東欧通信
少年探偵団  神原克收
(目次クリックでリンク)
  遺跡と暮らす街、ソフィア
  両替事情
  キリル文字
  古都に想う
  ブルガリアの教会には塔がない
  ブルガリアの対ロシア感情
  ブルガリアの隣国感情
  カザンラクはバラの谷?琴欧州の故郷
  EU加盟準備
10   ブルガリアあれこれ
11   チャウセスクの評価
12   ドラキュラの素顔
13   世界の名城
14   ルーマニア美人
15   鳥インフルエンザ対策
16   昇天祭
17   五つの修道院
18   木の教会
19   聖歌隊員に案内された
20   若者の教会離れ
21   ルーマニアあれこれ(1)
22   ルーマニアあれこれ(2)
23   ルーマニアあれこれ(3)
24   ルーマニア・ブルガリア比較1
25   ルーマニア・ブルガリア比較2
遺跡と暮らす街、ソフィア 

ブルガリアの首都ソフィアに就いてご紹介しよう。人口は110万人で標高550mの高原都市である。周囲を山に囲まれた盆地で水が美味しく、水道水がそのまま飲める。
 この街の歴史は古く、紀元前7世紀に古代トラキア人によって建設され、紀元後は13世紀にバルカン半島全部を支配する隆盛期もあったが、ローマ、ビザンチン、オスマントルコなどによる支配を受ける時期の方が長かった。

 1878年に500年に及ぶトルコ支配から脱し、第二次大戦後の共産党支配を経て1991年から民主主義体制になり今日に至っている。民主化後の15年間に旧ソ連や共産党時代の建物や銅像は全て撤去され、来年のEU加盟を目指して民主化路線をひた走っている。

 こうした長い歴史を物語る遺跡は随所にあり、2000年頃には「市民一人当たり10uの緑を」運動も展開され、緑豊かな美しい街である。今年行ったエジプトや中国が砂漠に近い乾燥地であっただけに、その美しさが際立った。

 印象的なのは旧共産党本部前の地下道に残るセルディカ遺跡で、地下鉄工事の際偶然発見された。2〜14世紀の門や城壁が地下道やショップになっていて、まさに遺跡と共に暮らす街である。
 両替え事情
 今回は日本の各地からの参加で、ブルガリアの首都ソフィア空港での集合である。空港に着いて当座の小銭を両替しておこうと荷物を待つ間に両替に行った。すると1万円=60レヴァという。大体の相場は頭に入れていたので、即座にこれはおかしいと気付き両替を断った。荷物を受け取り外に出て到着ロビーで先着の皆さんと挨拶を交わし、早速両替に向かった。そこでのレートは1万円=120レヴァ、先程の丁度2倍のレートだ。

 空港での両替はソフィアに限らず、ヨーロッパのどこの空港でも多少のトラブルはある。私の経験ではポーランドの空港や、バリ島の空港でも極端にレートが悪かったと記憶している。また、パリのドゴール空港でさえ渡された金額が表示金額より少なく、「少ない」とクレームをつけると何も言わずに即刻不足分を返してくれた。こうしたトラブルを経験された方も多いのではないかと思う。しかし、今回のソフィア空港のように2倍も悪いレートを吹っかけられたのは初めてである。土産物屋でもあるまいし度が過ぎるが、これにまんまと引っ掛かるボンヤリさんがいるから止められないのであろう。

 因みに街の両替所では多少のレート差はあるものの、大変スムーズであったことを付け加えておく。この辺の事情はルーマニアでも同じで大変スムーズであった。ただ、ルーマニアでは日本円はレートが悪く、ドル又はユーロを持参することをお勧めしたい。

 ルーマニアの両替といえば、ガイドが街の両替屋より少し悪いレートで客の両替をして細々と小遣い稼ぎをしていた。これはどこの国に行ってもある話で気を悪くするほどのことではない。

 また、ブルガリア・ルーマニアともユーロとドルは大抵のところで受け取ってくれるので、これらの小銭を持参すればそんなに困ることはない。しかし、小さな店では現地通貨のみの場合が多い。
 キリル文字

 ブルガリアの言葉は当然ブルガリア語であるが、文字はキリル文字で9世紀後半にキリルという僧侶とその兄によって発明された。これはキリスト教の経典をスラブ語に訳すために作り出された文字である。この生い立ちからキリル文字はスラブの国々に拡がり、ロシア語をはじめとしてスラブ系の国では今でもキリル文字が使われている。

 このことはブルガリア人にとって大きな誇りと自信の源泉になっているようだ。ブルガリア人との接触はガイドのみだが、ガイドの口の端々にブルガリア人の矜持が伺われる。特に隣国マケドニアに対しては言葉も殆んど同じのため、弟分のような若干見下した雰囲気が感じられる。丁度タイとラオス、インドとネパールの関係に似ているのかも?と感じた。

 序ながら北隣のルーマニアは2世紀にローマに征服され、ローマ人とこの地方にいたダキア人との混血が進み、それがベースになり東欧諸国では唯一ラテン系の民族である。言葉も当然ラテン系で、そのため両国は仲が悪いというわけではないが、気心がピッタリ合うという関係ではないように見受けた。
 古都に想う
 ブルガリアの中央を東西に走るバルカン山脈の東部に人口7万弱の小さな町ヴェリコ・タルノヴォがある。この町は12〜14世紀に第二次ブルガリア帝国の首都として栄え、最盛期にはビザンチン帝国をも圧倒してバルカン半島全体を支配した時期もあった。帝国滅亡後は衰退の一途を辿って小さな地方都市に成下がり、1879年に500年続いたオスマン朝支配から脱した最初の国会がこの地で開かれるまで脚光を浴びることはなかった。今では東欧でも1,2を争う風光明媚な景勝地として知られている。

 ホテルで迎えた朝、小鳥の囀りで目が覚めた。5分くらいして教会の鐘が朝のしじまに鳴り渡り、小鳥の合唱と相俟って俗世に染まった心を洗ってくれる。時計を見ると5時である。その後も小鳥の合唱は続き、やがて5時半の鐘が鳴るまで囀りが響き渡る。小鳥たちが教会の鐘を催促し、2度目の鐘を聞き終えて、あたかも勤めを果たし安堵して鳴き止むかのようだ。

それにしてもあの小さな体から発する飛び切りの美声は、どんな情報を伝えているのだろうか?気分が悪ければあれほどまでに澄み切った声にはならいだろうに。悩みがあれば人の心を洗うほどの神々しい声にはならないだろうに。

500年続いたオスマントルコの支配時代、35年間圧政が続いたジフコフ政権のときも鳥々の囀りと教会の鐘は鳴り響いたに違いない。被支配者として過ごした日々、密告政治で怯えた日々、人々はどんな気持ちでこの音色を聞いたのだろうか。小鳥の合唱と教会の鐘が人々の萎える心を支えたのは間違いないのであろう。
 ブルガリアの教会には塔がない
 ブルガリアは14世紀末から凡そ500年近くオスマントルコの支配下にあった。オスマン朝の支配は高圧的なものではなく、キリスト教もイスラム教への改宗を強要されることも禁止されることもなかった。しかし多くの制約を受けたのはしかたがない。制約の最たるものが「教会はモスクより高くてはならない」というものである。

ヨーロッパを旅して最も目に付くのが教会であり、教会のシンボルは尖塔であろう。その塔を作るとモスクより高くなるので、ブルガリアの教会には塔がないものが多い。その最たるものが首都ソフィアにある聖ペトカ地下教会であろう。この教会は14世紀に建てられたもので、地下道から屋根だけ地表に突き出している半地下式である。イスラム教全盛時代にあっては止むを得ない選択とは言え、当時の彼等の無念が偲ばれる。外観は窓もなく極めて質素だが、逆に内部は豪華に飾り立てられていて、彼等の鬱憤をぶつけたかのようだ。

地下教会の近くには堂々と聳えるイスラム教寺院があり、征服者と被征服者の力関係を語るにはこれ以上の教材はないであろう。
 ブルガリアの対ロシア感情
 ブルガリアが500年に及ぶオスマントルコの支配から脱出したのは1878年である。露土戦争でロシアが勝利し、その結果ブルガリアは念願のオスマン朝のくびきから脱出することが出来た。このときのロシアに対する感謝の念は大きく、その思いは首都ソフィアにあるアレクサンダル・ネフスキー寺院に表れている。この巨大な寺院は露土戦争で戦死したロシア兵20万人を慰霊するため建立された。1882年から40年の歳月をかけて完成した。この寺院は3つの祭壇があり、中央がロシア、左右はブルガリアと他のスラブ諸国のための祭壇である。

 露土戦争の激戦地であったシプカ村にもロシア正教独特のタマネギ型のドームを持った立派な僧院が建立されている。

 こうした巨大な寺院や僧院は確かに独立を得たことへの感謝の念がさせたことは間違いないだろうが、困窮している独立直後の経済状況の中で、寺院建立の経費は重荷であったに違いない。それでも「建立した」のではなく、ロシアの圧力で「建立させられた」と考える方が的を射ているのかも?と「邪推」した次第。

 こうした事情があったかどうかは別として、ガイドの話を聞いているとロシアに対する感謝の念が伝わってくる。ロシアのお陰で独立を果たした反面、20世紀後半の共産党政権時代はロシアのお陰で経済が停滞した。功罪差し引きすると、やはり独立獲得の方がものが大きいのであろう。                          
 ブルガリアの隣国感情


 バルカン半島は昔から交通の利便性と肥沃な土地を備えた戦略的な重要拠点として各国が入り乱れて争奪を繰り返してきたところである。ブルガリア・ルーマニア両国の現在の領土が確定したのも1940年代初頭のことである。その間両国とも近隣諸国と領土の拡大と縮小、支配と被支配を繰り返してきただけに、現在の国民感情がどうなっているのか興味があった。勿論僅かな滞在日数でそんな微妙な気持ちが判ろう筈もないが、ブルガリアのガイドからは大雑把な感触は伝わってきた。

@ マケドニアには大変親近感を抱いているようだ。何よりもお互いの言語が近いのが最大の原因であろう。経済的にはブルガリアが4倍くらい大きく、少し上から見下ろしているような感じを受けた。これが正しいかどうかは怪しいが、タイとラオスの関係に良く似ているとの印象を受けた。

A ルーマニアとは一番長く国境を接している大切な国である。経済規模で言えばルーマニアが3倍弱大きい。因みに一人当たりのGDPでは殆ど拮抗している。両国の言語は全く異なる。ブルガリアは独自に開発したキリル文字であり、ルーマニアはローマ帝国の支配が長く、民族的にも言語的にも東欧諸国で唯一ラテン系である。従ってお互いの国のことをガイドに聞いてもどちらも殆ど知らない顔をする。本当に知らないのか、知っていない振りをしているのかは判らないが、お互いに親しいという感じは全くしない。丁度タイとミャンマーのような関係か?

B ロシアとも微妙な関係だが、総じて良好な感情のように見受けた。ブルガリアは1878年にロシアがトルコを破ったお陰で、500年続いたトルコ支配から独立を果たした。この恩義は今でも色濃く残っている。但しその後共産党時代に約半世紀に亘って灰色の時代を経験しているが、そのマイナス面を引いても独立をプレゼントしてくれた恩義のほうが強いようだ。

C トルコには500年支配されたが、支配当初から強圧的ではなく、イスラム教への改宗も求めなかったため、500年支配された割にはそれほどの嫌悪感は無いように見受けた。現在はトルコに電力を輸出していることもあり、良好な関係を保っているようだ。

以上は折に触れてのガイドとの会話から、私の一方的に想像したものであり、何の根拠もないことをお断りしておく。

 カザンラクはバラの谷?琴欧州の故郷?

 ブルガリアと聞いて皆さんは何を連想されるだろうか?香水に関心のある方は薔薇を、相撲に興味のある方なら琴欧州を連想されるのではないだろうか。私は「ドナウの彼方」であった。学生時代に通った歌声喫茶で愛唱されていたロシア民謡に「ここは遠きブルガリア、ドナウの彼方」というくだりを今でも鮮明に覚えている。

 ブルガリアのほぼ中央にカザンラクという小さな町がある。普段は何の変哲もない静かな田舎町だが、5~6月にかけてこの町で行われるバラ祭の時期には世界中からドッと観光客が押し寄せる。

 バラの香水は世界の80%がこの地方で生産される。ここで生産された香水の原液が世界の香水メーカーに送られ、そこで「バラの香水」として生まれ変わる。香水の原液1リットル作るのにバラの花3〜4トンを要する。カザンラクで生産される香水は400リットル/年なので、実に1500トン前後の花が消費される計算になる。

 我々もバラ祭を狙ってこの時期にブルガリアに来たのだが、残念ながらカザンラクのホテルが取れず、バラ祭の見学は果たせなかった。ならば、花だけでもしっかり見て帰ろうと、見渡す限り一面のお花畑を心に描き、意気込んで乗り込んだが見事に肩透かしを食った。

 第一、花自体が質素で観賞用のバラのような華やかさは全くない。第二に作付け面積も想像をはるかに超えて小さく、ラベンダー畑の方が圧倒的に多かった。また、既に収穫あとなのかバスから見えるバラ畑はポツン、ポツンとしか現れない。その内ドカっと咲いているだろうと期待しながら走ったが、遂にそれは現れず、写真も撮れなかった。ガイドに「どこか写真の取れるところはあるだろう?」と迫ったが、次のホテル到着が遅れるからと却下され、やむなくバラ博物館の敷地にあるバラ園で写真を撮る羽目とあいなった。今回の旅行の最大の誤算である。

 なお余談ながら琴欧州の故郷もこのカザンラクである。彼の出現以来相撲は勿論のこと日本に対する関心も一挙に高まったらしい。ただ、今でも「日本」から連想することはサムライ、フジヤマ、芸者の域を出ない国民が多いらしい。問題ですなぁ。
 EU加盟準備
 ブルガリアもルーマニアも2007年にEUに加盟することがEU委員会で決議されている。しかし、具体的には加盟の日取りどころか加盟が2007年中に実現するのか否かも怪しい状況らしい。それはEU急拡大の歪みが露呈し、EU側が加盟条件のハードルを高くしていることが影響しているのであろう。

 国民はともかく、ブルガリア・ルーマニア両国政府はEU加盟を熱望しているらしく、着々とEU側の要求を実現する努力をしているらしい。難しいことは僅かな滞在期間で判ろう筈もないが、目に見えた事例をご紹介しよう。

 車のナンバープレートをEUの統一プレートにしなければならない。ルーマニアではその準備は完了しているようにみえたが、ブルガリアでは昔ながらの独自プレートの車が結構いた。5月31日ブルガリアの第二の町プロブディフに入った時、街なかで車の長蛇の列に出会った。聞いてみるとcvレートをEUタイプに交換するための列だと言う。しかも交換期限が5月末とのことで、たまたまこの日が期限の最終日で駆け込みの車が延々と列をなしていたのである。

 未交換車の多さからするととてもこの日で完了するとも思えず、ガイドに聞いたら「8月末までは猶予がある」とのこと。それ以後は多分罰金なのであろう。また5月末を過ぎて交換する車は多分延滞料が科せられるから駆け込みが多いのであろうと勝手に想像した。

 タバコについてもEUの条件がついている。レストランは分煙、エレベータ内は禁煙でこれらは滑り込みで実現しているように見える。中にはホテルのエレベータでは灰皿が未撤去ながら禁煙表示がされているところもあった。

 ホテルのロビーでの禁煙は要求されていないのか、多くのホテルで喫煙していた。どうせならこれもやってくれれば良いのに。
10  ブルガリアあれこれ

・ソフィアでの給料は平均4万円弱/月(地方はその3分の2くらい)だが、我々観光客が接するところでは物価は高く、大雑把に言えば日本の半分くらいの物価感覚ではないだろうか。

・一戸建て住宅には殆んどの家の庭にぶどうが植えてあり、夏の日陰を確保し、秋には収穫してワインや伝統的なお酒「ラキア」を作る。暗黒の共産党政権時代には、これらのお酒がどれほど村人の喉と心を潤したことであろうか。

・ブルガリアと言えばヨーグルトだが、ガイドの話では世界でも一番良く食べる国民ではないかとのこと。平均消費量は400g/日というから相当なものである。日本人の3〜5倍は食べているのではないだろうか。原料は牛、羊、水牛、山羊の乳が使われ、夫々に味が異なるとのこと。残念ながらその違いを試す機会はなかった。

・キリスト教のことは門外漢でよく判らないが、十字を切るときは上から下、左から右というのが一般的らしい。ブルガリア正教では右から左に切るのだそうだ。クリスチャンの顰蹙を買うことを承知の上で言えば、右からだろうと左からであろうと、どうでも良さそうなことを後生大事に何百年も守っている。日本の茶道・華道・相撲など伝統的な世界でも同様のことを大真面目にやっている。伝統とか文化にはこうした様式の継続と言うのが必須事項なのであろう。

・ブルガリアの人口は760万人、20年前は900万人であった。減少の原因は何か。少子高齢化という先進国病に罹るには少々早い気がする。本当の理由は解らないが、その一つに海外移住の問題があるらしい。周辺国との賃金格差が主たる理由だろうが、民主化後の移動の自由がこの傾向に拍車をかけている。ガイドの話では移住先はドイツ、イタリア、ギリシャ、カナダ、アメリカの順だそうだ。彼女(ガイド)の友達も何人も移住しているとのこと。彼女曰く「彼らの選択は正しい。でもいつかは帰ってくると信じているが・・・」と複雑な顔をしていたのが印象的であった。
11 チャウセスクの評価
 今回から舞台をブルガリアからルーマニアに移そう。

チャウセスクに対する我々の印象は秘密警察、密告制度で恐怖政治を敷き、1989年の民主化革命で捕らえられ、処刑された哀れな末路の暴君というものであろう。処刑される状況がTVで全世界に放映されたので、その印象が余計に強いのである。

しかし1965年の党第一書記に就任当初は西側諸国との交易を活発化させ、政治的にはソ連のチェコ侵攻に対し、堂々と反対を表明するなど国民の大人気を博した。暴君化し始めたのは1971年頃からで、その業績?の一つが首都ブカレストに作られた「国民の館」という名の宮殿である。この建物は公的施設としてはアメリカのペンタゴンに次ぐ世界で二番目に大きい建物である。

 この宮殿は部屋数3107を誇り、高さ18m・面積6,600uという大ホールもある。宮殿内部は天井・壁は勿論のこと窓枠に至る隅々まで純金の装飾が施され、床や柱には色とりどりの大理石が使用され、その他使用されている部材は超一級品ばかりであり度肝を抜かれる。

 材料は一級品でも細工や納まりはお世辞にも優れているとは言えない。材料は強権で集めることは出来ても、国民を飢餓に追い込んでまで強行したこの工事には、職人の技術や忠誠心までは動員出来なかったのであろう。

 見方を変えて100年後に目を移せば、この宮殿は間違いなく観光資源として残り、ルーマニアに多くの観光客を集める有力な武器になることは間違いない。世界的にみても後世に残る遺産の多くは、チャウセスクのような気違いじみた権力者によって作られている。さすればチャウセスクの評価が将来「善人」になることはあり得ないまでも、結果として「功労者」になる可能性は否定出来ないのではないか。
12.ドラキュラの素顔
 
ルーマニアと言えばドラキュラを連想する人も多いだろう。我々が描くドラキュラ像は人の生き血を吸い、光とニンニクが苦手というものであろう。このドラキュラ像はイギリスの作家ストーカーにより作られたものである。

 この物語にはモデルがいて15世紀のワラキア公国のヴラド3世である。彼はオスマントルコの支配に敢然と立ち向かい戦い抜いた英雄である。実際に「串刺し公」と呼ばれたように、敵対する人々にありとあらゆる拷問をかけた残忍性も持っていたのは事実のようだ。しかし、拷問は当時としては普通のことであり、敵対するトルコへの見せしめとして、殊更厳しくしたのも頷けることである。また、敵対するトルコにより誇張して伝えられた面もあったであろう。

 このルーマニアの英雄が世にもおぞましい吸血鬼として後世に語り継がれているのは、まさにストーカーの小説のなせる業である。ヴラド3世もあの世でさぞかし悔しがっていることであろう。

 彼の居城ブラン城は今も観光地として多くの人を集めているし、彼の生家は古都シギショアラでレストラン「カサ・ヴラド・ドラクル」として今でも人気を博している。世界的にはストーカーのお陰で悪者扱いされながらも、故国ルーマニアでは英雄扱いされ、尚且つ観光面で故国に貢献しているのがせめてもの慰めであるに違いない。
13世界の名城「ペレシュ城」

 世界で最も有名な宮殿はヴェルサイユ宮殿であろう。豪華絢爛を地でゆく代表である。しかしそれに勝るとも劣らない宮殿がペレシュ城である。

 この城はブカレストの北100kmのシナイアに1875年にカルロス1世がルーマニア王室の夏の離宮として作ったものである。大きさはヴェルサイユに及ぶべくもないが、内部の素晴らしさは決して引けはとらない。ヴェルサイユの豪華さは金銀・宝石・彫刻の施された家具・調度品、カーペット、シャンデリア、タペストリーなど、所謂「贅の限りを尽くした」美しさである。

 一方のペレシュ城は建築・家具・調度に使われている素材(木材・大理石など)の豪華さは当然のことながら、細工の美しさが際立ち「匠の限りを尽くした」美しさである。豪華さの中に何とも言えない品格を感じさせる点ではヴェルサイユを遥かに上回っている。私が今までに見た宮殿ではスペインのアルハンブラ宮殿と双璧をなすものである。

 因みにカルロス1世は19世紀にドイツから招かれてルーマニアの皇帝になった人で、これだけの宮殿を作るにはドイツの財力がバックにあったことは間違いない。

 残念ながらここは写真撮影が厳しく禁じられていて、この美しさをお伝えする手段がない。城に入場してすぐのところで貧弱なパンフレットを売っていたのだが、法外な値段(1000円くらい?)に憤慨して買わなかった。しかしそこ以外では買えないと後で分り、買っておけば良かったと後悔しきりである。これだけの宮殿がありながら、その写真集の一つもない商売気のなさと、貧弱なパンフレットを法外な値段で売る狡すっからしさのアンバランスに呆れるばかりである。


               
14 ルーマニア美人

 欧米に旅していつも思うことは若い女性の美しいことである。そしてそのスタイルのいい美しさが20代後半から急速に失せてブクブク太りだし、肌艶は急速に衰える。美しさをアジアと比べると、20代前半までは圧倒的に欧米が勝り、30代以降はアジアが勝る。

 欧米のなかでもルーマニアは特に美人の産地として有名らしい。確かに若い女性は「絵にも描けない美しさ」の人も目に付き、美人の産地というのも頷ける。これはルーマニアが東欧で唯一ラテン系民族といわれることと関係していて、スラブ系とラテン系の混血がこの美しさをもたらしたのであろう。

 この美人達が30代から見事に太りだし、皆がみな相撲取りのような体型になり、肌はしみだらけになって見る影もなくなる。これは男女ともにいえることで、70台と思われる人が実際は50台である場合が多い。アジア人は逆に70台の人でも50台に見える人が多い。

 これはDNAのなせる業とは思うが、多分に食生活が影響している。アメリカでは肥満を国民的社会病として対策に乗り出しているらしいが、著しい成果が出ているとはお世辞にも言えない。ましてルーマニアでそういう動きがあるとは思えないので、今後ともルーマニア美人の賞味期限は20代までに限定されるのは仕方ないのであろう。

 それにしてもこうした連中と航空機の料金が同一というのは何としても腑に落ちない。荷物に重量制限があるのに、人間にないのは可笑しいと思いませんか?あっ、これって美人の話とは関係ないすっよね。
15 鳥インフルエンザ対策

 ルーマニア国内を移動中、頻繁に車の消毒が行われた。一日平均2〜3回くらい出くわしたであろうか。多いときには40分間で3回という日もあった。勿論街中ではなく郊外から田園地帯にかけてである。車で走っていると検問所らしきものが出現し、車を徐行させて両サイドから車全体に消毒液を吹き付ける。車の通行量がそんなに多くないので渋滞する程でもないが、バスの窓が曇り観光には少々無粋ではある。雨の日にも実施されていたので雨降りでも消毒効果はあるのだろう。

 この風景をバスの一番前で写真に撮ろうとしたら、ガイドから撮影禁止だと止められた。仕方ないので座席から何枚かの写真を撮ったが、ご覧の通り満足な絵は取れず雰囲気をお伝え出来ないのは残念である。

 こうした予防措置はルーマニアのみで、ブルガリアでは全く見られなかった。ルーマニアで鳥インフルの発生が特別多いかというと、そうでもないようで、政府の方針としか言いようがない。多分製薬メーカーの政治力がものをいったのかもしれない。いや、下衆の勘ぐりは止めて素直にルーマニア政府の姿勢に拍手を送ろう。

 日本の防疫体制はしっかりしているが、中国、タイ、インドネシアなどにこのルーマニアの「転ばぬ先の杖」を見せたいものではある。
16 昇天祭

 ルーマニアといえばすぐドラキュラを連想する。その生家がある世界遺産の町シギショアラから、「5つの修道院」で有名なブコヴィナ地方へ移動する道中で賑やかなお祭に出くわした。写真を撮るため車を停めて祭の会場に入っていった。会場は町のサッカー場と思しき芝生の広場で、ステージ上では踊りや音楽が演じられていた。参加者は全員伝統的な民族衣装を纏い、陽気に歌ったり踊ったりして楽しんでいる。聞くと昇天祭のお祭りという。 

突然闖入した東洋人は彼らには珍しいらしく、カメラを向けるとポーズをとって応じてくれる。彼等と一緒に写真を撮りたいと言えば大歓迎である。中には一緒に踊れと盛んにけしかけてきて、手を取って踊りだす人もいる。こうした気さくさや陽気さはスラブ系やゲルマン系ではなく、ラテン系のものだ。東欧では唯一のラテン民族と言われるルーマニアらしさを実感した一コマであった。

蛇足ながら昇天祭について広辞苑で調べてみたら「キリストの昇天を記念し、復活後40日目の木曜日に行う祭」とある。また昇天祭そのものは厳粛なもののようだが、今回出くわしたお祭は関連行事の一つなのであろう。門外漢の小生は昇天祭がいつなのかは知らないが、この日は木曜日ではなく日曜日であった。全員が参加しやすい日に移すことは神様もお許しなのであろう。
17 五つの修道院

 ルーマニアの北部、ウクライナとの国境近くのブコビナ地方に多くの修道院が残されている。15世紀から16世紀にかけて作られた、これら修道院の特徴は外壁に施された見事なフレスコ画にある。五つの修道院というのは数ある修道院の中で外壁のフレスコ画の保存状態が良い五つを選んで称している。

 絵の題材はキリスト教に関するものが中心で、当時字の読めない民衆に聖書の内容を啓蒙するのが主たる目的であった。最もよく描かれている題材は最後の審判、三位一体、受胎告知にキリスト・マリアや聖人などのイコンが定番である。それ以外にはキリストの系図、東方三賢人の贈り物、最後の晩餐なども描かれている。面白いのは当時の最強帝国トルコとの戦争場面で、トルコ人をやっつけている願望の入った場面で、それだけトルコの圧力の強さを物語るものであろう。

 それにしても5〜600年前のフレスコ画が厳しい風雨に晒されて、今日に至るまで鮮やかな色合いを保ってきたことは驚き以外の何物でもない。屋内であればローソクの煤に守られて生き延びることは素人でも想像出来るが、冬の豪雪と夏の暑さに晒されながら耐え抜いた秘訣はどこにあるのか、想像を絶する凄さである。

                              

18 木の教会

 教会といえば堂々たる石作りの教会を想像されるであろうが、ルーマニア北部のマラムレシュ地方には数多くの木の教会が残されていて、そのうちの8つが世界遺産に登録されている。これらの多くは18世紀前半に建てられたものが多く、大きいものでは尖塔の高さが72mというものもある。

 解説書には「オスマントルコが石造の教会を禁止したから、木造教会を造った」とあるが、こんな雪深い田舎までトルコの睨みが利いたとは思いにくい。やはり山深いこの地方では石で造るより木で造る方が容易かったのであろう。

使用されている木材は樫や櫟が中心で、屋根材は樅が使われている。定期的に屋根の修復が必要で、維持するには相当のエネルギーを要するが、住民の力で維持しているらしい。現在でも現役の教会もあるが、次第に新しい教会へバトンタッチされているのは仕方ないことであろう。それでも入場料を取るわけでもないのに、修復を重ね保存に力を入れている住民の意識の高さは敬服に値する。

教会の敷地内の雑草刈りをしていた老人や近所のおばさんとほんの少々接触する機会があった。彼らはどう見てもスラブ系で、とてもラテン系には見えなかった。ローマ帝国時代でもこの雪深い地方まではローマ人は入ってこなかったため混血が進まず、スラブ系のまま今日まできたのであろう(これは私の想像で何の根拠もありません)。
19 聖歌隊員に案内された

 ルーマニアの首都ブカレストに大主教教会という350年前の教会がある。そこへ行くつもりが道に迷いそこの裏口に着いてしまった。入口が判らないので車で休んでいる青年に尋ねた。彼が日本人かと聞くので、そうだと答えると「私が案内する」と言う。正直少々胡散臭いと思いながらも、入口が分り難かったので彼の後ろを付いて行ったら、一緒に中に入って説明を始めた。

 彼は教会の生い立ち、絵画や彫刻の説明などを色々と熱心にしてくれた。癖のある英語で半分くらいしか理解出来なかったのと、まだ彼に対する警戒心が心の片隅にあったので、聞いたことは右から左に抜けていった。

途中で偶々通り掛った司祭に走りより何か話していたが、彼が我々のことを司祭にどう紹介したのかは不明ながら、何とその司祭が来て一緒に説明をしてくれるではないか!胡散臭い奴と疑っていたのが、どうやら間違いであったと気付き、その後は性根を入れて説明を聞いた。

説明を聞き終えて別れるとき、彼は彼等の歌った聖歌のCDをプレゼントしてくれた。代金を払おうとしたら、要らないと受け取ってくれなかったので、有難く頂戴して爽やかな気持ちで教会を後にした。

クリスチャンでもないのに旅行に出ると教会にはよく行くが、こんな経験は後にも先にも初めてで、彼が何故こんなにまで親切にしてくれたのか未だに狐につままれた感じである。
20 若者の教会離れ

 前にも触れたが私はクリスチャンでもないのに海外ではよく教会に行く。あの厳かで静寂な雰囲気は心和み、一瞬とはいえ心を清らかにしてくれる。日本の神社仏閣とは異質の空間である。

 どこのキリスト教国でもそうなのだが、教会に足を運んでいるのはお年よりが中心で若い人は次第に減っているらしい。10年位前イギリスで日曜日の礼拝への出席率が20%を切ったと聞かされたことがある。ルーマニアでも若い人は散見されるが、参加者の高齢化は歴然としているように思えた。もっとも私達が教会を覗くのは早朝か夕方ではあるが、必ずしも日曜日とは限らない。そのため若者は仕事で来られないという点は割り引いて考える必要はあるが、教会離れが精神の荒廃に繋がらないか心配ではある。

若いと言えるかどうかは別として、30代・40代の女性が出勤前や勤務後に、憑かれたように祈る姿には心打たれるものがある。こうした姿はどういうわけか女性の方が多い。

 チャウセスク時代には教会での懺悔が録音されて秘密警察に渡り、弾圧の材料に使われたという悲しい歴史も経験している。しかしそれが今日の教会離れに影響しているとは思えない。やはりアメリカ文化の浸透と共に精神文明から物質文明へと重心が変化しているのであろうか?日本のように。
21 ルーマニアあれこれ(1)
・ 首都ブカレストの中心部にあるアパート?の屋上に見事なアンテナの林が見える。共同アンテナにすれば美観も保てるし、コストも安上がりと思うが、そういう観念はないのだろうか。それにしてもアンテナの林立は見事の一語。

・ 同じく主都ブカレストでの風景で、壁を広告で覆っているビルが随所に見られる。アパートや事務所ビルらしいのだが、窓を塞がれて暗くて仕方ないと思うのだが、快適性よりも金銭優先の思想に早くも毒されているのだろうか。

・ ルーマニアでは西欧諸国ほどではないが、食膳にはオリーブがよく供される。当然国内で生産しているとばかり思っていたが、実際には全く採れず全て輸入とのこと。ちょっとした驚きである。

・ ルーマニア北部を旅行中、踏み切りがあり、たまたま1両編成の列車?がきて通過待ちをした。田舎のことでもあり、当然単線なのだが通過しても鐘が鳴り止まないし遮断機も上がらない。おかしいなぁ、と思いつつも待つこと約3分、おもむろに遮断機が上がった。感心するのは誰も文句を言っている風には見えなかったことだ。帰りにも同じ踏切で列車通過にぶつかったが、今度は通過してすぐ遮断機が上がった。長閑な一風景ではあった。
22 ルーマニアあれこれ(2)
・ 若者の90%はジーンズを着用している。彼らは男女を問わずスタイルがいいので、ジーンズがよく似合う。年配女性でジーンズは殆んどなく、綿やポリエステルのスカートの人が多い。やはりずんぐり型にはパンツよりはスカートが似合うと思う。スカートにしてもパンツにしてもずんぐり型にはジーンズは似合わないように思うが、何故なんでしょうかねぇ。

・ 落書は若者の世界共通の遊びなのであろう。ルーマニアも例外ではなく、あたり構わずスプレーで吹付けている。面白いのは日本も含めて落書の稚拙なデザインに共通性があることである。デザインセンスのある若者はそんな馬鹿げたことはしないのであろうか。皆さんも写真に見られるような感じの落書をどこかでご覧になったのでは?でも東欧諸国は西側諸国よりはまだおとなしい。

・ チェンマイやバリでもそうなのだが、ルーマニアでも野良犬が多くフンが至る所に転がっている。チェンマイでは2年くらい前から野犬退治に乗り出して随分居心地がよくなってきたが、ルーマニアにはそんな動きはないらしい。

・ 私のよく行くチェンマイやバリでは道路清掃はきちんと出来ている。ルーマニアでもいつもきれいに掃除されている。目に付くのは清掃人の服装が小奇麗なことである。チェンマイやバリでも清掃は行き届いているが、作業員の服装はお世辞にも清潔とは言えない。この差はどこからきているのか興味のあるところではある。

・ コウノトリは日本では絶滅の危機に瀕しているが、ルーマニアでは普通の鳥のように扱われているらしい。旅の途中あちこちで電柱に巣を作っているのを見た。日本もルーマニアから貰ってきて繁殖させればいいと思うが、ことはそんなに簡単ではないのであろうか。
23 ルーマニアあれこれ3
・ ルーマニア北部のブコヴィナ地方では殆どの家の外に屋根付の井戸がある。屋根が付いているのは冬雪が多いのと、年間通して雨が多いからである。そこまでは判るが、ではなぜ屋外にあるのか?雪が多いのであれば余計屋内の方が便利だと思うのだが、ガイドに聞いても納得出来る答えは返ってこなかった。しかし理由はともあれ、なかなか情緒ある風景ではある。

・ やはりブコヴィナ地方で修道院の庭の手入れをしている老人に出会った。いかにもスラブ人という顔立ちである。ルーマニアを支配したローマ人もトルコ人も、この山奥までは入ってこなかったので、混血も進まなかったのであろう。彼は実に大きな草刈り鎌を器用に操り、伸びた雑草を見る見る刈り取っていた。ここでは電動鎌では様にならない、やはり手動の方が納まりがいい。

・ 地方へ行くと今でも馬車が貴重な運搬手段として活躍している。荷物だけでなく、人間の移動手段としても便利な存在である。今日にあっては主力は車であることに変わりはないが、車と馬車が調和して混在し、絶妙な雰囲気を醸し出している。捨てがたい魅力である。

24 ルーマニア・ブルガリア比較1
<両国共通>

・ 郊外を走っていて至るところで目に付いたのは共産党時代の工場の廃墟である。もともと非効率的な設計になっていたのであろうし、メンテも行き届かず、これらを再利用するよりは新しく作り直した方が安上がりで、放置されているのであろう。

・ 高速道路は首都以外には殆んどない。これは無いというより、必要ないと言った方が正確であろう。地方へ行けば広大な大地に車が少ないので、一般道路でも高速並に走れる。

・ ヨーロッパ諸国ではジプシーの扱いに手を焼いている。両国も例外ではなく、人口の5%のジプシーがいるという。彼らは学校には行かないし、職業と言えば「乞食かドロボー」と認識されている。ジプシーはインド北西部が発祥の地で6~7世紀から移動を始め現在ではヨーロッパだけでなく、西アジア・北アフリカ・アメリカと広く分布している。世界中から問題児扱いされながら尚且つ拡大を続けるパワーの源泉は何なのか。世界と相容れない価値観を抱えているに違いなく、彼等の言い分も聞いてみたいものだ。

・どちらも消費税は高い。ブルガリアが20%、ルーマニアは19%で、将来の日本の姿が見えるような気がした。

・ 生野菜をふんだんに食べる。欧米では生野菜を供さないところが多いが、両国とも朝昼晩生野菜がでてきて、嬉しい限りであった。

・ 豚肉・鶏肉は美味しいが牛肉は不味い。車で走っていて牛よりは水牛の方が目に付く。その水牛の肉も不味いらしい。

・ パンが主食だが、パンにバターをつける習慣はないようで、パンにバターは付いてこないし、ジャムもない。ただし朝食の時だけはどういう訳かバターもジャムもあるから食べる習慣がないわけでもないようだが、昼晩にないのは何故だろう?
25 ルーマニア・ブルガリア比較2
25 ルーマニア・ブルガリア比較2

・女性のファッションは世界共通らしい。ブルガリアでもルーマニアでもヘソ出しルックが大流行なのだ。スタイルのいい美人のこのファッションにはついウットリするが、見るに耐えないようなスタイルの女性まで右に倣えというのはいただけない。言語・宗教・貧富などの違いを超えて世界共通で普及する女性心理の奥深さ(軽薄性?)は研究に値すると思うが如何だろうか?

・ 女性でもう一つ目に付いたのが喫煙である。特に若い女性の喫煙は日本でも、途中立ち寄ったローマでも目立ったし、ブルガリア・ルーマニア両国でも例外ではない。喫煙者受難の趨勢は世界的に大きな流れになっている中で、世の流れに逆行する若い女性の喫煙は何を物語るのか。格好いいと思うのだろうか、或いはストレス解消が目的なのか。くそ真面目なおじ様族には決して格好よくは見えないのだが・・・。

・ 野良犬が多いのは共通しているが、どちらかというとルーマニアは犬が多く、ブルガリアは猫が多い。国民性がそうさせているのか、猫や犬が国民性形成に影響しているのか、まさかそんなこともあるまいが・・・。



<両国の違い>(R:ルーマニア、B:ブルガリア) 

・ Bではホテルにチェックイン時にパスポートを要求し、翌朝まで預けなければならない。Rでは見せることは要求されるが、預けることは要求しない。

・ 水道の水

Bは飲めるが、Rは硬水で飲めない。

・ 鳥インフル対策 

Rは車の消毒をいたるところで強制的に実施しているが、Bでは全くなし。Rで鳥インフルが多いという報道はないので、R政府の転ばぬ先の杖だと思うが、それにしてもラテン系のRらしくない用心振りではある。

・ 観光地での建物内部写真撮影 

Rではごく一部の禁止を除いて殆んどが有料。これに反してBは禁止のところ以外では全て無料である。Rでのカメラ持込料は僅か100円そこそこだから大した金額ではないのだが、Bが無料だけに気分的には引っ掛かる。
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