中東通信

2014年11月7日~26日
神原克収

目次


1 旅の概要 2 イスラエル・ヨダンは砂漠の国
3 イスラエル・ヨルダンは坂の街 4 イスラエル入国時の緊張感(その1)
5イスラエル入国時の緊張感(その2) 6イスラエルの検問
7入植活動 8 三つの宗教の聖地
9 ユダヤ教の聖地 10イスラム教の聖地
11キリスト教の聖地―聖墳墓教会 12 聖墳墓教会の教派争い
13キリスト教の聖地(ヴィア・ドロローサ) 14マサダ遺跡
15 死海での浮遊体験 16 ベツレヘム
17 ヘブロン 18 ナザレ
19 オリーブ山(エルサレム) 20 アカバからの夜景
21 ドバイ空港の活況 22 男性社会



1 旅の概要
 今回はロングステイクラブのメンバー10名の旅である。中東に滅法詳しい金田会員のお誘い旅行である。期間は11月9日アンマン空港集合、11月26日アンマン解散で、私はイスタンブールを4日間楽しんだ後アンマンで合流した。
 今回のメイン目的はイスラエルのエルサレムとヨルダンのペトラ遺跡である。ルートはアンマン(2泊)~エルサレム(8泊)~アカバ(ヨルダン、2泊)~ワディ・ムーサ(ペトラ遺跡の玄関口、4泊)~アンマン(2泊)というルート。

         

エルサレムはまさに「百聞は一見に如かず」、本やマスコミ情報では得られない現場の「空気」を感じることが出来大きな収穫であった。
 ペトラ遺跡は過去見た遺跡の中で最も感動的な遺跡であった。
 費用は航空券別でUS$1,450(約17万円)。
次回から見たまま、感じたまま、独断と偏見に満ちたレポートをお送りします。   

2 イスラエル・ヨダンは砂漠の国 イスラエル・ヨダンは砂漠の国
 ヨルダンのアンマン空港に降り立っての第一印象は「砂漠の国」。アンマン空港やアンマン市内は砂漠にポツンとある街という感じ。アンマンから陸路イスラエルに入ったが、この道中もずっと砂漠が続いている。エルサレムもまた砂漠の国であることは間違いない。
これらの街が天然のオアシスなのか、ヨルダン川の水を引き入れているのか、はたまた地下水を汲み上げて水を賄っているのかは定かではない。聞くところによると近年死海の水位が劇的に下がっているらしい。これは死海を取り巻く街が地下水を汲み上げている影響ではないかと素人推量するも定かではない。
何はともあれ中東では「水」が最大の戦略物資であるという印象を強く受けた。
これに比べて日本はどこにでも緑があり、街に銃を持った兵士がいるでもなく、彼等の目にはまさに天国そのものであろう。日本で暑いの寒いのとぼやいているのがいかに贅沢な悩みか思い知らされる。

   

   

   

3 イスラエル・ヨルダンは坂の街
 ヨルダンのアンマン空港に降り立っての第一印象は「砂漠の国」。アンマン空港やアンマン市内は砂漠にポツンとある街という感じ。アンマンから陸路イスラエルに入ったが、この道中もずっと砂漠が続いている。エルサレムもまた砂漠の国であることは間違いない。
これらの街が天然のオアシスなのか、ヨルダン川の水を引き入れているのか、はたまた地下水を汲み上げて水を賄っているのかは定かではない。聞くところによると近年死海の水位が劇的に下がっているらしい。これは死海を取り巻く街が地下水を汲み上げている影響ではないかと素人推量するも定かではない。
何はともあれ中東では「水」が最大の戦略物資であるという印象を強く受けた。
これに比べて日本はどこにでも緑があり、街に銃を持った兵士がいるでもなく、彼等の目にはまさに天国そのものであろう。日本で暑いの寒いのとぼやいているのがいかに贅沢な悩みか思い知らされる。


4 イスラエル入国時の緊張感(その1)
 ヨルダンのアンマン空港に降り立っての第一印象は「砂漠の国」。アンマン空港やアンマン市内は砂漠にポツンとある街という感じ。アンマンから陸路イスラエルに入ったが、この道中もずっと砂漠が続いている。エルサレムもまた砂漠の国であることは間違いない。
これらの街が天然のオアシスなのか、ヨルダン川の水を引き入れているのか、はたまた地下水を汲み上げて水を賄っているのかは定かではない。聞くところによると近年死海の水位が劇的に下がっているらしい。これは死海を取り巻く街が地下水を汲み上げている影響ではないかと素人推量するも定かではない。
何はともあれ中東では「水」が最大の戦略物資であるという印象を強く受けた。
これに比べて日本はどこにでも緑があり、街に銃を持った兵士がいるでもなく、彼等の目にはまさに天国そのものであろう。日本で暑いの寒いのとぼやいているのがいかに贅沢な悩みか思い知らされる。

   

4 イスラエル入国時の緊張感(その2)
入国審査の際、イスラエル国内での行き先を聞かれるが、注意を要するのはユダヤ人支配地域(エルサレム、テルアビブ、ナザレなど)であれば問題ないがパレスチナ人支配地域(ベツレヘムなど)の街を言うと別室で根掘り葉掘り聞かれる可能性が高いとのこと。入国の際は嘘でも良いのでユダヤ人支配地域を申告することがスムーズに入国審査を通過するポイントである。実際にはリーダーのKさんが最初に入国審査を受け、「10人が同じグループだ」と告げ、残りの9人は大した質問も受けず通過出来、ホッとした。
入国する際パスポートの提示を4回求められた。荷物検査があるのは当然だが、こちらは意外にスムーズであった。これは日本人というのが理由かもしれない。
随所に銃を持った兵士が立っていて「イスラエルに来た」という実感が湧いてくる。全てが終わってタクシー乗り場で待っている時に数名が写真を撮った。すぐに兵士が飛んできてカメラに映った映像をチェックされた。私も撮ったが気付かれなかったのでノーチェック。でも写真に撮ってもどうってことない風景なのだが・・・。ここでも「イスラエルに来た」という気になった。
※イスラエルに入国する際は次のことは事前に調べておくことが大事。
○イスラエルの敵国はどの国か。
○イスラエル国内でパレスチナ人支配地域はどこか。
   

6イスラエルの検問
イスラエルの人口構成は複雑で、一応ユダヤ人75%、アラブ人21%、その他4%だ。しかしユダヤ人の定義の中にはユダヤ教に改宗した人も含まれているため、かなり怪しいユダヤ人もいるとのこと。
イスラエルはもともとパレスチナ人を追い出して建国されたので、当然のことながら抵抗するパレスチナ人も多くいるし、テロも発生する。そのためイスラエル国内は常に緊張感に包まれている。
イスラエルにはユダヤ人支配地域だけでなく、パレスチナ人支配地域も存在する。ユダヤ人はパレスチナ人の力を如何にして削ぐかが常に大きなテーマであり、そのため至る所で摩擦が発生する。
エルサレムはユダヤ人支配地域であるが、当然のことながら沢山のパレスチナ人もいる。ユダヤ人のあからさまな嫌がらせ(ユダヤ人からすると安全上の当然の措置)が随所に見られる。その一つが検問で銃を持った兵士がパレスチナ人に身分証明書の提示を求めたり、何事か判らないが質問している姿を随所で見ることが出来る。日本にいては想像すら出来ない風景で、安穏な気持ちではいられない。
   

7入植活動
前回述べたようにイスラエルにはパレスチナ人支配地域が数多く残っている。そこへユダヤ人が入植し、じわじわとユダヤ人地域を拡大している。入植者を守るために入植者の5倍くらいのイスラエル軍兵士が警護しているという。
入植に際して「土地はパレスチナ人の言い値で買え」という指示が出ていると聞いた。買った土地に入植するのだから違法ではないというのがイスラエルの言い分なのだろう。
「合法」という言葉の裏では次のような事例もあるという。ヘブロンでユダヤ人入植者がパレスチナ人に徹底的に嫌がらせをし、彼等が堪らず逃げ出しゴーストタウンと化している地域がある。いずれこの土地も買い取って入植地にするのだろう。あくまでも建前はパレスチナ人が「自主的に」退去したから入った、という理屈になるに違いない。
   

8 三つの宗教の聖地
 エルサレムは3つの宗教の聖地である。エルサレム旧市街は約1Km四方の城壁に囲まれた狭い地域で、東西南北に宗派ごとに4分割されている。北東はイスラム教徒地区、北西はキリスト教徒地区、南東はユダヤ人地区、南西はアルメニア正教徒地区である。
 イスラム教徒の聖地はアルアクサ寺院、キリスト教徒に聖地は聖墳墓教会、ユダヤ教徒の聖地は嘆きの壁、これらの聖地は狭い地域に集中している。
 それ以外にもイスラム教徒にはマホメットが昇天したといわれる「岩のドーム」、キリスト教徒にはイエスが歩いた悲しみの道「ヴィア・ドロローサ」、アルメニア正教徒にはヤコブが殉職した場所と言われる「聖ヤコブ大聖堂」など重要施設がひしめいている。
 次回からこれらの聖地を一つずつ見て行くことにする。


9 ユダヤ教の聖地
ユダヤ教の聖地は「嘆きの壁」である。この壁はバビロン捕囚から帰還したユダヤ人が建
て、ヘロデ王が紀元前20年に大改修した神殿の西側の外壁である。この神殿は紀元70年にローマ軍により破壊されたが、その際残ったものである。
 神殿崩壊後はユダヤ人のエルサレム立ち入りは禁止され、4世紀になって年に一度だけ来訪が許されることになった。その後1948年からはヨルダン領となってユダヤ人は近付くことも出来なかった。1967年の第三次中東戦争でこの地を奪回し、ようやく自由に祈りを捧げることが出来るようになった。
 嘆きの壁に頭をつけて真剣に祈る姿は心に迫るものがある。中には涙を流しながら一心不乱に長時間祈る人もいる。石垣の隙間に白い紙が沢山詰まっている。これはユダヤ教徒が悲願を書いた紙きれだそうだ。日本にも願い事を書く習慣はあるが、真剣味は月とスッポンほどの差があるに違いない。
 壁の高さは21mで、その先にはイスラム教の聖地アルアクサ寺院と金色に輝く岩のドームが存在する。ユダヤとイスラムの聖地が同じ場所にあり、エルサレムの複雑さを象徴する場所である。


嘆きの壁,仕切りの左は男性用、右は女性用

一心不乱に祈っている

願いを書いた紙を石垣の間に入れる

金色のドームはイスラム教の聖地、
右側の壁が嘆きの壁、
右の通路は岩のドームへの通路

嘆きの壁は岩のドームのすぐ後ろ(崖下)
10イスラム教の聖地
イスラム教の聖地はメッカ、メディナ、エルサレムの3か所である。エルサレムには神殿の丘と呼ばれる場所にアル・アクサ寺院とイスラム建築の傑作と言われる岩のドームがある。この地はムハンマド(マホメット)が天使ガブリエルを従え馬に乗って昇天した地と伝えられている(紀元632年)。
※岩のドームは聖なる岩を守るためのドームで礼拝所(モスク)ではない。礼拝所はアル・アクサ寺院である。岩のドームが金メッキのアルミ板で覆われたのは1964年。
この岩はユダヤ教にとっても聖地となっているためややこしい。この岩はダビデが神との契約の箱をこの岩の上に置いた、とされていている聖地なのだ。
現在はイスラム教徒の管理下に置かれているが、エルサレム全体はイスラエルが支配しているし、ユダヤ教徒の聖地「嘆きの壁」のすぐ上に広がっている丘に建っているため爆弾の上に建っているようなものである。パレスチナ問題が拗れる要素はいくらでもある。
※我々が行った日の数日前に過激なユダヤ教徒数人がこの地を奪還すると言って乱入し、その煽りで岩のドームへの通路が閉鎖され見学は不可能であった。幸いエルサレムを去る前日解除され見学することが出来た。


アル・アクサ寺院から見た岩のドーム(異教徒は入れない)

岩のドームから見たアル・アクサ寺院(モスク)

アル・クサ寺院入口(異教徒はれない)

岩のドーム壁面は見事なタイルで覆われている

岩のドームに収められている聖なる岩(写真はエクスペディアから借用)

11キリスト教の聖地―聖墳墓教会―
エルサレムにはキリスト教の聖地もある。聖墳墓教会とヴィア・ドロローサである。イエスが十字架に架けられ処刑されたのはゴルゴタの丘で、その丘に建てられたのが聖墳墓教会である。この教会は4つの宗派(ローマカトリック、アルメニア正教、コプト教会、ギリシャ正教)により管理されている。管理外の場所でうっかり掃除でもしようものなら宗派間の紛争に発展するという。毎朝の開門作業は調整がつかないためアラブ人の少年が勤めている。同じキリスト教ながら聖地でいがみ合う姿は異教徒からすると滑稽である。
この教会のハイライトはイエスの墓、イエスの死体を横たえたといわれる石、イエスが十字架に架けられた場所、その十字架が立てられたくぼみのある場所などで、それぞれの宗派が管理している。但しイエスの墓は共同管理とのこと。
これらの場所には出来るだけ近づき、触れたり、頭をつけて祈ったりするため、朝から並んでいる。私も並んでやってみたが20分くらい並んで順番が来たら10秒くらいで追い立てられた。追い立てられても去り難く執拗に祈り続ける人も多い。中には祈っている姿を写真に収めるのが主目的と思える人も沢山いた。人さまざまである。


聖墳墓教会(写真提供:トンガリキさん)

イエスの墓(写真提供:トンガリキさん)

イエスの死体が置かれたと言われる石

イエスはここで十字架に架けられた(写真提供:トンガリキさん)

十字架が立てられたくぼみのある場所、長時間並んで順番がきてもすぐ追い立てられる(写真提供:トンガリキさん)

12 聖墳墓教会の教派争い
写真は聖墳墓教会の入り口で、2階の左から2番目の窓の下にハシゴが見える。このハシゴは約140年前から置いてあるとのこと。何故か?
前回述べた通り聖墳墓教会の中は各教派によって管轄権が有り、これは現在でも厳しく守られている。しかしこのハシゴがどの教派に管轄権が有るのか不明という理由でその侭にされている。各教派は自派の管轄である事を願っているが他派が管轄権を主張するのは絶対に認めないのでそのままにされている。何とも凄まじい縄張り争いである。
聖墳墓教会以外にもベツレヘムの生誕教会に於いても他派の管轄を侵さないという協定が存在する。
日本人には到底理解出来ない意地の張り合いだが、各教派のいがみ合いの凄まじさを如実に物語っている。同じキリスト教徒間でこれだけ頑なになるのだから、ユダヤ・イスラム・キリスト教間のトラブルが円満に解決するなど夢のまた夢に違いない。パレスチナ問題も結局は力によってしか解決出来ないということなのか。
 
13キリスト教の聖地(ヴィア・ドロローサ)
キリスト教徒にとっての聖地は聖墳墓教会の他にヴィア・ドロローサがある。イエスはユダヤ人だが、自らを「神の子」と称したためユダヤ教の律法学者から「アッラーの神を冒涜する」として断罪され、死刑の宣告を受けた。
イエスは死刑判決を受けた場所から磔になるゴルゴタの丘まで十字架を背負って歩いた。その道がヴィア・ドロローサなのである。途中で起きた出来事が14地点で示され、キリスト教徒はそれを黙想しながら歩くのである。
第1留から第9留までは狭い道路脇にあるが、イエスが衣服を脱がされた第10留から墓に納められた第14留までは聖墳墓教会の中にあるため、聖墳墓教会はいつも巡礼者と観光客でごった返している。
各留は番号の印があるだけで何の説明もなく、注意して歩いていても見逃す。異教徒にとっては何の変哲もないただの道にしか過ぎない。勿論新約聖書にはこれらの出来事が克明に記されているらしいので、全くの作り話ではないのだろうが、宗教に拘らない私にはなかなか理解しにくい。キリスト教徒にとっては神聖な行事だが、中には面白半分で十字架を背負いそれを写真に撮る観光客も沢山いるのも事実である。
※イエスを処刑したのは当時の為政者ローマ帝国だが、それを主導したのはユダヤ教徒である。この時の遺恨がのちのキリスト教徒によるユダヤ教徒迫害に繋がっている、と言われている。
 
 
 
上段第3留から第5留、下段第6留から第8留
 
上段第9・11留、下段第12・14留(第10-14留は聖墳墓教会の中にある)
 
面白半分の観光客も結構いる
14マサダ遺跡
ここは紀元前120年頃ユダヤ人の要塞として建設され、後にヘロデ王が増築して冬の宮殿として造られたが、紀元73年にローマ軍により滅ばされた。この要塞は切り立った岩の上に造られ難攻不落で僅か1,000人足らずの兵力で15,000人のローマ軍相手に2年間持ち堪え最後は女5人を除いて全員が集団自決した。この落城から2,000年に及ぶユダヤ放浪の歴史が始まったのである。
集団自決を必ずしも全面的には肯定しないが、降伏して異教徒の辱めを受けるのを潔しとせず自決した心意気には心打たれる。第二次大戦以前の日本人はこうした矜持を持ち合わせた人は多かったと思うが、現在の日本でこれだけの誇りを持ち続けている人がどれほどいるかと思うと、暗然とする気持ちも強い。
この遺跡に立つとマチュピチュ(ペルー)やシーギリヤ(スリランカ)などを思い出す。これらの共通点は切り立った崖上や不便な高台にあること、水の確保に独特の工夫を凝らしていることなどだが、「何故こんな不便なところに」という疑問がいつも付いて回る。昔は外敵からの防御が全てに優先する条件であったのか?
※現在のイスラエルでは軍の入隊宣誓式はここマサダで行われ、「2度とマサダの悲劇は繰り返さない」と誓うのだそうだ。)
 
遺跡の全体像、手前の三段になっているのが北の宮殿(写真はエクスペディアから借用)
 
マサダ遺跡へはロープウエイで登る 雨水を集水して巨大な水がめに集める
 
北の宮殿の模型現在の北の宮殿跡
 
写真右上にローマ軍の宿営地跡が見える
 
ローマ軍は櫓を組んで橋を架けマサダ要塞を攻略したという(当時の想像図)
15 死海での浮遊体験
マサダ遺跡は死海の傍にありマサダに行った際死海にも立ち寄った。死海は海 抜マイナス 420m、塩分濃度は通常海水の 10 倍、33%ある。これはヨルダン川から の流入はあるが、出口がなく強烈な太陽光で水分が蒸発して塩分が高まったため である。 浮遊体験をしたがアメリカのソルトレイクとは比べ物にならないくらい楽に浮く。 試しにほんの少し舐めてみたが塩辛いというより強烈な苦さであった。 死海には大きな問題がある。周辺の開発が進みヨルダン川からの水の汲み上げ が増えて死海への流入が減りここ 40 年間は毎年1m水位が下がっている。水面の 海抜は2004年は-417mであったが2014年は-428mと11mも水位が下がっている。 深度は 290m あるのでまだまだ大丈夫という意見と、2050 年には干上がるという 警告も出ている イスラエルとヨルダン政府共同で 200km離れた紅海から海水をくみ上げパイプ ラインで死海に注入する計画が進んでいるが、この程度では死海の水位低下は防 げないという。パレスチナ問題同様ここでも出口が見えてこない。
 
楽らくと浮く

 
標高表示 死海の標高は毎年 1mずつ下がっている
16 ベツレヘム
イスラエルにはエルサレム以外にもキリスト教の聖地がある。イエス誕生の地ベ ツレヘム、キリスト・ユダヤ・イスラム教の祖であるアブラハムの墓があるヘブロン、 マリアが受胎告知を受けたナザレである。位置関係は次の地図で確認下さい。
 
ベツレヘムはイエスが馬小屋で生まれ、東方三博士が星に導かれて会いに来た 町で、その地に聖誕教会が建っている。イエス聖誕の場所は地下洞窟に有り、そこ へ行くため長い列が出来ている。ガイドにチップを渡すと待ち時間ゼロで入れてく れた。時間節約で大いに助かったが複雑な気持ちになったのも事実である。 ここはパレスチナ自治区でユダヤ教徒は行きたがらない。街にはユダヤ、パレス チナ双方の武装軍人が屯していて、パレスチナ問題の最前線の緊張感がある。 また、この街はエルサレムの南10Kmのところにあるが、今問題になっている分離 壁で隔てられていてパレスチナ人の通行は大幅に制限されている。分離壁も近く で見ると凄い威圧感があり、パレスチナ人はその存在の前に無力感で立ち竦んで いるに違いない。
※1 イエス誕生の日は 12 月 25 日となっているが実際のところは定かではなく、ここで生まれたかどうかも怪しいらしい。聖誕教会を建てたのはローマ皇帝コンスタンチヌスの母ヘレナで、彼女がこの地をイエス誕生の地として教会を建てた。紀元 326 年のことである(エルサレムの聖墳墓教会を建てたのもヘレナ)。
※2 毎年クリスマスイブのミサが TV 中継されるのは聖誕教会のすぐ横の聖カテリーナ教会。
※3 ベツレヘムは 1920 年からイギリスが統治、第一次中東戦争でヨルダンが占領し、1948-49年にイスラエル占領地から大量の難民がベツレヘムに流入した。1967 年第三次中東戦争でイスラエルが占領し、その後 1995 年にパレスチナ政府に行政権を引き渡した。
※4ベツレヘムは2000-2005年の第二次インティファーダの際戦闘地域の中心となった。2002年パレスチナ過激派が多数逃げ込んだのが聖誕教会で、イスラエル軍は 39 日間の包囲後過激派 13 名を国外追放して決着した。

 
左 聖誕教会内部(写真はネットから借用) 中 現在は 326 年建立以来最大の修復作業中
右 教会内部の床のところどころに穴があり、その下には創建当時のモザイクタイルがある


 
地下洞窟内にあるイエス生誕の場所(写真はネットから借用)、中央星の東方三博士が星の導きで来たことに由来している。

 
街にはユダヤ・パレスチナ双方の武装兵士が集結している

 
ベツレヘムで見た分離壁 分離壁遠景(場所不明:写真はネットで借用)
17 ヘブロン
ヘブロンはユダヤ・イスラム・キリスト教の祖であるアブラハムとその息子イサク 等の墓がある。特にユダヤ・イスラムにとっては最も大切な聖地の一つで両教徒の 対立が後を絶たない。 現在はこの聖地を 2 つに分けユダヤ・イスラム両教徒が同じ墓を別々のところか ら礼拝している。当然お互いの交流はあり得ないが我々観光客は両方に入れる。 ヘブロンはヨルダン領であったが、1967 年の第三次中東戦争でイスラエルが占 領。それに伴い追放されていたユダヤ人が戻り、入植地建設が始まった。 1980 年パレスチナ人による 6 人のユダヤ入植者殺害事件を契機にイスラエル軍 が聖廟周辺のパレスチナ人を追放し、入植地を拡大。その後も両者の対立が続いた が 1997 年パレスチナが 80%、イスラエルが 20%統治することで合意した。 その後もイスラエル軍優位をバックにユダヤ人入植者によるパレスチナ人への 嫌がらせで追い出し、廃墟となったパレスチナ人集落もある。 国連による監視団も入ってはいるが、イスラエルに対する若干のブレーキにはな っているものの、抜本的には何の役割も果たせていない。 ヘブロンで見る限り、イスラエルが力をバックにパレスチナ人を追い出している 構図が見て取れる。


 
アブラハムの棺(写真提供:Kum さん) エデンの園への入り口

 
同じ墓をアラブ、ユダヤが反対方向から拝礼している(左:アラブ、右:ユダヤ)


イサクとその妻の墓(アラブ側) ユダヤ側の風景


上に住むユダヤ入植者からゴミ、糞尿、コンクリートブロック等が投げ込まれ、それを防ぐパレスチナ人のネット。最終的にはパレスチナ人が耐え切れず退去し、廃墟となったスーク(写真左:ネットから借用、写真右:Kum さん提供)
18 ナザレ
ナザレの目玉は受胎告知教会である。さぞ古めかしい教会かと思いきや大変モ ダンな教会である。資料には1969年完成とある、モダンなはずだ。でも少々有難み に欠けると感じるのは小生の宗教感覚欠如によるものか? ここにはマリアが大天使ガブリエルから受胎告知を受けたと言われる洞窟やイ エスの住居跡などがある。これほどの聖地ながらエルサレムと比べると格段に巡 礼者が少ない。ナザレの街にはキリスト教徒とイスラム教徒がほぼ半々住んでいる が、他の聖地に比べると緊張感は格段に少ない。オスマン朝時代のキリスト教への 寛大な扱いが今に生きているのだろうか? この教会には世界各地から寄贈されたマリア像が展示されている。日本からは 長谷川ルカの「華の聖母子」が飾られている。展示されている場所は礼拝所の最も 目立つ場所で、作品の出来栄えもメイン場所を占めるに相応しいものである。

 
モダンな受胎告知教会
 
目玉は受胎告知を受けたと言われる場所(奥の巡礼者が集まっている所)
 
イエスの住居跡
 
世界各地から贈られたマリア像。それぞれの国の特徴で出ていて面白い。
 
ルカ長谷川「華の生聖母子」
19 オリーブ山(エルサレム)
神殿の丘の東にケデロン谷を挟んでオリーブ山(海抜 825m)がある。ここはイエ スの足跡が数多くあり、キリスト教徒にとっての聖地である。 ユダヤ教にとってもここは聖地である。終末の日にメシアがこの丘に立ち黄金の 門(エルサレムの城壁の門の一つで開かずの門)が開かれ、死者は復活する、と信 じられている。そのためユダヤ教徒は競ってケデロン谷に墓をつくる。


オリーブ山から神殿の丘を臨む。写真手前にはユダヤ教徒の墓が無数にある。 この丘には巡礼者・観光客が押し寄せるのでスリにとっては格好の稼ぎ場である。 彼等はパノラマ写真(34×100cm)を$1で売っていて、写真を拡げて説明しながら その写真の陰でスリを働くのである。私も胸ポケットのチャックを開けられていた。 同行の仲間もしつこく付け回られたが、幸い全員被害はなかった。彼等にとっても ここは聖地(稼ぎ場)なのである。
 
彼等が売っている写真、これが$1なら安い
20 アカバからの夜景
イスラエルのエイラート、ヨルダンのアカバは共に両国の最南端の街である。ア カバ湾(イスラエルではエイラート湾)を挟んで東にイスラエルとエジプト、西にヨ ルダンとサウジアラビア 4 か国が接している。 エイラートはイスラエル有数のリゾート地でアカバから夜見ると煌々と明るく、隣 接するターバ(エジプト)とは光の量が圧倒的に多い。この風景からもイスラエルの 繁栄ぶりが窺い知れる。 イスラエルは膨大な軍事費もあり慢性的な貿易赤字である。巨額の援助を続け たアメリカからの援助も 2008 年以降途絶えているという(形を変えて援助してい る可能性は強いと思うのだが・・・)。にも拘らず近隣諸国の中では圧倒的な経済力 を誇っている。ダイヤモンド、武器、IT 関連等で世界に誇れる産業もあり、アメリカの 金融産業を抑えているユダヤ人からの献金があるにしても、巨大な軍事費を賄う には力不足と思うのだが、この繁栄を支えているのは何なのか?アカバからエイ ラートの夜景を見ながら不思議な気分になった。

アカバから見るエイラートの夜景、左はエジプトのターバ
21 ドバイ空港の活況
今回はエミレーツ航空を利用したので、当然のことながらドバイでトランジットし た。朝6時ごろ着いたが出発ロビーは大変な人で混雑していた。 出発便ボードを見て驚いた。朝7時から9時半までの2時間半で何と60便が出発 する。エミレーツ専用ターミナルと見えて全てエミレーツ航空、勿論全て国際便。 成田は滅多に利用しないが、いつも利用する関西空港と比べると月とスッポンほ どの違いである。関西空港がこれくらい混雑するのは年末年始、G.W、夏休みくらい のもの。この日がドバイにとって特別な日とも思えず、勢いの差は歴然である。 日本のマスコミでは産油国、特にドバイの落日も伝えられるが、空港を見ている 限り落日の姿は微塵も見えない。 そう言えばアジアの国から日本に帰ると街の清潔さにホッとするが、同時に活気 のなさに驚く。人口減対策の緊急性を痛感する。

朝6時でもこの混雑ぶり(ピンボケで申し訳ない)

 
7:00~9:25 までの間に60便ある
22 男性社会
アラブの世界では圧倒的に男性社会である。街では歩行者を除けば見かけるの は殆ど男性で、女性の姿を見る機会は少ない。日本では井戸端会議と言えば女性 専科の世界だがアラブ世界では男性専科だ。ノーベル平和賞をマララさんが受賞 したことでアラブ世界の男尊女卑が国際世論の非難に晒された。 イスタンブール空港のエレベーターでの女性の振舞を見て少々驚いた。エレベ ーターのドアが閉まる寸前に女性が乗り込んできた。その途端重量オーバーでブ ザーが鳴った。日本なら最後に駆け込んだ女性が降りるはずだがその女性は平然 としていて降りる素振りも見せない。それを見て先に乗り込んでいた男性が当然と いう顔で降りた。件の男性も女性も明らかにアラブ人、男尊女卑の世界で「ん?」、 頭は混乱するばかり。

街で見かけるのは圧倒的に男性が多い
 
市場でも男性が圧倒的に多い。日本では想像できない風景だ



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