ラオス通信
目    次
1. ラオス遠望 5. 托鉢について
2. ラオスの船旅1日目 6. ラオスの通貨は?
3. ラオスの船旅2日目 7. 主食はもち米
4. 豊かなラオス、気になるラオス 8. ベトナム戦争の傷跡
1 ラオス遠望
ミャンマーへは贅沢な旅であったがラオスへは一転してバックパッカー並みの旅であった。
数回にわたりそのご報告をします。
ラオスではラオス通貨のキープ、タイのバーツ、アメリカのドルと3つの通貨が流通しています。今回は金額は全てバーツ(B)で表示します。
レートは1B=3円弱(正確には2.8円)です。

 ラオス旅行の概略は次の通りです。
1日目 チェンマイからマイクロバスで国境の町チェンコンへ
(ゲストハウス泊)
2日目 小船でラオス側の町ファイサイへ渡り、船でルアンプラバン へ7時間走 り途中パークベンで一泊(ゲストハウス)
3日目 パークベンから7時間掛けてルアンプラバンへ(ホテル2泊)
4日目 ルアンプラバン観光
5日目 午前中ルアンプラバン散策、午後の飛行機でビエンチャンへ (ゲストハウス 2泊)
6日目 ビエンチャン観光
7日目 飛行機でビエンチャン〜バンコク〜チェンマイへ

1日目
 マイクロバス(以下バス)の乗客は8名、我々3名の日本人と5名の欧州人。
10時半チェンマイを出て途中昼食休憩を挟んで3時半(所要5時間)国境の町チェンコンに到着。泊まったゲストハウスの基本はダブルベッドルーム、我々は3人だったので5人部屋をあてがわれた。ベッドがあるだけの何の変哲もない部屋。シャワーは水のみ。夜は蚊がいるので蚊取り線香を要求したら町で買えという。持参していた液体ベープが役にたった。

 宿のテラスからメコン川を挟んで対岸のラオスの様子がよく分る。夕刻陽が沈み夕焼けが川面に映えて美しい。車は予想していたより頻繁に走っている。バイクが多く車1に対してバイク3くらいか。

 立派そうな建物がいくつも見える。民家にしては大きく立派過ぎる。感じとしてはリゾートホテル風だが、金持ちの住宅なのかも知れない。ラオスの経済はミャンマー以下と聞いていたので意外な感じを受ける。
 タイとラオスの間を小船がしきりに往来している。住民の往来は自由と聞いていたのでそうかと思ったが、翌日確認すると国境を渡る人々を乗せた舟であった。国境の往来が自由なのは町を外れた地方の農民や漁民達らしい。
 国境をなすメコン川に中州があり子供が2人水遊びをしている。大人はこの時期朝夕は皮ジャンやキルティングを着込んでいる人が多く(われわれはTシャツでやや寒いくらい)、どこでも子供は風の子なのであろう。
2ラオスの船旅1日目
早朝ニワトリのコケコッコーと犬の吠き声で目を覚ました。タイ側の鶏とラオス側の鶏の競演で、いづれ劣らぬ美声の目覚ましコールである。
 朝6時ラオス上空が茜色に染まっていく。その茜とラオス領の木々の黒々としたシルエットが川面に映り、あたりを覆う霧と相俟って誠に幻想的な風景を醸し出す。茜色が時と共に鮮やかになり、黒々とした木々も緑色を回復しメコンの朝が静かに明けてゆく。

いざラオスへ出発。
 国境事務所はタイもラオスもお粗末なもの。但しタイ側には立派過ぎるほどの新しい建物が完成していて近々運用を開始するらしい。国境は小船で渡るがどちらの船着場も人工的な構築物は一切なく、天然の岸辺そのままが船着場で素朴そのもの。これで機能的には何の支障もなく違和感はないが、先進国の人々はこれを称して貧しいというレッテルを貼るのであろう。

<ファイサイからパークベンへ>
 タイ、ラオスのイミグレーションは簡単に通過し、ラオス入国ビザは$30でこれも至極簡単。
タイのゲストハウス出発が8時でラオス入国が9時だから大変スムーズというよう。
 ここからメコン川の舟乗り場まではソンテウで送ってもらう。ボートはルアンプラバンまで6時間で行くスピードボートと12時間で行くスローボートがあるが、我々はスローボートで旅情を楽しむことにする。乗船して待つこと3〜40分、乗客は40人ほどで日本人は我々3人のみ、ラオス人が少々で後は全て欧米人。
 10時いよいよ出発。天然の船着場を離れた船は一向にエンジン音がしない。川の流れに乗って亀のようにノロノロ進む。エンジンルームではしきりに木槌の音がする。何のことはない、のっけから故障である。川面に漂うこと30分、他の僚船が客を乗せたまま近付いて来て我々の船に横付けし、暫くの間はそのエンジンで併走する。この間両方の船頭の懸命の修理作業が続く。努力の甲斐あってようやく修理完了。
 1時間遅れの11時晴れて再出発。僚船はお先にとばかりさっさと行ってしまう。もしまた故障したらという不安がよぎるが運を天に任す以外に選択肢はない。乗客の荷物は全てリュックサック、所謂バックパッカーばかり。我々も大きなトランクはチェンマイへ置いてきたので見掛けは立派なバックパッカー。
 暫くは左岸はラオス、右岸はタイの国境を進む。川幅は次第に狭くなり100mくらいだろうか。
いつの間にか右岸に立っている国旗がラオスのものになっている。川岸の情景はタイもラオスも殆ど同じ。風景は時折バナナ畑が見えるくらいで殆どが低潅木ばかり。ラオスもタイも世界有数のチーク材の産地というが、これらはメコン川流域以外で取れるのだろうか?
 単調な風景に飽きた客は読書・居眠り・トランプゲーム・お喋りと様々。隣のイギリス人夫婦から時々お菓子の差し入れがある。こうした単調な旅を慰めてくれるのが流域の人々であり、時折すれ違うスピードボートである。岸辺では魚を投網で捕る人、小船で漁をする人、洗濯する女性、水浴びをする子供達や水牛、材木運びの象などに出会う。人々はこちらから手を振ると必ず手を振って応えてくれる。
 時おり前方から轟音を響かせながらスマートなボートが近付き、あっという間にすれ違って行く、スピードボートである。時速60〜70Kmくらいだろうか?スピードボートに乗ると隣とも話が出来ない轟音と川とはいえ波を叩く衝撃、吹きさらしで猛スピードからくる寒さなどなどいくら速いとは言えこれに乗るには体力勝負の面があり我々としよりの選択肢にはしない方が良い。そうこうしている内に50分遅れで停泊地のパークベンに到着。よくぞ故障せずにきてくれたものとほっとする。
 10軒あるゲストハウスの2番目に上等なゲストハウス(100〜300B)に向かう。狙いは300Bの一番良い部屋だ。他の乗客より一足先に着いて受付らしきところへ行くが誰もいない。そうこうする内に他の客も到着しそのまま部屋の方へ行くではないか。遅れてならじと部屋へ行き、良さそうな部屋を見つけそこをへ泊まろうと思ったら欧州人の女性が入ってきて「it's mine」とのたまう。さては予約でもあるのかと他の部屋を見に行くも夫々良さそうなところは欧米人が座り込み「これは私の部屋だ」と言う。結局150Bの部屋で辛抱する羽目になった。
シャワーは共同でしかも水しか出ない、冷たい!電灯は豆電球に毛の生えたような明るさで本も読めない。でも2人で150Bでは文句も言えまい。食事後早々におやすみなさい。
3ラオスの船旅2日目
翌朝の出発時間は聞く人によって8時、8時半、9時とまちまち。仕方ないから7時半に宿を出て様子を見ていると8時前から乗船する人が出始めた。
行き先を何度も確認しながら乗り込む。今日の船は昨日より遥かにキレイで大きく座席もゆとりがある。昨日顔見知りになった欧米人と今日はビジネスクラスだとはしゃぎ合う。
 9時出発。乗客は約50人で日本人は我々3人と5〜6名のラオス人、あとは全て欧米人。出発してすぐ船のバランスが悪いので2人ほど前の席に移ってくれというので私とアメリカ人が移動した。船には屋根はあるが窓はなく吹きさらしなので朝は相当寒い。そこで私は船の最前部の荷物置き場のリュックの山の中に座る場を確保して風を避けた。ここは運転席に近く操船する船頭親子と会話出来るチャンスを得た。会話は私の拙いタイ語のみ(ラオスではタイ語は通じる)なのでまともな会話にはならないが、それでも暫くの暇つぶしにしては楽しい一時であった。

 運転席近くで見ていると船を操るのも楽ではないと分った。後ろの座席にいる時は気付かなかったが、枯れ木や小さな流木が結構多く、時には動物の死骸も漂流している。それらをスクリューに巻き込まないよう小刻みにハンドルを操作している。また乾季のため水量が少なく浅瀬でもあるのであろう、至るところで渦が巻いている。それを見て地形を判断するのか結構緊張感を持って船を操っている。これでは眠くなる心配はないであろう。
 1時間ほど運転席近くのリュックの特等席にいて元の席に戻った。持参した1冊の本は昨日の内に読みきり、もう1冊持ってくれば良かったと後悔したが仕方がないので景色を楽しむことにした。川幅は50〜70mくらい、単調な中にも注意深く見ていると、竹が新芽を出し淡い黄緑で目を和ませてくれる。ススキの穂はピンクがかった白、バナナや他の木々は同じ緑ながら濃淡があって見ていて実に楽しい。そんな中で何の木か茶色の新芽を出している木があり、遠くから眺めると紅葉しているように見える。岸辺の砂の白、岩の濃いグレー、川面の黄土色、それに木々の様々な色がマッチして長時間見ていても飽きることがない。
 途中4回停船しその都度1〜2名のラオス人が乗降したり、生活物資を降ろしたりした。岸辺の住民の姿は昨日と同じく素朴そのもので旅情を慰めてくれた。途中停船以外にお寺観光(有料)の為の停船をしてくれ(船にとっては結構いい小遣い稼ぎになったはず)1時間半遅れの4時半に無事ルアンプラバンに到着。
 家内が今日こそはちゃんとしたホテルに泊まりたいと言うので$20の部屋にした。快適ではあったが町の中で出会う船の同乗者から「何でそんなに高いホテルに泊まるのか?」と冷やかされた。事実$10以下で快適なホテルはいくらでもある。彼等は大体$5くらいの部屋に泊まっていた。早まれり!と少々悔しい。
4豊かなラオス、気になるラオス
世界の最貧国」という言葉からどこの国を連想されるだろうか?
アジアではバングラディッシュ、ミャンマー、ラオス、カンボジャといったところではないだろうか。
 ミャンマーはミャンマー通信でも触れたとおり、衣食住は豊かだが工業化とインフラ整備は最貧国に相応しい内容であった。カンボジャも内戦で大きく立ち遅れているものの優秀な国民だけに政治が安定すれば立ち直りは早いのではないかと思う。事実最近の復興振りは目を見張るものがあり既にラオスを追い抜いたと、ラオスで逢った日本のビジネスマンが話していた。
 ラオスに就いてはガイドブック等でミャンマーより貧しいと書いてあったが、とんでもない誤りである。タイとの国境付近で見たラオスの第一印象で「貧しくない」と直感した。ミャンマーとの最大の違いは国際的に孤立していないということである。ある意味では各国が援助競争をしている面もあるらしく、あの建物は中国、この橋は日本、その道はフランスと言った具合である。同様に外国資本の投資も進んでいるのであろう。
 豊かさを感じる事例をミャンマーとの比較で見てみよう。
@車は日本車が多いのはミャンマーやカンボジャと同じだが、ラオスではちゃんと左ハンドルである(ミャンマー・カンボジャは右ハンドルのまま)。
Aケイタイ電話はミャンマーでは見掛けなかったが、ラオスでは乗合タクシーの運転手でも持っている。
B道路の舗装はミャンマーでは1車線分のみだが、ラオスでは2車線分舗装。
Cミャンマーでは耕運機や土木機械は見掛けなかったが、ラオスでは至る所で見掛けた。
D民家の見栄えもミャンマーよりはラオスの方が上等に見える。
Eミャンマーの観光地ではしつこくはないが物売りが寄ってくる。ラオスで物売り・物乞いは全く見掛けなかった。

 このように豊かさは急速に進んでいるようだが気になることが一つあった。
人々の表情が暗いのである。タイ・ミャンマー・カンボジャでは一様に人々の表情は明るく、子供の澄んだ瞳や女性の笑顔が随分旅情を慰めてくれる。
 ラオスではどうした訳かこれらの国に比べて笑顔が少なく表情が暗いのが気になってしかたがなかった。
5托鉢について
ミャンマーでは托鉢の現場は見る機会がなかったが、ラオスではじっくり見ることが出来た。ラオスとタイでは托鉢のスタイルが異なる。同じラオスでもルアンプラバンとビエンチャンでは様子が少々異なる。
・ルアンプラバンではお寺が市の東側に集中している。托鉢は東の端のワット・シェントーンから出発する。各寺の僧侶はワット・シェントーンに集まるか途中からお寺単位で托鉢の行列に合流する。行列は市内目抜き通りの中程まで来て大半は右折れして次の路地で再度右折れし元来た方向へ逆に歩く。
そして夫々のお寺へ順次帰着する。市の西側のお寺の僧侶は目抜き通りから右折れせず直進し各自のお寺まで托鉢しながら行進する。目抜き通りには時々観光客がバスでやって来て集団で寄進をしている時がある。恐らく観光プログラムに入っているのであろう、座るゴザと寄進する食料を業者が用意し観光客が横一列に並んで寄進をする様は興味本位の体験プログラムとはいえ、壮観ではある。

僧侶の行列が終わるころになると用意した残りの食料をまとめて寄進する人がいる。するとその僧侶の鉢が忽ち満杯になる。道路脇には籠が用意してあり、鉢が満杯になった僧侶は籠に入りきらないものをその籠に投げ入れる。
その籠を住民の一人が持ち去る。恐らくお寺へ運ぶのか、或いは貧しい人達の所へ運ぶのかいづれかであろう。
・行列は途切れることなく全員が1列に並んで壮観な行列になる。その数約300、市内にお寺が100くらいあるそうで僧侶は恐らく500人以上はいると思われる。小さな町でこれだけの僧侶を養うには市民の負担は半端ではないと思うのは余りにも日本人的な感覚であろうか?
・ビエンチャンではお寺単位で10人前後がバラバラで廻ってくる。寄進する人は1ヶ所に大体4〜5人程度が待っている。お寺によっては寄進を受けたあと全員が整列して寄進者に短い読経をして次へ向かう。寄進者が1人とか2人の場合この読経を省略する場合もあるし、寄進者が何人いようとこれをしないお寺の僧侶もいる。
・寄進する人はゴザを敷いて座って寄進する人、いすに座って寄進する人、立ってする人とまちまちだが、全員履物を脱いで裸足というのはラオスもタイも共通。
・タイと違うのは寄進する人が少しずつ全員の僧侶に寄進する。もち米ご飯を手で千切って文字通り一口ずつ全員に寄進するので結構忙しい。タイではある程度まとめて何人かの僧侶に寄進するのであたらない僧侶もでてくるが、ラオスでは寄進者は全員の僧侶に寄進するのであぶれる僧はいない。タイでは僧侶は寄進者に短い読経をする場合が多いが、しない場合もある。またラオスでは托鉢の時間が短い時間帯に集中しているがタイでは結構長い時間散発的に托鉢が続く。
・タイでは托鉢僧に寄進するだけでなくお寺へ大量の寄進を持ち込む人が結構いる。お寺の中に大きなテーブルが置いてあり、その上に大きな容器が沢山並べられている。寄進者はその容器の中にご飯、果物、スープなど種類別に入れていく。このお寺では寄進を持ち込む住民、托鉢に出る僧、托鉢から帰る僧が同時に見られて大変興味深かった。
・ミャンマーでは大量の寄進をする人がいるらしい。僧侶が数百人いる僧院の一日分の食事を寄進するのだそうだ。そうした大口の寄進がある日は「明日は托鉢には来ません」と事前に住民に触れを出すそうである。こうした日は住民側にとってホッとするのだろか、それとも残念と思うのだろうか?機会があれば聞いてみたいものだ。
6ラオスの通貨は?
政情の不安定な国では自国の通貨に対する信頼性がなく、US$や近隣大国の通貨が使われるケースは多い。ラオスもまた然りである。こうしたケースでは自国通貨ともう一つの通貨の2本立てというのが普通であろう。しかしここラオスでは3つの通貨が日常的に使われている。自国通貨のキープ、USドルそしてタイバーツの3つである。
 驚くべきことはどんな小さな店でも露店でもこの3つを自由自在に操っていることである。ドルでもバーツでも瞬時に計算してお釣りはキープでくれる。
ドル、バーツの両方を同時に使っても全く戸惑うことはなく、極めてスムースに買い物が出来るのである。
 因みに現在のレートは$1=40B=10000キープと単純化されている。為替相場が少し動いて例えば$1=38B=12000キープとなたらどうするのだろう。それでもスムーズな計算が出来るのだろうか?野次馬的でいささか恐縮だが興味はある。
 こうして見ると政治が安定していることの有難さをしみじみと感じる。日本では当たり前で何とも思わないが外から見ると日本の有難さがよく分る。
 因みにミャンマーでは自国通貨のチャットとUS$の二つ、タイはバーツのみである。
7主食はもち米
東南アジアは米文化であるが国によって少しずつ違いがある。
・日本は粘度の高い米でご飯は単独で食べる。
・タイとかミャンマー、ネパールなどは粘度の低い米で副食をカレーのように掛けて食べる。こうした食べ方では日本米のように粘度の高い米では美味しくない。
・ではラオスはどうか?丁度日本とタイの中間のような感じである。米は少し 粘度があってやや日本米に近い。食べ方はタイ方式のカレータイプと日本方式の単独型とある。単独型の場合はもち米が中心でラオ人に「主食は?」と聞くと「もち米」と答える。ラオスではどんなレストランでももち米ご飯はメニューにあるが、タイ・ミャンマーではメニューにあるレストランの方が少ない。
・もち米の味は各国同じようなもの。供し方は竹で編んだ蓋付きの小さな籠に入れて出す。もち米ご飯は乾燥するとパリパリになり不味くなるので乾燥を防ぐため食べる時のみ蓋を開け、ご飯を取ったら直ぐ蓋を閉める。タイではビニール袋に入れたものを竹篭に入れて出すが、ラオスでは籠にそのまま入っていてタイの方が親切。
・以前日本ではアジアの米を外米と称して不味いものの代名詞みたいに使っていた時代があった。今ではこうした偏見はかなり薄れたと思うが、今なお外米は不味いと思っている人も結構いるのではないか。      日本食には勿論日本米だが、タイ料理にはタイ米でないと料理にならない。
 日本米では折角の美味しいタイ料理の味が半減する。他国の食べ物に対する 偏見はほどほどにしなければ恥をかく。
 やはり夫々の国で歴史的に長く続いているものにはちゃんとそれなりの理由があるということだろう。
8ベトナム戦争の傷跡
ルアンプラバンの空港を飛び立って直ぐ窓から見える山々を見ていると至るところで山肌のキズが見えてくる。とても奇異な感じがするので聞いてみるとベトナム戦争の時のアメリカ軍による爆撃の痕だという。
 ベトナム戦争という言葉も少しずつ忘却の彼方に去りつつあるが、久し振りにこの言葉を聞いた。ベトナム戦争の主戦場は勿論ベトナムだが、ラオスが戦場であったことを知る人は少ないのではないだろうか?
聞いた話ではアメリカが手を焼いたベトコンの補給路がいわゆるホーチミンルートで、そのルートがラオスを通っていた。
その補給路を断つためアメリカ軍が激しく爆撃をした、その傷跡が今も生々しく残っているということである。
 古来戦争というのは時の覇権者の勝手な言い分を通すための手段であったが今でもこの理屈は罷り通っている。国際協調だとか国連決議だとかの大義名分は後から格好をつけているだけで、要は強者の論理の飾り付けにしか過ぎない。正義とは時として「強者にとって都合がいい」ことになってしまう。これは古今東西変わることはないのではないか。
世の中スペイン新政権がイラクからの兵力引き揚げを宣言して大揺れに揺れている。この問題も元を正せばアメリカの石油欲しさのごり押しであろう。日本政府も派兵しているがことの良し悪しは別として政治的選択肢としてはアメリカとの力関係からしてやむを得ない選択であろう。
 ラオスの山々の傷痕を見ていると何時まで経っても進歩しない人間の愚かさを見事に表している気がする。
 アメリカのどこかの動物園の入口の鏡に「地球上で最も凶暴な動物」と書いているそうだ。鏡に映った人間を説明した強烈な風刺である。けだし名言ではあるが「地球上で最も学習効果の少ない動物」としても良いのかも知れない。

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