アドリア海通信

2015年5月23日~6月13日
神原克収

目次

1.旅の概要 2.ブレッド湖 
3.シュコツィヤン鍾乳洞 &
  ポストイナ鍾乳洞
 
4 プリトゥヴィチェ湖群国立公園
5 リュブリアーナ 6 ザグレブ
7 ボスニアヘルツェゴビナ 8 サラエボ
9 サラエボのロミオとジュリエット  10 クロアチアの飛び地 
11 スプリット  12 ドブロクニク(その1)
13 ドブロクニク(その2)  14 ドブロクニク(その3) クルーズ船のメッカ  
15 青の洞窟  16 屈指のリゾート地「フヴァール島」 
17 終わりに   

1.旅の概要
 ロングステイクラブ(LSC)の仲間42名とクロアチアのガイドJさんを含めて43名という大所帯の旅である。この企画はLSCのKさんが企画しクロアチア人のJさんのサポートで実現した旅で、Kさんには昨年のイスラエル・ヨルダンの旅でもお世話になった。中東からアドリア海方面にかけてのスペシャリストで、Kさんなくしてはこの旅の成功はありえなかったと感謝している。
5/24スロベニヤの首都リュブリアーナ空港集合で始まり、6/12ボスニアヘルツェゴビナの首都サラエボで解散という3週間の旅で移動は全て貸切バスである。
行程は空路リュブリアーナ到着後バスでブレッド湖に移動(2泊)⇒リュブリアーナ(2泊)⇒ザグレブ(2泊)⇒プリトビチェ国立公園(2泊)⇒スプリット(4泊)⇒ドブロクニク(4泊)⇒コトール(1泊)⇒モスタル1泊⇒サラエボ(2泊)。
旅の総費用は航空券別で25万円/と大変格安、内容充実の旅であった。


2.ブレッド湖
 ブレッド湖は周囲6Kmという極めて小さな湖である。
 世にこれほど綺麗な湖があるだろうか。私が見た中では文句なく世界で最も美しい湖である。透明感ある湖水、悠々と泳ぐ白鳥、湖に面して建つ教会、湖面から100 mの断崖絶壁に建つブレッド城、湖で唯一の島に建つ優雅な聖母被昇天教会、湖を抱くように背後に聳え雪を頂いたユリアンアルプス、これらが一体となって穏やかな湖面に映るさまはまさに絶景である。
 この湖畔の宿に2泊したが、時間とともに表情を変えるブレッド湖は幾ら見ていても飽きることがない。至福とはこのようなことを言うのであろう。
見渡すところ船影は全くなく、あるのは島の教会に渡る手漕ぎのボートだけである。日本なら間違いなくレジャーボートが我が物顔で走り回って金儲けに精を出し、その結果景観を台無しにする。ブレット湖の素晴らしさは景観維持の基本的な考えがしっかりしていることが大きいと感じた。

右端白い建物の右奥が宿泊したホテル ブレッド城から島の教会が見える
島に建つ教会 宿泊したホテル

3.シュコツィヤン鍾乳洞 & ポストイナ鍾乳洞
 今まで日本では龍泉洞と秋芳洞、外国では中国、韓国、タイその他で幾つかの鍾乳洞を見たがそれほど多くの鍾乳洞を見た訳ではない。今回訪れたスロベニアのシュコツィヤン鍾乳洞と隣接するポストイナ鍾乳洞はその規模、形状で度肝を抜かれるほどの感動ものである。特にポストイナは圧巻で27Kmに亘って自然の芸術が続いているとのこと。
 観光方法は最初3Kmをトロッコ列車で鑑賞し、ハイライト部分1.8Kmは徒歩で鑑賞する。その後再びトロッコ列車で出発点に帰るガイド付ツアである。トロッコは貴重な*鍾乳石や*石筍のギリギリのところを首をすくめながらかなりのスピードで走る贅沢なもの。日本ではこんなことは想像すら出来ない。
 ハイライト部分はガイドの説明を受けながら回るが、説明など全く不要で鍾乳洞を見れば一目瞭然、この素晴らしさに言葉は要らない。写真でとくとご覧あれ。
*鍾乳石:上から地上に向かって成長するもの。1mm成長するのに10-30年掛かる。
*石筍:地面から天井に向かって成長するもの
*鍾乳石と石筍がくっついたものは石柱となる。

トロッコに乗ってさぁ出発

4 プリトゥヴィチェ湖群国立公園
 世界の滝ではナイヤガラ、イグアス、ビクトリアが世界三大名瀑として有名を馳せ ている。ナイヤガラ以外は写真でしか見ていないが、これら 3 つの滝は滝単体の壮 大さで観光客を魅了している。
 プリトゥヴィチェには 16 の湖と 92 か所の滝がある。一番上の湖(640m)と下の湖 (500m)との高低差は 140mで下の湖に移る度に滝が発生する。個々の滝は最大で も高さ 78mと小さいが、無数の滝がありとあらゆるところで8Km に亘って発生して いて、その素晴らしさは三大名瀑と比べても決して引けは取らない。
 ここのもう一つの魅力は透明度の高い水で、水面の色は各湖によって微妙に異 なり、時間や日照の角度で絶え間なく変化し、その時々で様々な表情を見せてくれ る。
 確認はしていないが年中湖面水位は変わらないようだ。それは遊歩道と湖面が 殆ど同じという箇所がいくつかあり、季節によって水位が変わるのであれば、こん な設計にはならないに違いない。
 ブレット湖でもそうだったように、ここでも売店、レジャー用施設、籠やロバでの 移動手段など全くなく、純粋に自然の滝を楽しませてくれる。貴重な観光資源を長 期間維持する秘訣であろう。
左上 滝の全容図
下段の2枚 滝以外にも湖面の美しさは見応えある
全て歩いて回れるが遠いところは船でも移動できる。 湖畔でランチ、これがまた素晴らしい。
5 リュブリアーナ
今回旧ユーゴスラビアから独立した7ヶ国の内4ヶ国に行った。スロベニア、クロアチア、モンテ ネグロ、ボスニアヘルツェゴビナである。セルビア、マケドニア、コソボには次回に行きたいと 思っている。訪問した4ヶ国のうち首都に行ったのはリュブリアーナ(スロベニア)、ザグレブ(ク ロアチア)、サラエボ(ボスニアヘルツェゴビナ)の3ヶ所。それぞれの首都のご報告をしたい。
 リュブリアーナは人口は27万人余り(国全体は約200万人)。首都にしては規模は小さいが とてもきれいな街で清潔感がある。スロベニアも含めて旧ユーゴスラビアから独立した国々は ヨーロッパでは取り残された存在であると思っていた。しかしリュブリアーナの街では貧しさは 殆ど感じられない。調べてみると一人当たりの GDP は$24,000と大変高い。周辺国はクロア チア$13,500、セルビア$12,500、モンテネグロ$7,150、ボスニアヘルツェゴビナ$4,600。因 みに日本は$36,300である。道理で豊かなはずだ。
 この街は大変きれいだがタバコを吸う人が多い。特に歩行喫煙は多く、女性の喫煙も非常 に多いという印象だ。(タバコについてはこの後の訪問国も多く、オランダ、ベルギーは更に多 いと感じた)。

リュブリアーナ城から眺めた市内

運河沿いの風景、小高い丘はリュブリアーナ城    繁華街の風景

路地裏の街並み
喫煙に関して日本は欧米や台湾に比べて後進国と 思っていたが、アドリア海周辺国、ベネルクス諸国と比 べるとまだマシで、特にオランダ・ベルギーで喫煙が 大らかなことは意外であった。

街中のゴミ箱には灰皿が付いている

ゴミの選別意識は高そう
6 ザグレブ
 ザグレブはクロアチアの首都である。人口ではリュブリアーナ27万人に対し 79 万人と約3倍 と、旧ユーゴスラビア諸国ではセルビアのベオグラード(130万人)に次いで大きい。綺麗な街 ではあるが、リュブリアーナに比べると何となく清潔感に欠ける。具体的に言うと街中のゴミ であったり、建物のメンテが出来ていないのも随所に見える。
 前回述べた通りクロアチアの一人当たりの GDP はスロベニアの約6割なので、その差が街の 印象に微妙に影響しているのであろう。この差はどこから来ているのか?専門的なことは判 らないが、1991年ユーゴスラビアから独立した際各国はユーゴ軍(セルビア人)と戦争になった。 スロベニアは僅か10日で終ったのに対し、クロアチアやボスニアヘルツェゴビナは4年間戦争 を強いられ今も傷跡が生々しく残っている。この差が原因の一つであることは間違いないだ ろう。
 偶々滞在中に賃上げ要求のデモに出くわした。主要な観光施設は厳重な封鎖で入れないし、 地元民は口を揃えて「近寄るな」と忌々しそうに忠告してくれ、デモには冷たい感じ。それでも 覗いてみたら結構激しいデモで厳重な警備も止むを得ない。これで地元民の冷たい視線が納 得出来た。

ザグレブのシンボル大聖堂を臨む

市街地の中心部「イエラチッチ総督広場」     有名な聖マルコ教会の屋根の紋章
                        (左はクロアチア、右はザグレブの紋章)

大聖堂周辺は綺麗               旧市街の中心部に位置する青果市場

押し寄せる観光客と阻止するデモ隊警備の警官  街の中にはメンテ不十分の建物が散見される

クロアチアはネクタイ発祥の地。英語圏以外ではネクタイのことを「KRAVATA」という。同時 にクロアチアという意味もある。因みに赤白の市松模様はクロアチアの国旗のイメージで商品や街の 至る所に使われている。日本のように国旗を粗末にする国は世界どこにも見当たらない。
7 ボスニアヘルツェゴビナ
 首都サラエボの話をする前にこの国の悲惨な歴史の話をしておきたい。この国も独立を目 指しセルビア人との戦争になったが、この国を理解するには複雑な人口構成を理解しておく必 要がある。独立戦争勃発時の人口構成はボシュニャク人(イスラム教徒)44%、セルビア人33%、ク ロアチア人17%。  
スロベニア、クロアチアなどは1991年独立宣言をしユーゴ軍(セルビア人)との戦闘になっ たが、ボスニアヘルツェゴビナでは国内のセルビア人が反対し、国民投票を経て独立宣言は 1992年3月で翌4月にはEUが独立承認。それをキッカケに戦争に突入した。 戦争は紆余曲折はあったが概ねセルビア優勢であった。途中からアメリカの介入もあり、 1995年12月に戦争は終結した。最終的にこの戦争による死者は20万人、難民は200万人と 言われている。  
戦後処理としてボスニアヘルツェゴビナ国内にはクロアチア人・ボシュニャク人がボスニア・ ヘルツェゴビナ連邦、セルビア人がスルプスカ共和国という夫々が独立性を持つという奇妙 な政治体制が出来上がり、夫々に議会と大統領が存在する。これが近い将来爆発する危険の 極めて高い爆弾であることは間違いない。  
この戦争ではセルビア人によるボスニャク人に対する民族浄化も行われた。手段は男性に は集団殺人や強制収容・強制追放で、女性には組織的な集団レイプで妊娠・出産させた。また 国連が設定した「安全地帯」であるスレブレニツァに侵攻し、ボシュニャク人の男性のほぼ全員 (8,000人以上)を殺害した。この暴挙は後に国連司法裁判所でジェノサイドと認定された。  
以下の写真はサラエボ及び南部のモスタルで見かけた戦争の傷跡である。
8 サラエボ
サラエボといえば1984年の冬季オリンピック開催都市として記憶しておられると思う。前回 述べたボスニア戦争の中でサラエボ包囲という悲劇がある。セルビア人による包囲が完全に 完成したのは1992年5月でNATOの介入で終結したのは1996年2月で凡そ4年続いた。そ の間12,000人が死亡し50,000人が負傷した。  
完全に封鎖され砲撃によって全ての建物が被害を受け、35,000棟は完全に破壊された。建 物だけでなく市民は街に出ると狙撃され主要な通りは「狙撃人通り(スナイパーストリート)」と 言われた。更に前回述べたセルビア人にるボシャニャク人へのジェノサイドがサラエボでも行 われたと言われている。  
完全に断たれた補給路ではあるが、唯一の補給路・脱出路となったのが空港の下に掘ったトンネルであった。 現在のサラエボはあちこちに戦 争の傷跡が見えるものの、表面上は概ね復興している。市街地には観光客も戻りつつある印 象だ。しかし首都でありながらサラエボ駅や空港は閑散としていて、経済の復興までは相当の 苦難が待ち構えているに違いない。  
サラエボの人口構成でセルビア人は戦前30%いたのが現在でも10%は残り、サラエボ市 内のスルプスカ共和国に編入された地域に残っている。近い将来の衝突が懸念される。

炎上するビル

破壊された新聞社

破壊された国立図書館でチェロを演 奏(1992 年)
3枚の写真はウイキペディアから借用

サラエボ市内                 丘の上から市内を臨む

繁華街、右は泊まったホテル(5つ星)       戦争中報道陣の拠点となったホリデイイン

包囲された時の図、狭くなっているところが空港    トンネルの一部は公開され観光資源となっている ここも実質セルビア軍に抑えられていたが、この下に トンネルを掘り、右上の支配地と辛うじて繋がった
9 サラエボのロミオとジュリエット
セルビア人によるサラエボ包囲の真っ最中に起きた悲劇を紹介したい。  
時は1993 年5 月、恋仲のボシュコ(当時 24歳、セルビア人・キリスト教徒)とアドミラ(当時 25 歳、ボシュニャク人・イスラム教徒)は戦火を逃れ国外に脱出しようとして銃弾に倒れた。落合う 約束のブルバニャ橋で先ずボシュコが撃たれ即死、それを見たアドミラが思わず駆け寄ろう として撃たれた。アドミラは力を振り絞って恋人に近寄り、まだ温かい恋人の遺体を抱き寄せ て自身も息絶えた。  
かつては同じ国民だった民族同士が憎み合う中で運命を共にした2人は、内戦の悲劇の象 徴として「サラエボのロミオとジュリエット」と呼ばれている。つい22 年前の生々しい悲劇だけ に現場に立つと胸が締め付けられる。  
現在では事件現場となったボシュニャク橋にこの悲劇を顕彰するプレートが設置され花が 手向けられている。しかし戦争の悲劇の象徴として世界的に有名な事件の割には顕彰碑は粗 末なもので、もう少しまともな扱いは出来ないものかと苛立たしさを覚える。  
橋の袂には戦争の傷跡が生々しく残る建物が残されていて戦争の愚かさを訴えている。

ボシュニャク橋の顕彰碑

 顕彰碑の字も一部消えかけている

 銃弾跡も生々しい
10 クロアチアの飛び地
地図をご覧いただきたい。赤丸で囲んだところにボスニアヘルツゴビナのネウ ムという町がある。幅僅か 10Kmほどクロアチアの領土が途切れているのである。 そのためドブロクニクへ行くには一旦ボスニアヘルツゴビナへ入国し、更に出国し てクロアチアに再度入国することになる。国内移動するのにパスポートが要るので ある。実際にはクロアチア人はパスポート不要らしい。
では何故そんなことになったのか?話は 17 世紀まで遡る。この地はラグーザ共 和国(ドブロクニク共和国の前身)の領土で北のベネチアの脅威を受けていた。その 脅威を緩和するためこの地をオスマントルコに割譲しベネチアへの防波堤とした。 それが今日まで尾を引いてボスニアヘルツゴビナ領となっている。ちなみに住民 の大半はクロアチア人である。
ネウムの対岸はクロアチア領の半島で、現在ここに橋を架けてボスニア領を通ら ずにドブロクニク方面へ行くことが検討されている。これは「EU 内は国境を無くし たい」という EU のメンツがあるようで、費用も EU がかなり応援するらしい。
ここの物価はクロアチアより少し安く、ホテル併設のスーパーへ買い物に来るク ロアチア人が多いとのこと。私が行ったときはアジアからの観光客で結構混んでい て、お土産にチョコレートなど買い求めていた。通貨はクロアチアのクーナ、ボスニ アのマルカ、それにユーロが使えた。

店に入口には日韓の国旗がある。 ワインの銘柄も日本語で表示されている

店内の様子。 店内にはマルカ(KM)、クーナ、ユーロの交換比率が表示されている
11 スプリット
スプリットという町は実に興味深い町である。この町はローマ皇帝ディオクレティ アヌス(245-311 年、在位 285-305)が皇帝引退後この地に住み、住まいとして築い た宮殿がそのまま旧市街となっている。と言ってもなかなか理解はし難いと思いま すが・・・。写真で想像して下さい。
この皇帝はキリスト教を大弾圧した最後のローマ皇帝として名高い。亡くなって 2 年後にはローマ帝国がキリスト教を公認したため、キリスト教徒の受けは極めて悪く、 彼の築いた宮殿はキリスト教向けに大いに改竄された。
ローマ帝国崩壊後皇帝のいたサロナに異民族が大挙して押し寄せ、サロナから 追われた住民は近郊のスプリットにあるディオクレティアヌスの宮殿に逃げ込みそ こに住み付いた。宮殿をそのまま活用したり、基礎部分に増築する形で街が形成さ れた。増築は夫々の時代を反映していているため古代、中世、近世の構造物や建造 物が混在する極めて特異な街となった。
現在でもここには多くの住民が住み付き、彼等はどこからどのようにして手に入 れたのか判らないが、堂々と所有権を保持しているとのこと。古代・中世の遺跡の 中に観光客相手の飲食店、土産物店や宿泊施設が軒を連ねて営業している様は何 ともユニークな町で、この町は何日歩き回っても興味が尽きることはない。

昔の宮廷の図

昔 の 海 の 部分は 埋 め 立 て ら れ 憩 い の 場 と な っ て い る。ヤシの 右 は 海。

宮殿の面影を最も色濃く残しているメイン通路、両側は土産店。

現在の市街地、画面右端が旧宮殿--------------旧宮殿部分の街並み

旧宮殿部分の街並み------ 地下はゴミ捨て場になっていたため昔 の姿のまま残っている
12 ドブロクニク(その1)
ドブロクニクは「アドリア海の真珠」と言われ、劇作家のバーナードショウをして「ドブロクニク を見ずして天国を語るなかれ」と言わしめた誠に美しい街である。この街は美しいだけでなく、 ビザンチン帝国、ヴェネチア、ハンガリー、オスマントルコなど列強の支配を受けながらも 13世 紀初頭から 1806年にナポレオンに滅ぼされるまでの約 600年間「自由都市」を守り抜いた稀 有の街でもある。  
この小さな都市(旧市街は2 、周囲2 ㎢ Km、市街人口4,000人、市全体でも40,000人)は当時 ラグーサ共和国と称していて海運、商業、観光で経済力を蓄えた。そして対外的に一貫して中 立を守り、自分から他国へ一切戦争を仕掛けず、外部からの攻撃には外交を駆使して水際でか わしてきた。交渉には蓄えた経済力がものをいったのは当然である。  
ドブロクニクの衰えは1667年の大地震で壊滅的な打撃を受けたころから始まっている。そ れでも北からの脅威ヴェネチアの圧力を緩和するためオスマントルコにネウムという町を割譲 し、ヴェネチアへの緩衝地帯とした。(これが今ではボスニア領土として残り、クロアチアが飛 び地となっている原因となった)。巧みな外交を物語るエピソードである。

旧市街最大の目抜き通り「プラツァ通り」

1438年建造の大噴水、今でも湧き水が飲める

周囲約2 kmの城壁は歩いて周れる
13 ドブロクニク(その2)
「アドリア海の真珠」と言われるに相応しい美しい街である。兎に角美しい。美しさの 最大の要因は旧市街の城壁とオレンジ色の屋根であろう。ドブロクニクに限らずヨーロッ パの街はどこもオレンジ色の屋根が美しい。日本でも瓦屋根は美しいが殆ど残っていない。  
この街は過去2回ひどい目に合っている。最初は1667年の大地震と1991~2年のセルビ アとの戦争(クロアチア紛争)である。地震では建物は破壊されたものの城壁の被害は軽 微であったが、セルビアとの戦いでは半年間包囲され砲撃で徹底的に破壊された。  
今の街はその傷跡も殆ど見当たらないほど見事に修復されている。戦争で破壊されな かった建物の屋根はくすんだ色で、修復したものは鮮やかな色をしている。しかしくすん だ色は極めて一部で壊滅的な打撃を受けたことが見て取れる。  
城壁は周囲2kmで厚さは3~6m、高さは高いところで25mもある。また、背後に標高 412mのスルジ山がある。城壁の上からとスルジ山からの眺めは素晴らしい。写真でご堪 能下さい。

オレンジ色の屋根が美しさの主役

スルジ山から眺める旧市街、城壁に囲まれているのが良く判る。

砲撃された時の写真              唯一爆撃されなかった修道院、屋根の色が違う

海から見る旧市街               後方はスルジ山

目抜き通りからスルジ山を臨む      海べりの瀟洒な建物はチトー元大統領の別荘
14 ドブロクニク(その3) クルーズ船のメッカ
クロアチアのドヴロクニクはクルーズ船の寄港地として最も人気のある都市であ る。ホテルの前の岸壁には毎日2隻が朝入港し夜出港していった。旧市街にある港 にも3隻が係留されていた。ガイドに聞くと毎日平均4隻程度は寄港しているらしい。 大型船が接岸出来る埠頭が不足していて、沖合に停泊し小型船に乗り換えて上陸 している船も半分くらいはいる。
神戸港や大阪港ではどれくらいか定かではないが、週単位でもそれ以下と推測 する。クルーズ文化が定着している欧米をバックグラウンドに持つクロアチアと、ク ルーズ発展途上のアジアをバックにする日本とでは比較すること自体が無理なく らい立ち遅れている。でもこれから急速に増えるアジアのクルーズ市場を考え長期 的な戦略を立てて進めば、日本には魅力的な観光資源が数多くあり将来的にクル ーズ船の寄港地大国になることも夢ではない。という夢を思い描きながら、ホテル の部屋から大型客船の接岸風景を飽きずに眺めていた。

クルーズ船はあちこちに見える

沖合に3艘並んで見える
15 青の洞窟
青の洞窟と言えばイタリアのカプリ島を想起する人が多いと思うが、クロアチア のビシェボ島もなかなか見応えがある。両方を見た人の評価を聞くとイタリア派は 「問題なくカプリ島が上」と言う。対するクロアチア派は「比較にもならない」と言う。 それぞれ見たときの条件も違うのだろうが人の好みの落差に少々驚く。
洞窟は入口が極端に狭く、小さなボートがかろうじては入れる幅しかない。従っ て波が少しでも高いと入ることは出来ないが今回はベタ凪で文句なく入ることが 出来た。洞窟内の水面は神秘的な青色に輝き、息をのむ美しさである。
洞窟での滞在時間はおよそ 5 分程度、スプリットからの往復だけでも 3 時間半は 掛かる。にも拘らずこの 5 分のために世界から観光客が集まる。近くにドブロクニク、 スプリットという大観光地があればこそであろう。 この島に行くにはスプリットからゴム製のスピードボートで 100 分走り、現地で小 型のボートに乗り換えて洞窟に入る。
午前中はベタ凪で爽快なスピード感であったが、夕方(6 時過ぎ)の帰りには少し 風が出ただけで、ゴムボートは大きく揺れ、まるで川の流れに弄ばれる木の葉の風 情である。それでも物凄いスピードで疾走し、波に打ち付ける衝撃は相当なもので スリル満点、得難い経験を楽しむことが出来た。

ゴムボートは爽快(朝はベタ凪) キャビンは臨場感に欠ける

出口に監視船?この仕事も閑過ぎて辛いだろう いよいよ洞窟に入った

息を呑む美しさ

出口に近付き、これで見納め
※世界的に有名な「青の洞窟」 イタリア(カプリ島)、ギリシャ(カステロリゾ島)、マルタ島など多数ある。
16 屈指のリゾート地「フヴァール島」
青の洞窟見学の帰路世界でも屈指のリゾート地「フヴァール島」に寄り道をした。 夏には数多くの要人がこの島に静養にくるとのこと。島には 16~17 世紀に建てら れた聖ステパノ大聖堂、ベネディクト会修道院、フランシスコ会修道院、更には 16 世 紀中ごろ築かれた城塞などが残っているが、何がこれほど高級リゾート客を引き付 けるのかよく解らない。
フヴァールの町のすぐ沖に高級なヨットが幾つも停泊し、泳いで島に上陸する人 も多い。町の広場は歴史的建造物に囲まれ、カフェで寛ぐ観光客で賑わっている。 この島のホテルはクロアチアで最も高いと言われている(1 泊 4-5 万円以上らし い)。
ヨットや船で来て、日なが泳いだり、甲羅干しをしたり、カフェでワインやビールを 楽しむ姿は確かに優雅ではあるが退屈だろうなぁ、とつい貧乏人は思ってしまう。 幾ら金があってもこんな退屈なところで 1 週間はとても辛抱出来ない、彼我のリゾ ート感覚の差をいやというほど感じる島ではある。

海から見るフヴァール島

城塞からの眺め(左は 16:45、右は 16:58 撮影) 船の出入りは結構ある

城塞から見るフヴァールの町

城塞周辺にはサボテンの群生があり綺麗な花が咲いていた

城塞までの道、上りは結構キツイ

17 終わりに
 今回の旅はKさんの豊富な知識と綿密な計画、それに加えて大阪在住のクロアチア人Jさんの献身的なサポートがあって、実に楽しくも実り多い旅であった。
昨年の中東、今回のアドリア海は紛争の真っただ中にあったり、つい最近まで戦火に見舞われた地区で、紛争地域の現場や傷跡を見るにつけ日本人の平和ボケ振りを感じざるを得ませんでした。
 この旅で掛かった費用をご報告して締めくくりとさせて頂きます。拙いレポートにお付き合い下さり有難うございました。

アドリア海の旅費用(2人分)旅行期間22日間
 航空券         : 217,000円
 ツアー費用       : 491,000円
 現地その他費用     : 71,000円
 自宅~空港乗合タクシー : 8,000円
 旅行保険        : 14,000円
           合計 801,000円

                         


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