写真を見せ、そこから話が弾んで大いに盛り上がったとのこと。仲間たち曰く「神原さんは有名人やなぁ」??? (2)同じくサランでの出来事。コソボのTシャツを着て歩いている時3人の親子連れとすれ違った。彼等が私の方をチラチラ見ながら通り過ぎた。約30 mほど行ったところから先ほどすれ違った娘が駆け戻って来て「一緒に写真を撮りたい!!!」。その間両親は遠くから笑顔で手を 振っていた。 ことほど左様に人種問題を抱えているところでは言動や服装にも気配りが必要である。たかがTシャツ、されどTシャツ、疎かには出来ない。 |
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鷲のマークはアルバニアの国旗 背中側はコソボの地図 |
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若い3人組の女性と |
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親子連れの娘さんと、私が被っているのはコソボの帽子 |
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