
![]() ![]() |
昭和三年十一月。金子光晴は、生活苦、妻の不倫、詩作の行き詰まりなどが重なり、パリ行きを餌に妻森三千代と共に上海行き船に乗った。手持ちの金は少なく、マレーについた金子は生活費を稼ぎながら五年もの放浪の旅を余儀なくされた。『マレー蘭印紀行』は、その旅行中に書きためたメモを元に昭和十五年上梓。『西ひがし』は、戦後時代が落ち着いた昭和四十八年に当時の記憶をもとに書かれたものである。 | 川は、森林の脚をくぐって流れる。……泥と、水底で朽ちた木の葉の灰汁をふくんで粘土色にふくらんだ水が、気のつかぬくらいしづかにうごいていた。 ニッパ――水生の椰子――の葉を枯らして屋根に葺いたカンポン(部落)が、その水の上にたくさんな杭を浸して、ひょろついている。板橋を掛け渡して、川のなかまでのり出しているのは、船着き場の亭か、厠か。(マレー蘭印紀行) |
![]() |
|
![]() |
バトパハは、すでに明けはなれようとしていた。 バトパハ河の馬頭にそう日本人倶楽部の三階に私は、旅装を解いて、すでに二週間近くになる。鎧窓をひらくと、そとは、いちめんの朝霧であった。 それは、死体の鼻腔や、口腔にうずめるつめ綿にも似た、陰気くさい北欧あたりの黄色っぽい霧とはちがう。晴れ間をいそぐ、銀色がかった、うるみがちな川霧である。(マレー蘭印紀行) |
![]() |
私と同じように、金子光晴に憧れてバトパハに宿泊した若海七海は『マレー半島すちゃらか紀行』の中でこうこき下ろしている。 「叙情など薬にしたくてもないような殺風景。あえて譬えれば、途方の温泉町の樣相を呈していた」 たしかに殺風景な風景だがバトゥ・パハ河の向こうには、椰子の樹海が広がり、熱帯らしい風景である。鄙びた温泉町というより、寂れ果てた日南海岸といったほうが分かり易い。 |
|
| 旧日本人クラブは既に閉鎖されている。1階は商店になり、2階はビリヤードになっているらしいが、それらしき人影はなかった。 | ガーデンホテルから、バトゥ・パハ河を眺める。 | |||
![]() |
南洋の部落のどこのはずれへいってもみうける支那人の珈琲店がこの川岸の軒廊のはずれにもあった。 その店に坐って私は、毎朝、芭蕉二本と、ざらめ砂糖と牛酪をぬったロッテ(麺麭)一片、珈琲一杯の簡単な朝の食事をとることにきめていた。 (マレー蘭印紀行) |
![]() |
![]() |
|
| 金子光晴が通い詰めた岩泉茶店の建物は取り壊されて、趣味の悪いビルに建て替えられていた。 | 岩泉茶店の前は、バトゥ・パハ河の船着き場であった。馬来(マレー) の人達が乗り降りした光景を金子はいつも眺めていたのだろう。 | |||
![]() |
バトパハの街は、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた街すじの、袋小路も由緒もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒郭(カキ・ルマ)のある家々でつづいている。森や海からの風は、自由自在にこの街を吹きぬけてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が街をとりかこんで、うち負かされることなく森々と繁っている。(マレー蘭印紀行) | ![]() |
![]() |
|
| スコールの来るのは、そんなに突然で、また、身を避けるところもない場合、なるように任せるよりしかたがない、。……照りつけた岩道などで、雷が来るときほど当惑することはない。稲光は紫に眼を灼き、あるいているからだの周りを跳び廻って、おびやかすように、からかうように、また、カチカチと歯を鳴らすような音を立て、蔓草や枯木に落雷する。 『ねむれ巴里』 |
![]() |
ジョホールバルからバスで2時間近くでバトパハのバスターミナルに着く。途中の道路沿いには富士通やシャープなどの工場があった。 バトパハをジャランジャラン(散策)していたら空が翳り雲が早くなってきた。急いでホテルに戻ると同時に激しいスコールが降ってきた。 横降りのスコールは軒廊に逃げ込んでも、体に水滴がまとわり着く。 さらに、新しい建物には軒廊さえ無いのが多い。 |
![]() |
|
![]() |
![]() |
![]() |
町の中心が船着き場からバスターミナルに移行した段階で船着き場は見捨てられていく。 見捨てられた船着き場から人は消え、朽ちはてた桟橋だけが残る。 近くに船の残骸があった。驚いたことに、その船に人が住んでいるのだ。土地が余っているというのなぜ不便な船に住み着くのか?旅人には見えない理由がいろいろあるのだろう… |
|
![]() |
支那人たちは、水亭の部落で米粉を油炒りし、日用雑貨をあきない、珈琲店をひらき、白いぶかぶかしたももひきのなかへ、馬来の小銭を皆おとそ込む。彼らは、はるばる広州から、または福州から、この密林のおくまで金銭を搾取しにきた。彼らは、裸で稼ぎ、彼らはすべての欲望をおさえ、貯える。 | 彼らはどこの土地にも順応し、彼らの新故郷をつくり、もし彼らに足の踵の皮を与うれば、広州大羹をそれでつくることだってできる。華僑――国外に僑居する中華人――は、森から、六つ球のそろばんで弾き出す。馬来人たちが猶、この森のふるい夢や、昔話りにうっとりとして、見ほれ、ききほれているひまに(マレー蘭印紀行) | ![]() |
|
| 町の商店、屋台の大半は中華系の人が経営している。陽が沈む午後八時頃から屋台に人が集まり始める。 | 私は、猫がいることがその町の住みやすさの基準としている。 | |||
![]() |
![]() |
私は、バトパハを歩き回ってこの町が「廃市」ではないかと思った。 [木立の間に月が懸って梢や枝を影絵のように黝ずませていたから、河はただ河明かりによってそれと知られるだけだった。僕はしかし河の音がひっきりになしに聞こえてくるのをいまいましい気持ちで耳にしながら、その方向を見定めていた] と、福永武彦は「廃市」という小説の中で書いているが、それはこの町の描写でもある。ともあれ、バトパハという町から金子光晴が描いた情景は消え去っていくことだろう。 |
![]() |
|
| 建物が朽ちはてた後に椰子の木が茂っていた | 河は澱み船を寄せ付けなくなっていた | 交通機関が船から車に変化して、河沿いの賑やかさは消え、後に壊された跡地だけが残っていくのだろうか。 (十河和夫 記) | ||