バルト・ウクライナ通信

2016年8月20日~9月30日
神原克収

目次

1.旅の概要 2 トルコ航空のサービス
3 何と美しいタリンの街 4 エストニアとロシア
5 エストニアはインターネット先進国 6 リガの街
7 リガ大聖堂のコンサート 8 ユーゲントシュティール建築
9 占領博物館 10 ヴィリニュス
11 杉原千畝記念館 12 食べ物は安い
13 KGB博物館 14 リガの中央市場
15 ウクライナ到着 16 ウクライナでツア本体と合流
17 ウクライナ騒乱の地に宿泊 18 ウクライナホテルのサービス
19 チェルノブイリ原発跡(1) 20 チェルノブイリ原発跡(2)
21 チェルノブイリ原発跡(3) 22 モルドバ
23 立派過ぎる駅 24 キシナウの市場
 25 モルドバの凱旋門  26 鉄道の軌道幅について
   
   
   

1.旅の概要
 今回は個人旅行とロングステイクラブ(以下LSC)のグループ旅の組み合わせで40日間の旅です。
*最初の10日間は2夫婦4人でバルト3国。
*次の10日間はウクライナ・モルドバ・ルーマニアでLSC会員16人が加わり20名の旅、今回も金田さんにお世話になります。
*最後の20日間はLSC会員が更に12名合流し、合計32名の旅です。ここからはエレナさん(日本在住のクロアチア人)も合流して色々とサポートして頂きます。
コースは次の地図でご確認下さい。


移動手段はタリン~リガ~ヴィリニュスはバス、ヴィリニュス~キエフ(16人合流)~キシナウは飛行機、キシナウ~ブカレストは寝台列車。


               ブカレスト~ベオグラードはバス、ベオグラード(12名とエレナさん合流)以後は全てバス。
旅の詳細は次回からご紹介します。
2 トルコ航空のサービス
 今回はトルコ航空を利用した。往きは関西空港~イスタンブール~タリン(エストニア)でイスタンブールでの乗り継ぎ時間が9時間50分である。トルコ航空では乗り継ぎ時間の長い客へのサービスとして無料イスタンール市内バス観光又はホテルの無料サービスがある。無料ホテルは乗り継ぎ時間が10時間以上の客に限られている。
 今回は乗り継ぎが9時間50分で条件に合わないが、イスタンブール到着後ダメモトで申込をした。幸いなことにOKが出て出発時間までホテルでゆっくり休むことが出来、13時間のフライトの後だけに大いに助かった。勿論空港とホテルの間は無料送迎付きである。
 トルコ航空は中東は勿論のこと、ヨーロッパやアフリカも結構カバーしていて、しかも料金が安いのでこの方面への旅行にはお勧めの航空会社である。
トルコ航空が用意してくれた部屋、TVを付けたら「Welcom Yoshikazu Kambara」の表示まであり
3 何と美しいタリンの街
タリンは11世紀から続く古い街である。1285年にハンザ同盟都市となり繁栄を謳歌したがその後エストニアは相次ぐ外国勢力の侵略を受け、ようやく1918年に独立を果たした。しかしその直後からドイツ、ロシア双方から繰り返し繰り返し侵略を受け苦難の道を歩んだ。再度の独立は1991年でそれ以後の発展は目覚ましく、2004年にはEUに加盟し現在ではEUの優等生と言われるまでになった。
 約1000年の歴史を持つ街だけあって小規模ながら旧市街の美しさは格別である。緑に囲まれ、清潔感溢れる街でバルト三国の旅は初日から満足感一杯の旅となった。


大聖堂横の展望台からの眺め

街は大勢の観光客が押し寄せ大変賑やか

8月23日落ち葉が散りしき秋の気配を感じさせる   トームベア城で物売りの少女

4 エストニアとロシア
 エストニアは12世紀以降スエ―デン・ドイツ・ロシアに繰り返し支配を受けた。特にロシアには1558 年1710年、1940 年、1944年と4回も支配された。その中でも1941年と44年の2度に亘って数万人の市民がシベリヤに流刑され、ロシアへの警戒心は今でも強いと聞く。
 エストニア議会は首都タリンの旧市街にある。その真ん前にロシア正教会のアレクサンドル・ネフスキー聖堂が建っていて建物の威容はネフスキー聖堂の方が凌駕している。
 1918年最初の独立宣言後この聖堂を他所へ移すことを計画したが果たせず今日に至ってる。国の議会の前にロシアの聖堂が立ちはだかっているのは心穏やかなことではないだろう。
 それ以外にも人口に占めるロシア人のウエイトが次第に増え、1918年独立時は10%未満であったが現在で37%に達している。そのせいか街で売っている土産物店を覗いてもロシア風のものが結構多い。こうしたこともエストニア人にとって気持ちの良いことではないのだろう。

エストニア議会
 
 
議会の真ん前にあるアレクサンドル・ネフスキー聖堂

土産物店に並んでいる商品もロシアっぽい物も多い
 
5 エストニアはインターネット先進国
  エストニアは1991年の再独立以後大胆な政治経済改革を行い、今ではEUの中でも優等生である。特にIT化とインターネット活用では先進国で各種証明書、会社登記、選挙投票などでペーパーレスが進んでいて、電子政府サービスが生活の中に定着している。
 「インターネットの活用は基本的人権」と宣言されている。wifiは公共施設だけでなくカフェ、マーケット、ガソリンスタンド等でも使えるようになっている、勿論無料。この点では日本の後進性が際立っている。
 省力化はITの活用のみならずスーパーでも先進的な事例を見付けた。野菜や果物など重量を測って値段を決めるのは日本でも同じだが、その方法が進んでいる。
 商品ごとに番号が付いていてその商品を秤に乗せ、商品番号を入力すると瞬時に値札シールが発行される。また日本ではパンには初めから値札が付いているが、エストニアではパンごとに番号が付いていて、野菜や果物と同じようにユーザーが測って値札シールを発行する。ユーザーは「正直に申告するはず」という性善説に基づいているのは勿論である。ただ全てのスーパーでこのシステムが導入されているわけでもないが、今後どこまで浸透するか、省力によるコスト削減と顧客の不正による損失との綱引きになるのだろう。この方式が普及することを願ってやまない。エストニアには日本が見習うべき事は多々ありそうだ。
 
スーパ店内に設置されている自動計量器 先ず台の上に商品を置く
 
(自動計量器拡大写真) 数字がグループ化されているのでそこにタッチすると番号が表示される。商品ごとに付けらた番号にタッチすれば即座に値段シールが発行されるので、それを商品に貼ってレジで精算する。

スーパーの店内風景


6 リガの街
 ラトビアの首都リガに着いた。エストニアのタリンは43万人に対しリガは70万人とやや大きい。ここもタリンに負けず劣らず美しい街である。緑が多く石畳の良く似合う清潔感に溢れた街である。
 ラトヴィアもエストニア同様に他国の支配を受け苦難の歴史を辿っている。1629年にスエ―デン、1710年にロシア、1917年ドイツに支配される。1918年ソ連が侵攻するも反抗して独立宣言、ソ連軍からの解放に成功。1940年ソ連に併合され数万人が逮捕され大量流刑、同年ドイツが占領、1944年再度ソ連が占領し大量の国民がシベリアへ流刑された。1991年2度目の独立宣言、2004年EU加盟。
 国民一人当たりのGDPは188ヶ国中エストニア43位、リトアニア52位、ラトヴィア53位とほぼ拮抗しているが街の雰囲気から感じる豊かさはラトヴィア>エストニア>リトアニアの順という印象で、やはりこの街がバルト諸国の中心的存在なのは間違いない。
 当然のことながらエストニア同様ロシアへの警戒心は強く、将来的にもよほどロシアが
変わらない限り反ロシア感情が薄れるには世紀単位の時間が必要なのであろう。

聖ペトロの塔から眺めるリガ市内
 
聖ペテロからの眺め 
 
石畳が美しい
 
市庁舎広場

移動カフェ(自分たちの足で漕いで移動し好みの場所でお茶を飲む)
 
 
市場の花売り場

 市内を流れる川のクルーズ、緑がいっぱい
 

7 リガ大聖堂のコンサート
 リガ大聖堂は、1211年ローマ教皇の命を受け建てられた聖堂。この地の布教活動の拠点となった場所で約500年に亘って増改築が繰り返され、現在の姿になったのは18世紀後半のこと。
 この大聖堂はパイプオルガンとステンドグラスで有名である。特にパイプオルガンはパイプの数が世界で4番目に多い7,000本弱あり、ここで毎日オルガンコンサートが催されている。
 音楽のことは良く解らないながら、心に染み入る荘厳な音は教会ならではのことであろう。以前フランスの教会で夫婦2人だけで聴いたオルガン演奏の感動が蘇えった。
 低俗な話で恐縮だが入場料は€10、15、20の3段階。席は教会のお祈りをする席、音楽は2階後方からだが演奏者の姿はどこからも見えない。子供も多くクラシックのような厳粛さはなく通常の音楽会とは趣が大いに異なり、席の優劣もそんなにあるとは思えない。でも高い席が売れるのは寄付の意味合いが強いのだろうか。それとも音楽音痴の下司の勘繰りか?

リガ大聖堂、バルト三国最古の教会
 
コンサート風景
 
美しいステンドグラス
 
演奏終了後舞台挨拶する奏者
 
 有名なパイプオルガン全容
8 ユーゲントシュティール建築
 ユーゲントシュティールは建築音痴の小生には馴染みのない言葉である。今回ラトビアの首都リガを訪れた際、ガイドブックを見て初めて知った言葉で「アールヌーヴォー様式」を意味するとのこと。以下ウイキペディアからの引用
人間の頭部像や全身像、動植物を装飾に用い、曲線と直線の組み合わせを巧みに取り入れたユーゲントシュティール様式の建築物は、19世紀末から20世紀初めにかけて大流行したものの、移り行く世相の中で機能性を重視するようになった社会に受け入れられず、急速に消えていった。実はこの時代にちょうど都市の拡張が行われていたリーガでは、それまでの木造建築を取り壊したあとに数多くのユーゲントシュティール建築が建てられ、1914年まで建設ラッシュが続いた。その為今でもリーガには市内各所に多くのユーゲントシュティール建築が残っている。とりわけ旧市街北部のアルベルタ通り・エリザベーテス通り 等数か所でユーゲントシュティール建築が通り全体を占めているのは、ヨーロッパでもこのリーガだけしかない。
 詳しい理屈は判らないので兎にも角にも写真でご覧いただきたい。

通り全部がユーゲントシュティール建築
 
 
個々の建物全景
 以下細部の写真はネットから借用






 
  いやはや、見ていて楽しいことこの上ない。
 
9 占領博物館
 バルト三国はロシアに複数回に亘って占領され併合されている。そのためロシアへの警戒感は各国民に共通している。リガ(ラトビア)にある占領博物館、ビリニュス(リトアニア)にあるKGB博物館はともにロシア占領時時代の展示を中心とした博物館である。
 個人的な興味もあり両方の博物館に行ってみたが、正直拍子抜けした。中国瀋陽の「九・一八歴史博物館」や「南京大虐殺祈念館」、韓国の「独立記念館」などのえげつなさとは雲泥の差である。
 リガの占領博物館は市庁舎広場にあったようだががらんとしていて何もない。聞くと移転したとのこと。改めて移転したところに出掛けた。スターリンとヒットラーの写真が大きく掲げられている(撮影禁止)。ラトビアにとっての最大の悪人はこの2人ということであろう。
 展示内容は写真が中心であるが、沢山の写真が雑多に展示され言葉が判らないこともあり、いま一つ響くものがない。ロシア軍の市街地突入時の写真などあるのだが、写真も小さく迫力はない。
 中国や韓国の反日施設の迫力とは比べるべくもない。ラトビアがロシアから受けた被害、日本から受けた中韓両国の被害、両者にどれほどの差があったのか?ラトビアの展示と中韓両国の展示との差は月とスッポン以上の差で、改めて中韓との付合いの難しさを感じた。

写真中心の展示



ソ連軍に惨殺された死体
10 ヴィリニュス
 ヴィリニュスはリトアニアの首都で人口52万人のこじんまりした街である。タリン(エストニア)、リガ(ラトビア)と比べると少し散漫な感じでやや清潔感に欠ける印象だ。バルト三国の首都で唯一内陸に位置しているためハンザ同盟に加わっていない。
 そのためエストニア、ラトビアはドイツの影響を強く受けたが、リトアニアは長い間ポーランド領であったこともあり、その影響が強い。街の雰囲気の差はこの辺りに起因しているのかも知れない。
 街の印象は教会がやたらと多い。バルト三国は概して肥満の人が多いが、その中でもヴィリニュスはひときわ多い感じ。またこの三国の人は皆んな背が高いが、リトアニアはその中でも特に高いと感じた。
 タリンやリガは旧市街と新市街が明確に分かれているが、ヴィリニュスはその境界がハッキリしない。そのあたりもメリハリがない街という印象に繋がっているのかも知れない。
 ヴィリニュスの街は大きく全て徒歩で回るのは無理で、勢いタクシーを利用する機会が多かった。面白いのは流しや停車しているタクシーは高く、電話で呼ぶ方が3-4割安い。近くのお店に頼めば呼んでくれるが、時たま嫌がる店もある。

ゲディミナス塔から市街地を臨む。教会が多い。

市街地の北側を流れるネリス川
 
ゲディミナス塔からの眺め
 
聖アンナ教会(15 C末に建立された後期ゴシック様式の教会)。600年経て未だに当時の姿をとどめている。
 
11 杉原千畝記念館
 東洋のシンドラーこと杉原千畝の名前はご存知の方も多いと思う。彼は第二次大戦中リトアニアのカウナス領事館に勤務していて、ナチスの迫害から逃れるため日本通過ビザを求めるユダヤ人に外務省の訓令に背いて大量のビザを発行し、約6,000人のユダヤ人の命を救った。しかし外務省は訓令違反を理由に1947年免職処分とした。
 1985年イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」という称号を与えられ、勲章を授与されている。その後鈴木宗男元議員の奔走で1991年外務省は杉原の名誉を回復した。しかしそれは杉原死亡(1986年)後のことである。名誉を回復したとはいえ外務省内では未だに快しとしない雰囲気が強いと聞く。
 カウナスに杉原記念館がある。かっての領事館であるが、駅からの案内表示は何もなく、建物は貧弱、展示も頑張っているものの杉原の功績の大きさに対しては物足りない。聞けばこの記念館はベツギーやリトアニアの民間人から寄せられた基金で運営されていて、日本政府の金は一切出ていないらしい。来館者は年間13,000人でその90%が日本人とのこと。
 世界に大きな顔をして吹聴できる数少ない事例でありながら、外務省は自らそっぽを向いてこの貴重な宣伝資源を封印しているのは残念なことだ。

貧弱な杉原記念館

杉原千畝の執務机
 
ユダヤ人の命を救った日本通過ビザ
 
領事館時代の写真
 
12 食べ物は安い
 バルト三国は総じて物価は安い。特にビールや果物は安いと感じる。以下ヴィリニュス(リトアニア)での具体例をご紹介します。
*ビールは500ml缶で60~90円くらい。
*果物も写真の内容(バナナ8本、リンゴ1個、オレンジ2個、小粒みかん4個)で310円。

これで310円は安い
*夕食は立派なレストランで写真の内容(特製バーガー2皿、チキンサラダ1皿、フレッ
シュサラダ2皿にビール500ml2杯、ジュース2杯)を4人で食べて3,600円。



この写真以外にビール500ml 2杯とジュース2杯込を4人で食べて少々多め。一人当たり900円


 それ以外にバルト三国で部屋食や軽食で済ませたものを除き、まともに食べた昼食は8回で平均790円/人、夕食は5回で1,190円。ただ日本でも食事の値段は下がってきているので、値段だけの比較では余り差がないように思えるが、内容や雰囲気を加味すると日本よりかなり安い印象だ。何よりもビールと果物が安いのが嬉しい。
 食べ物以外でも交通費も安い。タリン~リガとリガ~ヴィリニュスはバスで移動した。リン~リガは4時間20分(普通席が満杯のためグリーン席)で€30、リガ~ヴィリニュスも同じ4時間20分で普通席€20(シニア割引で€16)。
 タクシーも日本よりは安いが、安いのは電話で呼ぶタクシーで街で拾うと3~5割くらい高くなる。近くのお店に飛び込んで頼んでもらうのが肝要。 

 
座席は2列、コーヒー付きでゆっくり出来る
13 KGB博物館
 バルト三国はソ連に数回に亘り占領され併合された。特に1940年代には多くの国民がシベリアに送られ酷い仕打ちを受けた歴史を持っている。それを忘れないようにリガにはラトビア占領博物館が、ヴィリニュスにはKGB博物館がある。ラトビア占領博物館では余りに淡白な展示で拍子抜けがした。ヴィリニュス(トアニア)のKGB博物館にも行ってみたが同じように期待外れであった。特にKGB博物館は事前にネットでその凄さを見ていただけに余計その念が強い。
 確かにシベリア送りにされた当時の獄舎が再現展示されている。シベリア送りされた人たちが厳しい日々を送った事は想像できるが、無機質な展示で迫って来る迫力はない。これならロシア人が見ても冷静に見ることが出来るだろう。
 ネット上で語られているKGB博物館の展示は「身の竦む思い」「長く留まることが出来ないくらいの匂い」等の表現がある。どうやら移設前の博物館の様子なのであろう。
 僅かに映像で虐殺シーンが流されているのが「身の竦む思い」であった。後で調べてみたら映画「カティンの森」https://youtu.be/H3vC90d7GWo という映画からとった1シーンらしい。中国・韓国の過剰とも思えるリアリティある残虐展示とは月とスッポンほどの差がある。

博物館前の慰霊碑               博物館内部の写真展示

当時の盗聴室       収容所のトイレ(5分という時間制限があった)  囚人部屋
https://youtu.be/H3vC90d7GWo


14 リガの中央市場
 エストニアのタリンからラトビアのリガまではバスで行った。バスを降りると向い側に中央市場があった。カマボコ型の建物が4棟並ぶ大変特徴のある市場である。市場は建物内と屋外の両方にあり、果物や花は主として屋外にある。
 全体の印象は①ゴミが殆どなく清潔な感じ。②港町でありながら鮮魚が思いの外少ない。③果物の種類は北国らしく多くない。④その代り花は実に豊富で安い。
 鮮魚売り場の横に缶詰が積み上げてあり、「Caviar」と表示されているが信じられないくらい安い!よく見るとどうもおかしい。缶には「SALMON」の表示が見える。道理で安いはずだ。ウロウロしていたら本物のキャビアがあった。ロシア産で28 gで€26(€98/kg)である、納得。
※キャビアは世界三大珍味と言われているが「値段対美味さ」では最低評価と思っている。
 面白かったのは瓶のキャップばかり集めて売っている店である。それも1軒や2軒ではなく数軒の店で売っていた。何に使うのかサッパリ判らない。想像するに瓶は蓋なしで売っているとしか思えない。何はともあれ市場を歩くのは実に楽しい。


 
 
 
15 ウクライナ到着



聖ソフィア大聖堂鐘楼から大聖堂を臨む

聖ミハイール黄金ドーム修道院
 
 聖ソフィア大聖堂鐘楼から聖ミハイール黄金ドーム修道院を臨む
 
 キエフ洞窟大修道院内最大のウスペンシキイ大聖堂
※この大聖堂は1941年ソ連のKGBスパイにより爆破されたが、ソ連はナチスの蛮行と発表していた。


16 ウクライナでツア本体と合流
 今回はバルト三国を10日間2夫婦で旅行し、ウクライナでロングステイクラブのメンバー18人と合流した。
 合流早々ハプニングが待っていた。参加者の一人がアレルギー発作を起こしやっとの思いでウクライナホテルに着いた。幸いメンバーの中に看護婦が居て、彼女の見立てで救急車を呼んだ。医師が応急処置をして病院に搬送し1日だけの入院で事なきを得た。到着早々だったので両替も出来ず、現地通貨も電話も持っていなかった。そのため退院の際必要なタクシー代など僅かなお金を渡してホテルに帰った。救急車を呼んでいる間に日本の保険会社と連絡を取り、キャッシュレスで大丈夫との連絡を受けていたので、最低限のお金しか渡さなかった。
 問題はホテルに帰着すると保険会社から「キャッシュレス不可」の連絡が入っていた。僅かなお金しか渡していないので翌日支払いが出来ず退院出来ないのではないかと心配した。翌日はチェルノブイリ原発の見学のため早朝より出掛けるため、病院に金を届けようがない。既に夜遅くになっていたので病院に行っても閉まっているし、連絡の取りようがなく途方にくれた。
 深夜に長時間かけて保険会社と交渉し、「何故キャッシュレスがダメになったのか?」と訊くと「日本から病院に電話してもロシア語しか判らず何回電話しても切られてしまい、キャッシュレスの交渉が出来ないから」という。押し問答の末「ヨーロッパの支店か代理店にロシア語が出来る人がいるはずだ。その人から電話させろ」で電話を切った。
 翌日チェルノブイリツアの途中で病院に確認のため何回か電話を入れても休日のせいか全く出ない。ずっと心配しながら夜ホテルに帰り、彼女の部屋に電話したら本人が出てきて、ヤレヤレ!
 翌日は他の一人が転んで骨折し、もう一回ひと騒動。前途多難を思わせる船出であった。

救急車に乗せる

殺風景な病院、看護婦詰所もなく廊下は真っ暗。 看護婦が3人いたが夜は1人になっていた。
17 ウクライナ騒乱の地に宿泊
 ウクライナで投宿したホテルはウクライナホテルという独立広場に面して建つ四つ星の名門ホテルである。今は何事もなく市民の憩いの場となっている独立広場だが、僅か2年半前の2014年2月にはEU派による反政府デモと警官が衝突し100人近くの死者と1,100人を超える負傷者という大惨事があった。
 この抗議デモでヤヌコーヴィッチ大統領は国外脱出し親EUの大統領代行が誕生した。この騒動の僅か10日後にロシアのクリミア併合へと発展した。
 今は広場周辺の道路に犠牲となった人々の写真が飾られているのが唯一の痕跡である。この広場の真ん前にあるホテルも何事もなかったように日々多くの客を迎え、送り出している。僅か2年半前に騒乱があったとは想像も出来ない。


 
 
18 ウクライナホテルのサービス
 宿泊したウクライナホテルのサービスはお世辞にも素晴らしいとは言い難い。
*仲間の一人がホテル近くで転んで足を痛めた(帰国後の検査で骨折と判明)。何とかホテルに辿り着き車いすを頼んだが、「ホテルにはありません」の一言。
*このホテルには4泊したが清掃・タオル交換はいちいち督促しないとやらない。
*インターネットのパスワードが毎日変わる。困ってフロントに聞きに行って初めて判った。
*仲間が救急車で運ばれ1日入院した際、タクシーで病院に行く為手配をホテルに頼んだ。
130UAH(グリブナ)≒650円掛かった。前日病院からホテルまでが60UAHだったので文句を言ったが埒が明かずホテルに電話したら「それが相場です」で一蹴。因みに帰り50UAHであった。

独立広場越しに見るウクライナホテル

ホテルから独立広場を臨む
19 チェルノブイリ原発跡(1)
 チェルノブイリ原発の跡地を見に行った。事故から30年経った現場の様子を3回に分けてご報告したい。
 この原発は1978年に稼働し事故が起きたのは1986年4月26日であるがロシア政府が事故を認めたのは2日後の28日である。この事故で多くの人が亡くなったがその多くは事故直後の消防隊員と作業員で彼等は放射能の脅威は知らせれないまま防護服もつけず作業に従事したという。30年経った今でも回収されない遺体が現場に残されているという。
 驚くことに事故が起きたのは4号炉であるが、残りの3炉は事故後も運転をし続けたということである。2号炉は1991年火災を起こして停止、1号炉は1996年にIAEAとの協議で停止、最後の1号炉が停止したのは事故から14年半後の2000年11月のことである。
 事故直後から半径30 km内は立入り禁止措置が取られていたが2010年に放射線量低下を理由に解除され、現在では多くの観光客が訪れている。
 原発から30 km地点に入場ゲートがあり、入場料$125/人を徴収する。その地点の線量は0.14マイクロシーベルト(μ㏜)、10 km地点にもゲートがあり0.18 μ㏜、 一番線量の高かったのは3-4 km地点の木造住宅を埋めたところが12.0μSvであった。更に事故炉から200~300 m位のところに展望台があり、その地点では2.5μ㏜であった。

 事故炉から10 kmのところにある慰霊塔。消防士と作業員が描かれている。

立ち退きを余儀なくされた町村の表示板   事故現場で活躍したロボット
 
随所に「福島」が顔を出していた      ガイドは放射能測定器を持参し随所で計測
20 チェルノブイリ原発跡(2)
 最初は恐る恐るで、参加した女性の一部は完全武装していたが、放射線量の低さや周辺の観光客のラフな服装などから緊張感は一気になくなり、完全武装は浮いた存在であった。
 途中遺棄された町の施設や公民館などをいくつか見たが学校などは教材等が散乱し、どの施設もありのまま遺棄されているので生々しく、事故の悲惨さが伝わってくる。
 最後に原発従業員のために1970年に出来たプリピアチ市の廃墟跡を見て回った。事故前この街は原発成金の街として有名を馳せていたらしい。あと4日で開園予定の遊園地が原発事故のため結局一人の客も入らずに放棄されていた。遊具などもそのまま残っていて一層哀れを誘う。その他レストランや病院、ナイトクラブ、プールなど成金の街に相応しい華やかさを留めていて一層哀れを誘う。
 半径30 km内は2010年まで立ち入り禁止措置が取られていたが、150人程度の住民は立ち退きを拒否して住み続け、現在に至っているという。その住人の一人と偶然会って話をしたが言葉が判らず肝心なことは聞けなかったのは残念であった。

完全武装の女性たち             事故後もずっと現地に住み続けている老人(82才)

開園直前の遊園地(観覧車とメリーゴーランド)    同(ゴーカート場)
 
レストランの跡地               学校の跡地、何を教えていたのか興味をそそる
21 チェルノブイリ原発跡(3)
 現在の状況はどうか。事故炉の近くに展望台が設けられ観光客はそこまで行ける。4号炉は事故直後の6月から11月に掛けて造られたコンクリート製の石棺で覆われている。その耐久年数は30年ということでその補強が検討されたが強い放射線に阻まれて出来ず、その石棺の上にさらに巨大なシェルターを造って覆う作業が進められている。その巨大なシェルターは事故炉の300 mほど離れたと所で造られ、可動式で完成後事故炉の上まで移動するという。シェルターの大きさは横257 m、縦162 m、高さ108 mで重さは36,000トンで世界最大の可動建造物という。
 その巨大なシェルターは展望台のすぐ近くで造られていて、その巨大な姿を展望台から見ることが出来る。輪郭はほぼ出来上がっていて近々移動されるとのこと。
 チェルノブイリ原発事故跡を見ていると福島の廃炉作業が完了するまでの気の遠くなるような歳月が思い遣られる。

2013年の写真。左から建設中の巨大セルター、4号炉、3号炉、2号炉、1号炉(写真はネットから借用)

 事故のあった4号炉近くの展望台
 
巨大シェルターと4号炉
22 モルドバ
 モルドバという国をご存知だろうか。場所は地図でご確認を。人口356万人、面積は九州くらい、1人当りGDP約$1,600(世界213 ヶ国中165 位)という小国である。
 この国は欧州の小国のご多分に漏れず列強の支配に翻弄された歴史を持つ。ソ連崩壊に伴い1991年に独立を果たしたが、ウクライナとの国境沿いにロシア人が多く留まり、ロシアの支援を受けて沿ドニエストル共和国を宣言していてモルドバの主権が及んでいない(国連や主要国は国として認めておらず、モルドバの一部とみなしている)。
 今回キエフからバスでモルドバの首都キシナウへ向かうことを検討したが、その場合沿ドニエストル共和国を横切らねばならず、不測の事態を避けるため空路キシナウ入りすることにした。
 モルドバで有名なのはワイン。国土の80%がぶどう作りに適した丘陵地で、紀元前3,000年には既にワインの生産が行われていた。今日まで5,000年に亘って美味しいワイン醸造のノウハウが蓄積されフランス、スエ―デンはじめ欧州各国の王室で愛用されるなど同国の主要産業だ。しかし近年ロシアの経済制裁でワインの輸出が滞り経済的には苦境に立たされている。

ウクライナとルーマニアに挟まれている     緑色の部分が沿トリエストル共和国


以下首都キシナウの街点描



 
23 立派過ぎる駅
 モルドバの首都キシナウは小さな町であるが、鉄道駅は実に立派だ。駅に入って豪華でキレイな内装にビックリする。床は全て大理石で内装全般に垢抜けしている。しかも切符販売のブースが7つもズラリと並んでいる。しかし1つを除いて全て閉まっている。それもそのはず、列車は5本/日しか発着していない。この国の鉄道は国内線はなく国際線のみでモスクワ行3本、S.ペテルブルグ行1本、ブカレスト行1本。にも拘わらず実に大きく豪華、何のためにこんなに贅沢なものを造ったのか???
 今回はキシナウからブカレスト(ルーマニア)まで寝台列車を使った。人数が20人と多かったので全員の寝台が取れるかどうか不安で、日本から切符の予約をホテルの人に頼んだ。しかし夏休みだとか何とかで一向に埒があかない。Tさんが散々苦労して交渉したが結局事前予約は出来ず、キシナウ到着と同時に予約の為駅に走った。予約はオンライン化出来ておらず手作業で延々1時間半掛かって無事予約が出来た。案ずるより産むが易し、ガラガラであった。
 駅舎だけでなくホームの実に立派である。察するにどこかの国の援助でこんな分不相応な駅舎やホームが造られたに違いない。これだけの金があればもっと有益なものが造れただろうに。役人の融通が利かないのはいずこの国も同じということか?

駅舎正面と豪華な内部


切符売り場の女性とズラリ並んだブース

 
駅のホームも実に立派

24 キシナウの市場
 キシナウの駅近くに青空市が出ていて寝台列車の切符発券の待ち時間に散策した。何でもありで実に楽しいひと時であった。質のいいものはないのだろうが何でも安い。ヨーロッパには蚤の市とかドロボー市などの青空市があるが、それらと比べるとまだまともなものを売っている感じがする。
 面白かったのは売り子が盛んに「コンピューター、コンピューター」と呼びかける。何だろうと思って覗いてみるとソロバンであった。日本では見かけないタイプで中国から来たものだろうか?確かにコンピューターには違いない???
 モルドバの名誉のためにお断りしておくが、キシナウの街には立派な中央市場がある。それでも駅舎の立派さとは程遠いが品物は豊富で活気がある。それ以外にも街の規模の割には規模の大きな立派なスーパーがある。

鉄道駅近くにある青空市


左の写真の真ん中にコンピューター?がある

 
こちらはチャンとした市場

25 モルドバの凱旋門
 モルドバの首都キシナウには小振りながらどこかで見たような凱旋門がある。そう、パリのエトワール凱旋門を模して造ったらしい。大きさはおそらく世界最小クラスと思われる可愛さ。
後ろに見えるのは大聖堂と鐘楼。鐘はオスマントルコから独立後トルコの大砲で造ったとのこと。



凱旋門と言えばパリのエトワール凱旋門(ナポレオンの命で建造、完成はナポレオン死後の1836 年。高さは50 m。



最古の凱旋門はコンスタンチヌスの凱旋門315年完成。



 世界最大は平城凱旋門(北朝鮮) 高さ60 m。



26 鉄道の軌道幅について
 キシナウ(モルドバ)からブカレスト(ルーマニア)への移動は夜行寝台列車を利用した。途中の国境で珍しい光景を見せてもらった。列車の台車交換である。モルドバはロシアの影響で広軌の1,520 mm幅、ルーマニアは標準軌の1,435 mm幅である。交換方法はジャッキで車体を持ち上げ台車を交換するという方式である。
 調べてみると鉄道幅には驚くほど多くの種類がある。一般的には広軌、標準軌、狭軌であるが広軌には1,520、1,524、1,600、1668、1,676 mmなどが存在する。標準軌は1,435 mmのみだが狭軌には1,372、1,067、1,000、914、762、610、600 mmなどがある。
 何故かくも多くの軌道幅があるのか?理由はさまざまである。・純粋に性能論争 ・利害得失による思惑 ・軍事的理由などである。アメリカでは利害が絡んでの理由が中心で、ヨーロッパはロシア等の侵略に備えての軍事的理由から異なる軌道幅になった場合が多い。
事実ロシアは1877年の露土戦争での苦戦、第一次世界大戦の初戦でドイツに大敗した原因の一つに軌道幅の違いで鉄道が使えなかったことが挙げられている。
 インドでは植民地支配していたイギリスが意図的にインドの成長を遅らせるために6種類もの軌道幅を作り、現在もその後遺症に悩まされていると聞いた(真偽の程は確信はないがほぼ間違いないと思う)。
 こうした様々な思いが織りなした結果の車輪交換、見ていて飽きることはない。

車体にジャッキをセット

車体の持ち上げ完了
 
 車輪交換



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