少年探偵団 神原 克収 |
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1.治安状況 |
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結論から言うと頗る悪い。街を歩行する際にはお金は勿論のこと、バッグやカメラなどにはひったくられないように常に注意が必要だ。隙を見せると私のようにカメラをひったくられる羽目になる。いくつかの例を挙げてみよう。 1住宅は敷地内には一歩も入り込むことは出来ない。日本でも住宅に施錠することは当たり前だが、庭には簡単に入れる家が多い。しかしペルーでは頑丈な鉄格子で囲っている。まるで檻の中で生活しているようなものだ。 2日本なら住宅の玄関に表札が掛かっているが、ペルーでは皆無である。 3住宅だけではなく、サービス業でも店に自由に出入り出来るところは大変少ない。旅行代理店では玄関を完全に閉ざし、インターフォンを押して入れてもらう。初めての日本人なら店の玄関まで来て、「あぁ、休業だ」と引き返すに違いない。サービス業でも小規模な店では店名表示をしていないところが多い。現に私が宿泊したホテルは番地表示のみでホテル名は一切なし。また、リマではそんなに多くはなかったが小さな商店では格子状のシャッター越に品物やお金のやり取りをしているのを見掛けた。 4大きな商業施設や銀行では例外なく数人の銃携帯のガードマンが配置されている。 5ホテルもガードマンのいる大きなホテルは別として、小さなホテルでは泊り客はインターフォンで連絡しないと入れてもらえない。 以上の状況はペルーだけでなく、今回訪問したボリビア・エクアドル・コスタリカ共通の状態である。それに比べ最近悪化したとはいえ日本の治安は比較にならないくらいにいいことが実感できる。(目次へ) |
2.カメラをひったくられた |
海外旅行は随分してきたが初めて被害にあった。ブタペストで集団スリに取り囲まれカバンを切られる被害にはあったが、実質的な損害はなかった。 状況を説明しよう。時間は15時40分、場所はリマでも比較的安全だと言われているサン・イシドロ地区で人通りの多い通り。写真を撮ってポケットに入れるのを見られていたらしく、後ろからいきないり突き飛ばされ、その瞬間にポケットのカメラを抜き取られた。犯人は30歳代の2人組みで逃げる際紙幣を撒きながら逃走した。悔しいのは瞬間何が起こったのか判らず、つい注意が撒かれた紙幣に行ってしまい、それを拾いに走って彼等の常套手段にまんまと引っ掛かってしまったことである。因みに撒かれたお金はデノミ前の紙幣で完全な紙くずである。通行人は大勢いたが当然のことながら何のアクションもなし。 今から思うと写真を撮ってカメラを盗られ易いポケットに入れたのが最大の反省点である。撒かれたお金に注意を逸らされたのもお粗末だが、すぐに追っ掛けても追い付けるわけもないし、よしんば追い付いても逆襲されるのがオチで、怪我をしなかったのがせめてもの救いと諦めざるをえない。 それ以後注意を厳重にして被害に会うことはなかった。旅の早い段階での教訓だったのが幸いしたのであろう。それにしてもアジア諸国とは一味違う治安状況を肌で体験出来たのは収穫である。(寂しい!) 治安が悪い、悪いといっても通常の注意を払っていれば日常の生活に支障はない。ものを盗られる心配はあるが、夜間人気のところをうろついたりしなければ身体に危険が及ぶ心配はそれほどない。 (追記) 盗難にあったのと同じ仕様のカメラ(キャノン)を買い求め、事後の旅に支障はなかった。世界に羽ばたく日本企業の強さを実感した。因みに価格は日本より2〜3割程度高かった、輸入品だから当然か。(目次へ) |
3.警官の副収入 |
ペルーは観光に力を入れているが治安の悪さが足を引っ張っている。そこで登場したのが観光ポリスである。繁華街のあちこちにポリスの姿が確認でき、相当な数である。観光客にとっては心強い見方であり、大変親切で便利な存在だ。ところが彼等にも裏があり、その実例をご紹介しよう。 |
4.言葉について |
海外に行くとき言葉の問題が付いて廻る。英語が通じれば片言ながら何とかなるが、英語が殆ど通じないところの対処方法を記してみたい。 今回行った所は全てスペイン語で英語は殆ど通じない国ばかり。そこで最低限のスペイン語はやっておく必要があると思い、4月から9月までNHKラジオのスペイン語講座入門編を聞いて俄か勉強をした。実際には放送の半分くらいしか聞けなかったが、それでも辞書を頼りに最低限の意思疎通は出来るようになった。数字だけでも覚えておけば買い物などで大いに役に立つ。また、スーパーでも商品を確認するのに電子辞書に随分助けられた。 電車やバスの中で地元の人との会話を楽しもうとすれば、もう少しレベルを上げる必要があるが、それでも辞書を頼りに何とか会話は成立する。 レストランで役に立つのは「旅の指差し会話帳 ペルー」である。料理や果物などが写真付きのスペイン語で載っているので、これを見せれば注文しやすいし、この本がきっかけで会話が多いに弾むことがしばしばあった。電車の中での地元民との会話もこの本を出すとキッカケが掴み易い。是非ご活用を。 中国では英語は通じないが、漢字で筆談は出来る。タイやインドネシアでは中南米よりは英語が通じるし日本語も少しは通じる。海外旅行では言葉は出来なくても旅自体はなんとかなる。しかし言葉が少しでも出来れば楽しみが倍増することだけは確かである。(目次へ) |
5.タクシーについて |
南米の街にはたいてい16世紀のスペイン侵攻以降に出来た旧市街と、最近出来た新市街がある。観光客のお目当ては旧市街で、宿泊は治安のいい新市街というケースが多い。新旧両市街は概ね3〜5Kmくらい離れていて、タクシーで移動するとペルー約$2、ボリビア$0.9、エクアドル$3.6でとにかく安い。 南米では安全上、個人は勿論客商売の店でも名前を表示しないところが多い。ではタクシーは何を頼りに行くかというと、当然のことながら住所である。住所さえ言えば、キッチリ目的地に連れて行ってくれる。これは日本より優れている。博物館や遺跡などの観光施設はタクシーなら当然知っていると思っていると、意外にも知らないタクシーが多いがこれも正確な住所を言えば確実に到達できる。 運転はお世辞にもおとなしいとは言えない。中国ほどではないが、人よりは車優先、割り込みの強引さ、車線変更はウインカーなしで右へ左へと忙しい。クラクションは目的もなくやたらと鳴らす。車内では賑やかな音楽と騒々しいこと夥しい。エアコンはなく、窓は常に開いているが暖かい国なので寒さは問題ない。しかし排気ガスには大いに悩まされる。 意外だったのは少数とはいえ、信号や渋滞で停まるとエンジンを切る運転手がいることである。環境意識が高いからと思いきや、ガソリンは運転手持ちでガソリン代を節約するのが目的であった。 (目次へ) |
6.偽札の横行 |
リマでは偽札が随分出回っているらしい。日系人の経営するホテルで出会った日本人の若者は銀行のATMから偽札が出てきて、その時クレームをつけなかったので結局ババを掴まされたとぼやいていた。 商店は勿論のこと、タクシーの運転手も必ず真贋のチェックをしているし、一般の市民も少し大きな額のお札は例外なくチェックしている。我々も両替したときや、お釣を受け取った際は必ずチェックするのが習いとなった。 この習慣は最初に行ったペルーで身についたのだが、お陰でペルー以上に偽札の多いボリビアでも被害に会うことなく、ペルーでの学習が大いに生きた。ペルー、ボリビアに限らずエクアドル、コスタリカでも人々は一様に偽札のチェックをしているのが印象的であった。 今回訪問した4カ国のうちエクアドルはUSドルが日常通貨。他の3カ国の紙幣は日本円やアメリカドルと比べればお粗末で、偽札作りは容易だろうなぁ、と素人が感じるくらいだから偽札が横行するのも止むを得ないのであろう。 でもどこかの国のように偽札作りが国家事業とはなっていないのは救いか? (目次へ) |
7.高山病は克服出来た |
今回の旅行での心配事は治安と高山病であった。リマでは日本人経営のホテルに投宿したので多くの日本人と出会い、クスコでの経験を聞くことが出来た。それによると何もなかった人、軽い高山病に掛かった人、重い症状が出た人が夫々3分の1づつであり、重い症状の人はホテルに医者を呼んだり、終日ホテルで休息し観光どころではなかったとのこと。 今回訪れた地域と標高を時系列で記すと次の通りである。 11月12日〜24日 リマ(200m程度) 25日 クスコ(マチュピチュ観光の玄関口、3400m) 26日 マチュピチュ(2400m) 27〜28日 クスコ(3400m) 29〜30日 プーノ(チチカカ湖に面した街、3855m) 12月1〜5日 ラパス(ボリビアの首都、3650m) 6〜10日 キト(エクアドルの首都、2850m) 因みに富士山は3776mである。 高山病対策としてリマ到着からプーノまで毎日5杯くらい高山病に効くと言われるコカ茶を飲んだ。リマからクスコへの機中でダイアモックスという高山病薬を服用し、クスコでの初日にも1回だけ服用した。その他高山病に良くないとされる、アルコールの摂取や日課の柔軟体操などは控え、歩くのも極めてゆっくり歩いた。暴飲・暴食は禁物と言われるまでもなくクスコでは食欲がなく、パン1個食べるのがやっとであった。 出てきた症状は頭痛と早い動悸(脈拍100は超えていたと思う)、それと家内は背中に鉛を背負ったような重苦しさを感じたという。それがマチュピチュへ行くとウソのように何事もなく、遺跡のアップダウンも難なくこなすことが出来た。 マチュピチュからクスコへ舞い戻った27日は微かな頭痛が残ったものの、25日の状態とは様変わりにラクになり、食欲も通常通りに回復していた。29日にクスコからプーノへバスで移動する途中、4335mの地点で休憩したが何の異常も感じなかった。 プーノ(3855m)、ラパス(3650m)では上り坂では流石に息切れしたが、通常では何の苦痛も感じることなく過ごすことが出来、2850mのキトでは日本と同じ感覚で過ごしていた。アルコールも3650mのラパスから再開したが何の問題のなく、南米の美味しい食事を満喫出来たのは幸せであった。今回人間の順応力の凄さに痛く感激した次第である。 (目次へ) |
8.高山病の恐怖 |
前回報告の通り心配していた高山病は克服出来たが、恐ろしい体験もした。3400mのクスコでの初日深夜の2時頃息苦しさで目が覚めた。深呼吸を繰り返しても息苦しさは治まらず、居ても立ってもおられない。大袈裟に言えば窒息するときはこんな感覚になるのかと少々怖さを感じた。暫くしたら少し治まり、寒くもあるので寝ようとベッドに入ると再び息苦しさがぶり返した。 高山病にはアルコール摂取や熱いお湯に浸かるなど血行をよくすることは酸素要求量が増えるので禁物ということを思い出した。クスコの夜は寒く、夜具は毛布3枚重ねで、寝ている間に熱が籠り丁度熱いお湯に浸かったのと同じ状態になったのだと判断し、ベッドと体に籠った熱を放出することにした。夜具を捲ってベッドの熱を逃がすのと同時に、寒さを防ぐため薄手のジャンバーを羽織って40分ほど体の熱を放出した。それと共に毛布を1枚剥がして寝直したら朝までぐっすり眠ることが出来た。 我ながら冷静に対応出来たものだと感心するが、高山病に関する知識を事前に充分習得していたのが幸いしたのだと思う。まさに「備えあれば憂いなし」ということであろう。 お断りしておくが以上の判断はあくまで素人判断で、医者の目から見て適切なのかどうかは判らない。だが無事切り抜けられたことだけは事実である。 (目次へ) |
9.マチュピチュ |
ペルー観光のハイライトはマチュピチュであろう。マチュピチュを語るにはインカ帝国の歴史抜きには語れない。 インカ文明は文字を持たなかったので、その起源については伝説的な域を出ない。比較的はっきりしているのは15世紀初頭からである。 インカ帝国が急速に勢力を伸ばし始めたのは15世紀に入って第9代皇帝の時代からで、スペインに滅ぼされた1532年までの僅か100年ほどの間に、北はエクアドル、南はチリの北部まで4000Kmに及ぶ広大な帝国を完成させた。100年という極めて短期間でこれだけ版図を拡大出来たのは、よほど優れた統治機構があったからであろう。また、優れた社会保障制度により征服された国民がインカ帝国の支配を受け入れたからである。 建築面ではカミソリの歯1枚も通さないと言われる精巧な石組み技術が現在にも残されている。スペインはこうした建物を次々と破壊し、そこに使われていた装飾品の金銀を溶解して、延べ棒にして本国に持ち帰った。 スペインは建物は破壊したが、土台の石組までは破壊できず、その土台の上にスペイン式の建物を建てた。これらの建物はその後の地震で殆ど倒壊したが、インカが残した土台の石組は無傷で残り、現在もそのまま使用されている。 大量にあった司祭用道具の装飾品や支配階級が身に着けた夥しい装飾品にも金がふんだんに使われていたが、それらも全てスペインに金の延べ棒として持ち帰った。 こうしたスペイン人の破壊から免れたのがマチュピチュであり、インカ時代の街が無傷で残っている数少ない遺跡である。 (目次へ) |
10.謎の街マチュピチュ |
マチュピチュはインカ時代の15世紀に造られた街だが、山奥のしかも断崖絶壁の上に造られたため、1911年に発見されるまで存在が分らず、お蔭でスペイン人の破壊から免れた。 マチュピチュは謎に包まれた街である。何故こんな急峻なところに造ったのか、何のために造ったのか、諸説あるものの未だ解明はされていない謎である。 マチュピチュを訪れて驚くことは600年も前に造られた街が見事に残っていることである。勿論石造りだから残ったということはある。しかし、ペルーは有数の火山国で幾度となく大地震に見舞われている。それらに耐えて今日まで完全な姿で残っているのは感動的である。優れた石組技術のなせる業であろう。これらの巨石をどこから、どのようにして運んできたのか、これも謎である。 次の驚きは、段々畑である。一口に段々畑と言っても日本で見られるような柔なものではない。物凄い傾斜地の断崖にへばり付くように造られている。そこに辿り着くだけで大変なところだが得られる耕地は僅かなもので、何故こんな急峻な地に段々畑を造ったのか、これも謎である(お断りしておくが、全てが急斜面ではなく、勿論普通の段々畑もある)。 この他にも数々の謎があるマチュピチュだが、インカは文字を持たなかったのでこれらの解明には困難が伴う。この地に立って遙かな古の謎に思いを巡らせ、謎解きの空想に浸るのは旅の醍醐味である。 (目次へ) |
11.ナスカの地上絵 |
ペルー観光でマチュピチュに次いで人気があるのはナスカの地上絵である。これもマチュピチュに負けず劣らず謎だらけである。最大の謎は何のために作ったのかであろう。時期も紀元前後から800年頃と推定されているがこれも謎。 地上絵について概略のおさらいをしておこう。 ・ リマから440km南、標高620mの砂漠に描かれている。 ・ 描かれているのはクモ、ハチドリ、猿、犬、コンドルなどの動植物が約30、直線や幾何学模様の線、約300. ・ 絵の大きさは10m〜300mと大小様々。 ・ 絵は黒っぽい地肌に幅20cm、深さ10cmくらの溝状で描いている。 これらの絵は地上からは何が描かれているのかサッパリ判らない大きさであり、小型飛行機に乗って空から眺める。3人乗りでパイロットが解説しながら丁寧に見せてくれるので、不思議な光景を堪能できる。 それにしても不思議な絵ではある。周辺は平坦な砂漠地帯で、小高い丘に上がれば幾つかの絵は認識出来ただろうが、大半は絵として識別出来なかったに違いない。飛行手段のなかった時代に、どうやってこれだけ正確な絵が描けるのか?高度な測量技術があったことは間違いない。 何のために?誰が?色々な説が出されているが、どれも胸にスーっとは落ちてこない。これだけの規模のものを造るエネルギーは宗教上の理由か、当時の権力者の強い思い以外には考えられないが、考えれば考えるほど判らなくなる不思議な地上絵ではある。 (目次へ) |
12.遺跡調査の実態 |
リマのホテルで出会った日本人の若者が見事な石のネックレスと博物館でしか見ないような美しい貝を持っていた。一見して遺跡から発掘されたものだと直感した。彼の話によるとサーフィンで知り合ったペルーの友人にお土産として貰ったとのこと。友人の母親は遺跡の発掘調査に一労働者として従事していて、出土品の宝石類や土器などをチョコチョコ失敬しているらしい。これは彼の母親だけでなく、皆な大なり小なりやっているようだ。その母親は拾得した宝石類を使ってネックレスを作ったりはするが、それを売るでもなく親戚や家に来た客人に土産として渡しているという。貧乏で金がないので土産物が買えないから、その代用として渡していると言うのである。 何とも言いようのない呆れた話だが、発展途上国ではこうした実態があるということは紛れもない事実であろう。 (目次へ) |
13.土器に見る性生活 |
インカ文明は文字を持たなかったので、当時の生活を探るには発掘された土器に優るものはない。侵略者スペインは金銀銅ばかりに目が行き、土器には関心を示さなかったとみえ、大量の土器が残されている。 夫々の時代・場所でが数多く残されていて、当時の性に対する考え方が伝わってきて興味津々だ。 インカ時代並びにその前のプレインカ時代にも性生活を描いた土器が多数出土している。大変大胆な構図のものも沢山あるが、全体のトーンとしてはジメジメしたものではなく、カラッと明るい印象である。だからあちこちの博物館で展示されているのであろう。 現在の日本では性は隠微なものとして扱われているが、もともと子孫存続という崇高な目的があり、古代ではもっと大らかな扱いであったに違いないと推測する。しかし日本の出土品でこれほど大胆な性生活を描いた土器にはお目に掛かったことがない。やはり日本では昔から秘めやかな扱いだったのか? 日本語では性生活や性器を現す言葉の種類は、フランス語や英語と比べると遥かに少なく、西側世界から見ると日本人は性に対して貧困と写るようだ。しかし彼らが何と言おうと日本では昔から性は秘めやかなものであり、「あからさまに語ることは品がない」という日本人の感性は大切にしたいものである。 (目次へ) |
14.アメリカ大陸発見はコロンブスではない |
前回も書いたが土器ほど当時の生活を語るものはない。数ある出土品の中で大変興味深い土器を見付けた。場所はリマの天野博物館で、写真撮影禁止のところを頼み込んで撮らせてもらった。写真を見てお判りのようにどう見ても土着の人には見えない。一人はアラブ系、もう一人はどこの民族ははっきりしないが、明らかにアンデスの民ではない。外国人を描いた土器があるということは、当時外国人がいたということに違いない。 コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは1492年、この写真の土器は紀元700年頃だから、コロンブスの遥か以前に外国人が到達していたことになる。 この写真以外に国立博物館には明らかに中国人やアラブ人、それに南方系と思える人を模った土器が展示されている。これらの写真は撮った(撮影可)のだがカメラを盗られたため、残念ながら手元に写真がない。 (目次へ) |
15.快適な長距離バス |
南米での庶民の足は圧倒的にバスである。鉄道のように大きな設備投資を伴うものにはお金が廻らないからである。 長距離は勿論飛行機という選択はあるが、価格が高いのと旅行の風情がないカ往復、クスコ〜プーノ〜ラパスをバスで移動した。 リマ〜ナスカは450kmを途中休憩をしながら7時間で走る。料金は特急バスで2500〜3200円で、今回は初めての長距離バスということで最高クラスを選んだ。2階建てバスの1階部分に僅か9席のみという贅沢さ。座席は広く、150度くらい座席が倒れ、日本の観光バスよりは居心地がいい。勿論トイレ付きだ。 クスコ〜プーノ間は座席が狭く、日本の普通の観光バスくらいの感覚だが、幸いにも最前列の席で素晴らしい景色を堪能出来て大満足であった。 これにもトイレは付いているのだが、ガイド兼車掌が「トイレは緊急用だから使わないで」と言っていた。しかし一人のアメリカ人が使ったら、後から後から皆な使いだし、ガイドは渋い顔をしていた。多分後の掃除のことを考えて渋ったのであろう。 途中の観光スポットで観光したり、トイレ休憩、食事とたびたび停まるので、まっすぐ走れば5時間くらいのところを9時間も掛けて走る。途中4,335mの最高地点でも観光タイムを取ってくれ、荒涼とした景色を楽しむことが出来た。実にノンビリしていて、観光には誠に結構なシステムではある。 (目次へ) |
16.1ドルの威力 |
プーノ(ペルー)〜ラパス(ボリビア)間もバスで移動した。途中の国境でバスを乗り換えるのだが、どちらもおんぼろバスで、特にボリビアのバスは昔の日本の田舎のバスと言った風情。荷物は全て屋根に載せて走るので、途中の停車駅では荷物を持ち去られないように監視をしておく必要がある。 国境で大いに慌てた。バスの中で出入国カードに記入しなければならないのだが、ガタガタ道で走行中は書けない。途中のトイレ休憩の時に書けばいいと、たかを括って転寝をしていたら、いきなり「すぐ降りろ」と急き立てられ、何がなんだか分らない混乱状態でバスを降りた。心の準備が出来ていなかったのでどうしていいか分らず、ウロウロしていたらバスの車掌補助員が寄ってきて色々とアドバイスしてくれ、出国手続き、ボリビア通貨への両替、入国手続きなど全て付きっ切りでサポートしてくれた。 最初の出国手続きのところでチップを$1渡したのが多いに効果を発揮したようだ。国境を越えてからもコパカバーナのバス乗り換え地点まで随分気配りしてくれた。$1の威力がこれほどとは新鮮な驚きであった。 (目次へ) |
17.バスは楽しい(その1) |
高速道路を走る長距離バスだけでなく、近郊の観光地へ行くのもバスが圧倒的に多い。市内はタクシーも走っているが、庶民は当然のことながら安いバスに乗る。バスの車窓に広がる美しい景色が楽しめるだけでなく、バスの車内でも様々な珍しい人間模様が見て取れる。幾つかを紹介しよう。 @ 運転中ドアをあけたまま走るバスが結構多い。南国で暑いから風を入れて涼を取るのが最大の理由である(南半球だから正確には北国)。勿論安全上の問題は特にはないが、日本なら大目玉だろう。 A 市内バスは道路端で手を挙げればどこででも停まってくれる。但し、客の方は大体交差点の角で手を挙げている。 B 街中ではバスが多く、バスを停めるところが混雑していることが多い。特に朝夕のラッシュ時はひどく、そんな時にはバスは2重停車し、客に道路の中央で乗降させている。動き出しているバスに飛び乗ることは朝飯前で、昔の日本でも見慣れた風景である。 C 今回近距離や中距離バスはペルー、エクアドル、コスタリカで乗った。ペルーは車掌付きが多く、その他ではワンマンバスが多い。車掌付きの場合は乗車後料金を払うのだが、混雑していても払った客と未だ払ってない客を実によく覚えているのには感心した。エクアドルは25¢均一だから釣銭は簡単だが、その他の国の運賃は距離制だから釣銭が複雑である。しかしながら運転手は鮮やかな手つきで複雑な釣銭をテキパキと渡している。多分少々の間違いはあると思われるが、そんなことには頓着しないのが南米らしい。我々も$3のところを$5取られたこともあるし、逆に知らぬ強みで25¢で1時間半くらい乗ったこともある。 D どうしても理解出来ないのが売上金の管理である。運転手がネコババしようと思えばいくらでも出来ると思われる。 事実、驚いたことに運転手が途中の店先でバスを停めてミカンを買い求め、売上金から無造作に支払った。全く悪 びれた感じはなく、実に堂々としたものである。 (目次へ) |
18.バスは楽しい(その2) |
E 前回ご報告したのと同じような情景は他のバスでも見受けられた。運転手が店先でバスを停め、テイクアウトのコーヒーを買ってきた。この金がどこから出たのかは確認出来なかったが、カーブの多い坂道をコーヒー片手に右手一本でハンドル操作、鮮やかではあるが、「ムムッ!?」。乗客で不振な顔をしていたのは我々夫婦だけのように思えた。(写真はコスタリカの例) F バス車内に業者が乗り込んできてお菓子や土産物を売りに来ることも多い。中にはCD売りが携帯用の再生機でガンガンCDをかけ、一生懸命売り込んでいる。騒々しいこと夥しいが、客は結構楽しんでいる様子。バックマージンは運転手に入るのか、バス会社に入るのか、多分運転手であろう。 G 南米ではバスの時刻表は一応あることの方が多いが、これが当てにならない。ある始発バス停で1時間に2本しかないバスがほぼ同時に来て、運転手同士が話をして1本を間引いてしまった。それでも乗客からのブーイングはなし。 H 感心することもあった。南米のバスは混む場合が多く、我々が立っているとさっと席を立って譲ってくれることが何回かあった。また少子化で悩む日本では考えられないくらい赤ちゃんを抱いた若い母親が多く、そうした客が乗ってくると例外なく席を譲っていた。 I 混んでいるバスでスリがいるのは当然であるが、混んでいない中長距離バスでも様々な手口の盗難が発生しているらしい。1・2の例を紹介しよう。 但し、これはホテルに同宿した客の経験談や旅行会社の人から聞いた話で、私が経験したことではない。楽しいバス移動も警戒だけは緩めてはならない。 ・リュックを足元に置いていたら後ろの客がわざと水を流し、親切顔で拭くのを手伝ってくれ、そのドサクサにリュック の中の貴重品を抜き取る。 ・中長距離バスでは途中でトイレ休憩をする。その際運転手がバスには施錠をするから大丈夫と言って客を安心させ、運転手とグルの男が残って貴重品漁りをする。 何はともあれ、バスは旅行に欠かせない楽しみの一つである。 (目次へ) |
19.南米式スペイン語 |
一口にスペイン語と言っても各国共通ではない。中国語では北京語と広東語ではお互いに理解出来ないという。英語も中国語ほどの差はないにしても、アメリカ英語とイギリス英語は同じではない。シンガポールの英語はシングリッシュと揶揄されるくらい独特のものらしい。 スペイン語ではzとcは英語でいうthの発音となる場合が多く、日本人には苦手な部分である。しかし南米に行くとこれらの発音はsになり、われわれには大変有難い。 実際にマチュピチュ観光の起点になるクスコは本来Cuzcoであるが、パンフレットや看板などをみているとCuscoと表示している例がしばしば見られる。実際の発音がそのまま表記され、遠くない将来にはCuscoが正式な表記に変わるのかも知れない。 しかし、ボリビアの首都ラパスの表記はLaPazでLaPasという表記は見当たらない。 (目次へ) |
20.チチカカ湖の浮島 |
チチカカ湖はペルーとボリビアの両国にまたがり、標高3,850mと世界で最も高いところにある湖で、琵琶湖の12倍という大きな湖である。 ペルー側の湖畔の町プーノから船で40分のところにウロス島という島がある。島と言ってもトトラという芦のような植物を積んで造った浮島で、ウロス島というのは小は3坪くらいから大は350人が生活する島まで40くらいの島の総称である。島々の移動にはトトロ船を使う。島には約700人が生活し、学校、病院、お店、ホテルなど全て揃っている。小さな畑はあるが、ミャンマーのインレイ湖の浮島のように大規模な畑はなく、米や野菜は飼育した鶏や豚、卵、捕った魚などをプーノまで持って行き、他の食べ物と物々交換で調達する。 島の作り方は簡単で、トトロを刈り取り乾燥して3mほど積み上げるだけでOK。植物だから下のほうは腐ってくるので、毎年新しいトトロを積み足し島の維持を図る。島が流れないように地中に打ち込んだ杭に繋いだり、アンカーで固定する。 トトラの用途は広く、島の土台であり、家畜の飼料、船の材料もトトラである。トトラは湖の浅いところに群生していて、刈り取ってもすぐに生えてくるので絶えることはないという。 ウロス島に住んでいるのはウロウロ族でインカを滅ぼしたスペイン人に追われて住み着いたと言われている。 (目次へ) |
21.車の排ガス |
南米3国(ペルー・ボリビア・エクアドル)の排気ガスには悩まされた。リマも相当なひどさだが、特に坂の多いクスコ・プーノ・ラパス・キトのひどさは目に余る。車検などというしゃれた制度は期待すべくもなく、排気ガスの垂れ流しである。車検制度はあるのかも知れないがとても機能しているとは思えない。 |
22.肥満は国民病 | |||||||
以前アメリカでクルージングをしたとき、船は養豚工場ではないかと思うほど肥満の乗客が多く驚いた経験がある。南米もどこの国でもよく太っていて、中米のコスタリカも例外ではない。欧米では若いうちは比較的スリムだが、南米では老若男女問わず太っている。特に中年以降の女性はひどい。南米に来れば日本人で肥満と言える人は殆どいない。ひどいと言っても、それはあくまで日本人の感覚であって、現地の人は正常と思っているに違いない。日本でも平安時代の美人は「ふっくら」が条件であった。 肥満は遺伝子に負うところ大と思っていたが、そうでもないらしい。リマで静岡県人移住100周年記念コンサートがあり見に行った。日系人ばかりの集りで日本語は話せないが顔立ちは日本人と言う人が大半であった。しかし純粋ペルー人には見劣りするが、立派な肥満体の人が多い。この人たちの遺伝子は混血が進んでいるとはいえ、顔立ちから見れば日本人の遺伝子であろう。にも関らず肥満ということは、遺伝子よりは食べ物の影響の方が強いということであろう。 太っていてもそんなに困ることはないのだろうが、アメリカではエグゼクティブはスリムと禁煙が前提条件になっている。ということは肥満は遺伝子ではなく、個人の意志で撃退出来ることの証であろう。 (目次へ) |
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ボリビアの首都ラパスは坂の街である。空港の標高は4080m、ダウンタウンは3650mで大きなすり鉢状の街である。標高が低いところほど高級で、上へ行くほど家がみすぼらしくなる。ダウンタウンから更に低地へと高級住宅が拡がり、標高3100mくらいまであり、街の高低は実に1000mにもなる。 ラパスはペルーのリマと比べると街に清潔感がある。リマは砂漠で雨が降らないので常に埃っぽい。対するラパスは雨が降るだけでなく、急な坂道が多いのでゴミを全て洗い流してくれ、街の清潔感が維持出来る仕掛けになっている。 ラパスは高地なので酸素濃度は薄く、坂道を登ると息切れがしたり何かと不便なことも多い。しかし高地での生活は悪いことばかりではない。酸素が薄いので金属が錆び難いという利点がある。海岸に近いリマでは車がすぐ錆びるが、ラパスでは10年乗っても比較的新しさを維持出来る。 (目次へ) |
27 散歩はしない |
朝夕の散歩は先進国では勿論のこと、発展途上国でも健康維持のため盛んなところが多い。しかし今回訪問した南米3カ国(ペルー、ボリビア、エクアドル)では全くと言っていいほど目に付かなかった。 考えられる理由としては、@暑い、A治安が良くない、B経済的に余裕がない、などが考えられる。しかし、どれも納得できる理由ではない。 @ ペルーのリマは確かに暑いが、ボリビアのラパスやエクアドルのキトは散歩に差し障るほどの気候ではない。特に朝夕は日本の春のような気温で快適である。 A 治安もスリは多いが、市内で凶悪犯罪が多発していると言う話は全く聞かない。散歩中なら大金を持っていることなど考えられず、物取りに狙われることもない。でも散歩している人はいない。 B 経済的に余裕がない人の方が圧倒的に多いのは事実だが、金持ち層や中産階級層が相当いるのも事実である。この人たちも歩かない。 散歩しない理由がよく解らない。どなたかご存じないですか? (目次へ) |
28.南米の料理 |
ペルーに限らず南米の料理はボリュームが凄い。日本人観光客が多い高級レストランでは日本人向きにボリュームが調整されているが、現地人や欧米人の多い店では高級、大衆向きにかかわらず量が多い。 ペルーのリマで行った中華料理店で焼き飯と八宝菜を各1人前づつ頼んだ。紹介してくれたホテルのオーナーから「ボリューム満点」とは聞いていたが、それにしても度が過ぎている。家内と二人で挑戦して3分の1くらいしか食べられなかった。 ボリビアのラパスでも街のレストランで好物のアボガドサラダ1人前(大)と名前は忘れたが地元の人気料理をそれぞれ1人前(小)頼んで大失敗した。料理、サラダ共に二人で3分の1も消化出来なかった。 リマでの経験から、どこでも二人でサラダ1人前とメイディッシュ1人前を頼むことにしていたのだが、ラパスではつい気が緩んだのか大量?に注文してしまった。 次回から各国の名物料理を紹介することにしよう。 (目次へ) |
29.ペルー北部の料理 |
@ ペルー特にリマの代表的な料理の一つは「セビッチェ」である。白身の魚、イカ、タコなどを酢で〆たもの。紫たまねぎ、香辛料にレモンなどと和える。これがサッパリしていて日本人の口に良く合う。セビッチェの絶対条件は素材の魚類が新鮮であること。従って街の食堂や屋台クラスでは心配で、これを食べるならチャンとしたレストランが望ましい。リマに行ったら是非試して欲しい料理である。 A 肉の好きな人なら「アンティクーチョ」がお奨め。牛の心臓を串に刺し網焼きしたもので大量のフライドポテトと共に供される。日本の焼き鳥を大雑把にしたようなもの。但し日本の焼き鳥のように種類が多くなく、同じ種類を大量に食べさせられるのが不満だ。(写真を撮るのを忘れた) (目次へ) |
30.ペルー南部の料理 | ||||
ペルー南部からボリビアにかけて大きなチチカカ湖が横たわっている。そこで獲れる鱒(トゥルーチャ)料理が豊富である。料理方法はフライや鉄板焼き、バター焼きなど色々あるが、どれもシンプルな味わいで日本人には親しみの持てる味だ。
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31.ボリビアの料理 | ||
ボリビアで印象に残っている料理は残念ながら殆どない。強いて言えばアボガドをふんだんに使ったアボガドサラダくらいだ。口の中に拡がるコクのあるアボガドの風味が旅情を一層引き立ててくれる。一緒に出てくる新鮮な生野菜は野菜本来の味がする。
もう一つボリビアで有名なスナックをご紹介しよう。名前は「サルテーニャ」。 街の至るところで売られている。サクサクの生地(多分トウモロコシの粉と思う)に肉やニンジン、ジャガイモなどが入っている。値段は安いが結構ヘビーで、これを食べるとお腹が膨らみ食事が食べられないので、一度試しただけで止めた。それほど美味しいとも思わなかった。 (目次へ) |
32.エクアドルの料理 |
エクアドルは海鮮料理が豊富とガイドブックには書いてある。中でもカングレホ(蟹)が安くて美味いとのことで楽しみにして行ったが、期待外れであった。カングレホは首都のキトでも食べられるが、海沿いの街グアヤキルが本場とのこと。味はまずまずだが、日本の蟹には及ばない。それでも写真のように非日常の雰囲気で結構楽しめた。 隣の席で家族連れが食べていた海鮮料理も美味しそうだったが、二人では食べきれないので諦めた。う〜ん、残念! (目次へ) |
33.赤道直下とは思えない |
地図でご確認頂きたい。エクアドルの首都キトは赤道直下に位置する。そもそも「エクアドル」とはスペイン語で「赤道」という意味である。赤道直下ながら5〜11月の乾季の日中は25℃くらいで誠に快適である。因みに雨季は31℃くらいで少々蒸し暑いらしい。
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34.キト祭り(その1) |
5日はキト祭りがあると「地球の歩き方」に書いてあるが、それ以上の情報は全く無い。インターネットで散々探したが情報がない。半信半疑でボリビアの予定を一日早く切り上げ、5日にキト(エクアドルの首都)に到着した。街では楽団員がトラックに乗って演奏しながら街を巡回し、お祭りの雰囲気はあるが、街には祭り特有の飾りが何も無い。 夕方からあちこちの店で演奏が始まり、店に入りきれない若者が小雨模様にも拘らず、グラス片手に店の外まで溢れている。街をぶらついたり、ホテルの窓からその様子を楽しんでいたが、付き合いきれずに12時頃寝ることにした。街の喧騒が収まったのは朝方4時頃で、朝起きたら徹夜組もチラホラ見受けられ、やはりお祭りなんだぁ、と実感した次第。 (目次へ) |
35.キト祭り(その2) |
キト到着日は前夜祭を楽しんだが、翌日はパレード(仮装行列)を見に行った。観客を整理するため、日本ならロープを張り、警官や祭りの役員ががんじがらめの規制をするが、こちらは大らかなもので規制など殆どない。「観客の良心にお任せ」と言えば格好いいが、要はノーコントロールである。それでも決定的な混乱もなく、パレードは進行して行く。観客の中には自ら整理に乗り出す人もいて、それはそれなりに何となく統制が取れている。この辺りの雰囲気はチェンマイとそっくりで、心置きなく祭りを楽しめる。 (チェンマイやバリ島の方がもう少し統制が取れているか) パレードの中身はお世辞にも素晴らしいとは言い兼ねる。出し物も殆ど手製で、およそ金は掛かっていないし、事前練習もそれほどしている風には思えない。それでも市民や観光客の楽しむ姿には「しらけ」の欠片もない。さすがラテンの国らしい。金を掛けりゃ良いと言うもんじゃない、と言うことか。 (目次へ) |
36.キト祭り(その3) |
キト祭りはパレードや前夜祭だけではなく、1ヶ月以上文化的な行事が続く。 音楽会、絵画展、パネルディスカッション、弁論大会、スポーツ大会などなど。 そのうちの音楽会(クラシックよりは少々くだけている)を聴きに行った。 観客に家族連れが結構目立つ。日本のように時間通り始まる筈もなく、開演時間が過ぎたら観客から「早くやれ」の手拍子が起きる。それを3〜5分くらいの間隔で断続的にやり、開会の催促をする。結局20分遅れで始まった。 音楽会の最中にも拍手や手拍子が起きるし、知っている曲が演奏されると、演奏に合わせて皆で歌い出す。日本ではお行儀良く聴くことが義務みたいになっているが、こちらでは全くお構いなしで、心底楽しんでいる。音楽に造詣のない凡人にはこんな音楽会があっても良いのでは?と感じた次第。 (目次へ) |
37.赤道記念碑 |
前にも紹介したがエクアドルの首都キトは赤道直下の街である。キトの北方22kmに赤道記念碑があるというので行ってみた。片田舎に似合わない高さ30m、大理石造りの立派な碑である。碑の上には直径4.5mの球が乗っている。周辺を広々とした公園で取り囲み、観光客目当てのお店が沢山並んでいる。閑散期なのか観光客は疎らで、閉まっている店が多い。 碑の内部は4階建で博物館になっている。エクアドル各地の民族の生活様式を写真パネル、模型や民芸品などで紹介をしていて興味深い。 屋上階から眺めるとこの記念碑公園は一つの町を模しているのが判る。道路、広場、レストラン、博物館、土産物店、郵便局、電話局、観光案内所に屋外ステージまで備わっている。 おのぼりさん宜しく、0°--0′--0″の標識の前でハイ、チーズ! (目次へ) |
38.便利な公共交通機関 |
キトの公共交通機関はバスとトロリーバスである。これらは一部を除いて専用レーンを走っているので、渋滞知らずで大変便利な足である。停留所は写真に見るように立派なもので、停留所と言うよりはむしろ田舎の駅に近い。専用レーンと言っても停留所近辺は他の車が入れないように分離帯が設置してあるが、それ以外のところはラインのみで示している所も多い。それでもそのレーンを走る不埒な車は殆どなく、マナーの良さには少々の驚きを禁じえない。罰金が余程大きいのかとゲスの勘ぐり。 キトは東西2km、南北7kmくらいの細長い街で、その狭いところを南北に3つのルートが走っているので、大抵のところへはこれらの公共交通機関で行くことが出来る。飛行場にもこれを利用して行ける。しかも料金は一律$0.25と安く、殆どタクシーに乗ることもなかった。(余談ながらエクアドルの通貨は2000年3月から自国通貨を廃止し、US$を使っている) これと同じ交通システムを採用しているのがジャカルタで、ここでも渋滞を横目にスイスイと快適であったことを思い出す。 (目次へ) |
39.靴磨き |
日本では街頭での靴磨きはすっかり姿を消したが、南米では未だ健在である。面白いのは国によって靴磨きの主役が違うことである。ペルーとボリビアは大人が磨き、エクアドルは子供の専売である。何故そうなのか、聞ける人がいなかったので不明のままである。 小学生くらいの少年だから遊び盛りであろう。彼らは客が少なく閑な時は数人でメンコのようなもので遊び興じている。あるときカフェで靴磨き少年を観察していたら、遊んでいるところを胴元と思しきお兄さんに注意されて、たちまち四散した。彼らは当然学校には行っていないのだろうが、彼らの屈託のない笑顔と手際よく靴を磨く姿を見て、日本の子供達とどちらが充実感があるのかなぁ?と、つい思ってしまう。 (目次へ) |
40.酸素バー |
キトの北方、車で15分のところに最近出来た遊園地がある。ここの売りは標高2500mから4100mまで一気に上るケーブルカーである。途中キトの街が一望出来るのだが、それも3000mくらいまでで直ぐ雲の中に入って何も見えない。 4100mともなるとさすがに階段の上りは少々キツイが、クスコやラパスの高地を経験している我々には別にどうってこともない。しかし抜け目ない商売人はここで 「酸素バー」なるものを開店していた。 何でも試してみたくなる性格ながら、結構いい値だったので馬鹿馬鹿しくてやめた。(具体的な値段はメモするのを忘れて不明) 酸素は10種類くらいの風味をつけて売っているのだが、その中の一つに「Sex on the Beach」というのがあった。はてさて、どんな風味なのか? (目次へ) |
41.純血インディヘナの町 「オタバロ」 |
キトの北、バスで2時間くらいのところにオタバロという有名な町がある。ここは純血インディヘナ「オタバロ族」の町で、毎週土曜日に開かれる土曜市を目当てに全国から客が集ってくる。 オタバロ族の男性は白のシャツに白いサンダル、髪は長く三つ編にして後ろに垂らしている。女性は白いブラウスに黒か紺のロングスカート、黒いサンダル、髪は長く首には幾重にもネックレスを巻いている。男女とも独特のスタイルで、髪が長いのは伝統的に髪を切ることが禁じられているからである。 土曜市に出掛けてみた。広い場所に所狭しと商品が並べられ、まさに壮観。値段交渉も盛んに行われアジアの市場と雰囲気的には共通点がある。 オタバロ族は商才に長けていて、「国から補助が頼りの原住民」という雰囲気は全くない。表情からも彼ら独自の文化と経済力に自信と誇りが感じられ、格差!格差!と騒ぐ雰囲気はまるでないように見受けられ、実に気持ちいい。 (目次へ) |
42.キト寸描 |
1壊れたベンチ ホテル近くを散歩していて写真の通り奇妙なものを見掛けた。瞬間、それが何であるのか判らなかったが、直ぐに壊れたベンチと認識出来た。鋳物の台だけが残り、座る板が腐って無くなったのであろう。いつからこんな状態なのかは定かでないが、雰囲気からして最近のこととも思えず、何とも大らかなことよと感心することしきりである。 2ストリートミュージシャン ストリートミュージシャンは日本でも欧米でも珍しくはないが、キトの街で見掛けたグループは妙に印象に残っている。腕前を判定するほどこちらの耳が肥えていないが、相当の腕前らしいとは素人ながら想像がつく。それよりも第一印象が凄く清潔なのである。演奏している場所も清掃が行き届いているし、服装も上下白でまとめブルーの掛け物も清々しい。 彼らはいつも演奏しているのか、或いはキト祭りで特別に演奏していたのか定かではないが、歩き疲れた身には一服の清涼剤であった。 (目次へ) 南米通信は今回で終了し、次回からコスタリカ通信をお届けします。 |
続く