悠遊世界一人旅 おばちゃんバックパッカーが行く

岡崎 祐子

シリーズアーカイブス : キューバ編「カストロのキューバ」 ・ 東欧編「私のコンサー  トツアー」 ・アフリカ編「チュニジア」 ・ アフリカ編「モロッコ」












中東編 「中東の真実に接して」

中東の国々  :  シリア ・ レバノン ・ イスラエル ・ ヨルダン ・ エジプトのシナイ半島

プロローグ
中東の国々、シリア、ヨルダン、レバノン、イスラエル、エジプトのシナイ半島に行ったのは1999年1月22日〜2月25日だった。もう8年も前のことを今さら書くなんてと思うのだが、この旅は私にとって忘れられない旅であり、その後の私の旅の中身を大きく変える事柄にも出会った旅でもあり、かつ、今現在これらの国々を旅することは治安上もお勧めできない状況にあるので、私がかってこれらの国で経験したことを書いておこうと思ったしだいです。
 中東に行く前の私の旅は、どこか知らないところへ行きたい、飛び切りの美しい風景に出会いたい、見知らぬ町をさ迷い歩きたいという単に日本にない未知のものへの憧れ、物見遊山にすぎなかった。 しかし、中東の国々を旅することにより何て私は無知なのだろう、こんなに世界の状況に無知である事が許されるのだろうか、なんて恥ずかしい!と思うようになった。 平和な日本で暮らし、殆ど単一民族の中で民族問題も宗教問題も係わりなく暮らしていて何の支障もない毎日。 しかしだからといって今世界の多くの国々で起きている様々な問題に無関心でいていいのだろうか。日本では世界情勢の中で直接関係のある経済問題以外殆どの国民は関心を持たない。私も勿論そんな人のひとりだった。しかし、この旅は私の世界を見る目、関心を一変させてくれた私にとっては衝撃的な旅だったのだ。シリア、イスラエル、レバノンももう一度じっくりといって見たい国だが、今はたやすく行くことは出来ない。
 世界は生き物。刻々と変わる世界情勢や国の内部について、8年も前の状況なんてと思うかもしれないが、8年前の状況を見ていたからこそ今これらの国々の状況をより身近に感じることも出来るし、関心を持ち続けられるのだと思う。
 旅のルートは  モスクワ・・・ダマスカス・・・ベイルート・・・トリポリ・・・アレッポ・・・デリソール・・・パルミラ・・・ダマスカス・・・アンマン・・・エルサレム・・・アンマン・・・ペトラ・・・アカバ・・・シナイ半島・・・アンマン・・・日本
 という行程で、1ヶ月余りの移動の連続の旅だった。途中シリアではアサド大統領(現大統領の父)の信任投票や、ヨルダンのフセイン国王の葬儀にも会い、普通では見られない中東の一面を見る事が出来た。
 また、イスラム教についても日本ではほとんど知られていない。イスラム教について知ろうとして図書館に行っても仏教やキリスト教関係の本は山ほどあるのにイスラム教に関するものは無いに等しい状態だ。信教の自由を認め、いまこれほどイスラムの問題が世界の関心の的になっているのに、これはかなり不平等なのではないか。また日本人のイスラム教に対する偏見の表れとも思えるのだが。
 私が接したイスラムの人々は皆とても穏やかで、心優しい人々だった。毎日のようにニュースになっているイスラム原理主義者のような人には全く出会わなかったし、パレスチナ難民キャンプの人ですら穏やかに接してくれた。しかし、今イスラム圏の人々が置かれている状況を考えると、過激にならざるをえない気持ちも理解できる。イスラム圏と一口に言っても互いの利害が絡みあい、それぞれの国益により立場も違ってくる。そして同じイスラム教徒内でも派閥によって争いが生じており、こんな問題はとても私など理解することは出来ない。しかし今争っている彼らも20世紀前半までは心穏やかに平和にお互いを認め合って暮らしていたはずだ。やはりこれらの原因はイギリスやアメリカの無責任な介入としか言いようがないと思う。
 まあ、なにはともあれ私が行った8年前の中東はまだまだ平和な本来のイスラムの国々であった。だからこそ今の中東の状態が悲しいし、その後のイスラムの国々への関心を持ち続けてしまうし、人々の生活と政治と世界情勢との関わり抜きの旅が出来なくなってしまった。とは言え私ごときものがこんな大きなテーマに立ち向かえるはずも無く、私は私なりに一中年の日本人女性が見た“その国”でしかない。中東旅行以後,私の旅は、その国の人たちの生活を見ることに重点が置かれ、言葉が通じなくても五感を頼りにゆっくりキョロキョロ人々の生活を眺めることに変わっていった。勿論世界遺産や美しい場所にも出かけるが、やはり何より人々の生活の場を見ることに興味が尽きない。
 中東の国の観光案内はガイドブックにお任せするとして、これらの国々で私が感じたことを綴ってみます。

シリア
(治安)
首都ダマスカスに着くと町に兵士や警察官がウヨウヨいる。しかし、警察官でも制服を着ている人は位が低いらしく、その何倍もの秘密警察がいるらしい。この国全体が密告社会になっていて、ごく親しい者の間でも本音は言えないようだ。私は知らずにダマスカスに着くなり闇両替をしてしまったが、あとから考えるととても危険なことだった。まあ、そのせいか国内の治安はとても良いし町の人たちはとても人懐こく親切で、すごく強制された社会主義国ということだが旅行者として歩いている限り全く危険な印象はなかった。
(経済)
この国は軍事独裁社会主義国で北朝鮮と体制はとてもよく似ている。しかし、衣、食、住はとても充実していて、市場にも食料があふれていて、私がきゅうり1本、とまと2個,にんじん1本を買おうとすると、おじさんがめんどくさそうな顔をして只であげると言われてしまった。皆1キロ単位でバンバン買っていく。
 物価はとても安く、昼食代150円、夕食代300円が平均。衣服もスパンコールやビーズがキラキラした女性用のワンピースがいっぱいぶらさがっていて、あの黒いチャドの下にこんなに華やかな服を着ていたのかと驚いた。また、この国では買い物は男の仕事で、食料やおくさんや子供たちの服を買うのも男性で、市場で奥さんのパンティを真剣な顔で選んでいる男性にあった時は吹きだしそうだった。奥さんのパンティのサイズもしっかり覚えているようだ。
住に関しては、皆ゆったりした家に住んでおり、私をお茶に呼んでくれた家族は昼間過ごす家、夜過ごす家と2軒持っていた。昼の家は開けっぴろげのオープンエアーの家で、近所の人たちと交流しやすいようになっていた。夜になると近くの夜の家に帰り、一家団欒で暮らすのだそうだ。
経済的には殆ど格差は感じなかった。

(政治)
アサド大統領の独裁政治で、今のアサド大統領は前アサド大統領の息子だ。町を歩いているとアサド大統領を中心に両脇に二人の息子が写った大きなパネルがいたる所にある。こんなに自分の写真を国中に展示して恥ずかしくないのかしらと思うほどだ。二人の息子の長男はとても優秀で大統領がとても期待していたそうだが、交通事故で死んでしまったそうだ。でも死後もずっと生存しているように全て親子3人の写真だった。
私がシリアに行った時は、アサドの信任投票が行われる前で、国中アサド賛歌が流れ、アサドをアピールするためにダマスカスだけで75,000人を動員するデモが行われ、市内の
交通も全面ストップ、商店も閉店,職場も学校も休みという日があった。シリアは普段はとても静かな国らしいが、私の滞在中はアサド賛歌がやかましく、パルミラや砂漠のユーフラテス川に面した地方都市でさえガンガンうるさかった。
 シリアの人たちに、これは選挙なのかと「election」とか「vote」という言葉で質問しても全く通じなかった。英語ができないということではなくて、選挙という言葉自体を知らなくて、「confidence」しかこの国の制度にはないのがわかった。町のいたる所に投票所が設けられ,砂漠の中にもテントの投票所が作られていたが、選挙管理人の席が2列に30席ほどあり、その中を通って奥の投票用の机まで行き、○か×を書くようになっている。机に囲いは無くあれでは近くの選挙管理人には手の動きで○か×のどちらを記入したのか分かってしまう。あんな状態の中では×を書くのは余程の勇気を必要とするだろう。
 選挙の結果は投票率98%,信任率も98%以上だったと思う。多くの人が半強制的に投票に行かされ、信任しなければ仕方が無い状況だったと思う。ただこの国は衣食住は豊かで同じ体制でも北朝鮮とは全く違っていて、強いて危険を犯してまで反対票を投ずる必要もなかったのだとも言える。
 しかし、国民の殆どが本当に今の体制に満足しているかというと、そうでもないと言うことが分かった。パルミラ遺跡に行って、プチホテルに泊まったときの事、毎日の変わり映えしないレストランでの食事にあきあきしていたので、ホテルの息子に「家庭料理が食べたいから,家庭に招待してくれない?」と頼んで招待してもらった。食事は本当においしかった。そして色んな話をする中で、「Do you like your country?」と聞いてみた。そしたら、はっきり「No」と言う。「アサドは大嫌いだ。投票にも×を入れる。」と言う。彼の妹もアサド嫌いで「でもアサドが死んだらポストアサドは彼の息子がなるのでしょう。」と言うと「とんでもない。絶対イヤダ。」と言った。表面ではアサド、アサドと言っているが、シリア人の本心を聞けてうれしかった。こんな話をしている時に彼の友達が遊びに来たが、とっさに私に「今の話は秘密だよ。」と言った。友人同士でも心を許せないのだろう。
 シリアは反体制的な言動のために多くの政治犯が刑務所に入れられていると聞いた。一見穏やかに見えるこの国の見えざる一面だが、一般の人は本当に穏やかに暮らしている。
 だが、シリアは殆ど何の娯楽も無い。だから若者たちは時々町の広場に集まって男ばかりで輪になってステップを踏みながら夜中の2時3時まで踊りまくる。こうしてエネルギーを発散するしかないのだろう。
 アサド大統領は信任後1年余りして死亡し、今は彼の息子がやはりアサド大統領として引継ぎ、中東の国々への影響力を増している。

レバノン 
 レバノンには1週間の滞在だった。ダマスカスから乗り合いタクシーに乗り2時間、雪をいただいたレバノン山脈を越えベイルートに着いた。ベイルート周辺、特に旧市街は内戦のあとが生々しく、おびただしい数の廃墟となった家やビルがあり、どれもに銃弾の後が蜂の巣のようにあり、またアメのように曲がって崩れかけたビルもあり、無傷な建物はひとつもなく爆撃のすごさが見て取れる。日本では内戦の状況もあまり報道されなかったが、どれほどひどいものであったか見るまでは想像もつかなかった。市内全域、郊外までもほぼ壊滅状態だったことがわかる。どうしてこんな事になってしまったのか、国際情勢にうとい私はただただ驚き戸惑うばかりだった。
 しかし、あれから20年以上たち、新市街は復興に着手しており修復したビルや新築のビルが混在していて都会という雰囲気で商店もあかぬけしていて商品もおしゃれな物があった。かってベイルートが中東のパリといわれたのが理解できる。しかし物価はシリアの3倍はした。
 夕方、ベイルートの海辺に散歩に行くとパレスチナ人の老人に出会った。私を見ると「私はイスラエル国境に近いパレスチナの難民キャンプに住んでいるが、ぜひキャンプを見に来て欲しい。何を質問してもいいし、写真を撮ってもいいから」と言われたが、当時私はパレスチナ問題について何一つ知らないに等しい状態で、あまりにも無知な質問をするのがとても失礼なことにも思えたし、またそれほどまでに無知な自分がすごく恥ずかしかったので、どうしても行く勇気が出なかった。当時の外務省の海外安全情報でイスラエルに近いレバノン南部へは行くなと書かれていたので、危険が伴うと言うこともあったが、それ以上に自分の無知が恥ずかしくて行けなかった。
またベイルートから北へ100キロほどのトリポリという町の近くで難民キャンプらしきものを見かけたので、バスの乗客に「パレスチナの難民か」と聞くと「クルド人だ」と言う。クルド人は今ではトルコのEU加盟などに関連して話題となっているが、当時は聞いた事があると言う程度で、どういう人たちなのかも全く知らなかった。しかし住むべきところを持たず道端にたくさんのバラックの中で暮らしている彼らを見て、また私はなんて無知なのだろうと思わざるを得なかった。
 レバノンは内戦のために多くの国民が国外に逃げだし、私が行った頃やっとぼつぼつ帰り始めた処で、あれから8年ベイルートもすっかり昔の中東のパリと言われた美しさを取り戻したと聞き、もう一度行って見たいと思っていた矢先にシリアからの攻撃を受け、またひどい状態になってしまったそうだ。中東問題など私が心を痛めてもどうしようもない事だが、一体いつになったら平和が戻って来るのだろうと思わざるを得ない。


イスラエル
 イスラエルにはたった3日間しか滞在しなかった。それもエルサレムだけ。
最初イスラエルは全く予定に入っていなかったが、ヨルダン滞在中、国王フセインが死去し、葬儀に各国の要人が参列するので、葬儀の期間中4〜5日交通機関が全面的にストップするという事になった。どこにも行く事が出来ないので、しかたなく葬儀の前日にイスラエルに脱出して、イスラエル見物と思ったが、これがまた大変だった。行く予定もなかったのでガイドブックも持ってなく、人に聞きながらイスラエルに入国したがパスポートコントロールで、もしイスラエルのスタンプを押されたらシリアへの入国は出来なくなると聞いていたので、「Another paper please」と言って別の白紙にスタンプしてもらい国境を越えた。ヨルダンからイスラエルはヨルダン川を越えるとすぐだが、そのヨルダン川というのに唖然とした。私は川幅の広い川を想像していたのだが、まるで小川だ。幅10mもない小さな川に水がショボショボと流れているだけ。これがかの有名なヨルダン川?と信じられなく入管の人に確認してしまったくらいだ。
 エルサレムは何の予備知識も無く来たものにとっては、本当に難解な町だ。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地であり、それぞれの教会、シナゴーク、モスクが重なり合うように建っていて、部外者には理解しがたいほどの重い歴史を持っている。特にイスラム教やユダヤ教についての知識が皆無に等しい私にとっては、「ああ、どうしてこんな所に来てしまったのだろう。ものすごく歴史的価値があるものを目の前にしながら、なにも理解できない私。猫に小判。恥ずかしい!」とまたしても自分の無知さにあきれてしまった。今、中東の諸問題の多くはここに端を発しているのに。
 旧市街の市場は、一辺1`程の石の壁に囲まれ、要所要所に銃を持った兵士が警備している。中は4等分され、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、アルメニア人の店に巾一間ほどの道で区分けされている。商店はそれぞれの宗教、民族の違いがはっきり出ており、特に食品は道の右と左で全く異なった匂いがして、より一層宗教、民族の違いを実感させられる。歩いていてもこんな1`uの中で,もし何かトラブルが発生したらどうなるのだろうと変に緊張したのを思い出す。
 せっかくイスラエルまで来たのだから、本当はもう少し足を伸ばしてテルアビブやガザにも行って見たかったが、何せ予備知識ゼロの状態では猫に小判、豚に真珠で、お勉強して出直してきますという感じでたった3日間で退散した。
 帰りに見たヨルダン川西岸の広大な土地に建ったパレスチナ人の貧しい家々と、イスラエル人の真新しいきれいな村が忘れられない。
(続く)

ヨルダン
(アンマン)
 シリアのダマスカスからボスラというローマ遺跡のある町を経由して、ヨルダンの首都アンマンへ行った。シリアとヨルダンの国境では車体の下まで点検し、時にはエンジンルームも検査している。
 私は日本人なので殆どフリーパスだが、パスポートにスタンプする時だけは随分慎重で時間がかかった。しかしヨルダンの人たちは日本人に対しては本当に好意的で、「China? Japan?」と聞き、「Japan」と答えると「Good」と言ってにっこりする。試しに「China」とか「Korea」とか答えると反応が無かった。
 国境で20jだけ両替したが、ここの札とコインはとてもややこしい。アラビア数字しか書いてないのはシリアも同じだが、変な単位のものが多すぎる。ちなみに中東の国々は反米の国も含めてUSjの両替はとても簡単だ。
 国境を越えるとヨルダンがシリアよりずっと豊かな事が一目で分かる。住宅、ビル、道路がずっと上等だ。そしてアラビア文字に併記してアルファベットが書かれているのは助かる。
 入国した日が金曜日で、しかもフセイン国王が死亡した当日だったので、町中のレストランが閉まっていて、町の人に聞きまわってやっと一軒見つけて入ったら、偶然にも1年ほど前ノルウェーのベルゲンで出会った日本の男の子に再会した。彼はあれからもずっと旅を続けていて、随分たくましくなりもう3年になると言っていた。
あちこち旅していると、まるで旅が人生という人に出会うことがある。インドで会ったアメリカの女性は5年旅していて、いつ終わるか分からないと言っていたし、タイで会ったイギリス人は15年旅を続けているそうで、自分のことをクレイジーだと言っていた。
 フセイン国王が亡くなって、国内の交通が全面ストップするというので、隣国イスラエルに出ていたが3日ほどして帰ってみると、フセイン国王の葬式当日で以後6日間喪に服し、公共の交通機関は全てストップだった。葬儀と皇太子への国王継承の儀式も同時に行われ、葬式会場近くは兵士とポリスが総出で厳戒態勢を取っていた。テレビも全局が延々と葬式の実況中継が行われ、長々とコーランを唱えている。喪中の間もずっと朝から夕方まで近くのキングフセインモスクからコーランが流れ、沢山の人が祈っていた。アメリカ、ロシアをはじめ各国の大統領や国王が参列し、日本の昭和天皇が亡くなったとき以上ではないか、ヨルダンがこんなに世界に影響があるのかしらと不思議に思ったくらいだ。
 ヨルダンという国は近隣の中東諸国のように石油は産出されない。だから農業と外国への出稼ぎとアメリカなどからの経済援助で成り立っている。だからフセイン国王はアメリカなどのご機嫌もとりつつ中東の国々との摩擦を避けつつ、かつ西側諸国の動静や顔色を見ながら,自国の安全と経済発展に尽くし、随分気苦労の多い人生だったそうだ。
湾岸戦争の時は中東の国々に同調してイラクを支持したために、アメリカからの経済援助は切られアメリカを支持した国々からの出稼ぎ者が追放され、一時はかなり経済的窮地に立たされたが、自国のためを思い手のひらを返すようにアメリカ支持にまわり、経済援助を続行して貰っているそうだ。
 中東を旅すると国境を接した体制の違う国や宗教、民族、イラク問題とさまざまな問題をそれぞれの国が抱えて、大変な地域だと一旅行者としても感じる。

(南部とシナイ半島)
 2日後にセルビス(乗り合いタクシー)が動き出したので、南部とエジプトのシナイ半島に行ってみることにした。映画インディージョーンズの舞台になったペトラ遺跡やアラビアのロレンスが活躍した砂漠のワディラムを通ってアカバからシナイ半島にフェリーで渡った。途中は360度砂漠で地平線の中をどこまでも2本の道路が走っている。
ペトラ周辺はインディージョーンズ以来有名になり観光収入が増えたのか、新築の家が多く豊かな感じだ。人間はまだすれてなくて、見知らぬ私にもお茶に呼んでくれたり、アルバムを見せてくれたりしてホスピタリティはすばらしい。
 ワディラムは砂漠の中にエアーズロックのような巨大な岩がボコボコとある所だが、テントの中に寝て首だけ出して星空を眺めながら寝るのはなかなかオツなものだった。
 死海にも行ってみた。本当に浮きながら本を読めたのには笑ってしまった。しかし、ここでは足が軽くて浮いてしまって泳ぐ事ができない。また塩分の濃度がハンパじゃないので,20分もしたらお肌がヒリヒリしてくる。
 その後ザルカマインというSPAにも行ってみた。砂漠の中の断崖の中腹から突然温泉の滝が落ちてくる。温度は50度くらいで50mくらいを落ちてくる間に適温になり格好の打たせ湯になり皆楽しんでいる。ここはサナトリュウムになっており、プール、サウナ、クリニックも設けられていて、家族ずれが多く来ていた。サウナやプールは男女別になっていて、女性だけになると歌を歌ったり、大声で笑ったり、プールを裸で泳いだりと,街中で見る静かな彼女たちとの印象とは全く違っていた。
 ところで、中東・イスラム圏はホモが結構多い。女の子が7〜8歳になると頭からチャドを被り全身を隠してしまうので、異性に興味を持っても付き合うことも出来ない。そのはけ口として同姓同士への興味に転換するらしい。普通の男性はイスラム以外の外国人の女性にはすごく興味があり、何だかだとちょっかいをかけてくるが、時々親切すぎてうっとうしくなる。ホモの男性にとって特に日本の若い男の子は、きゃしゃで,かわいくて、たまらなく接してみたくなるらしい。ヨルダンでは何度も日本の男の子が抱き上げられたり、キスされそうになったりと被害にあうのを目にした。シリアでは束縛が厳しいのか、そんな情景は目にしなかったのだが。日本のかわいい男の子はヨルダンでは要注意!


エジプト シナイ半島
 アカバは紅海に面したヨルダン最南端の町。フェリーで紅海を渡りエジプトのヌエバに行き、そこからダハブというダイビングで有名な町に行き、シュノーケリングを心ゆくまでした。紅海はダイビングも有名だが、延々と続くリーフをシュノーケリングしたら何キロも美しい海が続いている。大小多種類のカラフルな魚、白、赤、黄、紫の色鮮やかなサンゴ、透明度のすばらしい海水、どれをとってもこれまで私が潜ってきた海とは内容、スケールともに比較にならなく、わざわざダイビングしなくてもシュノーケルで充分堪能できる。ここの海に潜ってしまったら、もう他の海は満足できないだろうと思う。ホテルの庭先からフィンを着けてそのままエントリーでき、気が向いたときに何回でも行けるし、ホテル代もピンからキリまでで予算に応じて自由に選べる。私はここがすごく気に入って何年か後にエジプトのルクソールに行った時も再びここを訪れてシュノーケリングをした。ここを潜っていると神様は何てすばらしい物を作ったのだろうと日頃神なんて意識もしてないのに思わず「神様、こんなにも美しいものを作ってくださってありがとう」と思ってしまう。
 シナイ山にも登ってみた。夜出発して夜中あるきとうして頂上で朝日を見るというツアーだったが、登山道がバラバラの岩ばかりで足元がおぼつかない。そして砂漠の中なので夜の気温がものすごく下がる。こんなところで風邪ひいたり捻挫したら後の旅に差し障るし、信仰心もない私は早々と挫折して途中から下りてきてしまった。モーゼはこんな険しい山を月明かりだけで登り、神の啓示、十戒を受けたのか、確固たる信仰をを持とうとするならばこんな厳しい孤独な体験を経なければならないのかと思い、モーゼの千分の一くらいの体験をした。山頂まで登った人に聞くと、やはりキリスト教文化で育った人は感激していた。エルサレムでもキリストが十字架を背負って歩いた道を、同じように小さな十字架をかついで歩いている人を見かけたが、疑似体験が好きなのだろうか。不信心な私など、ちょっと山に登ったり、おもちゃのような十字架を背負ったりしても、悟りが開けるわけでもないのにね、と思うのだが。


エピローグ
 というように中東の国を旅してきたが、イランに行かなかったことは返す返すも残念だった。イラクは当時でも行くことは難しかったが、イランは充分行けたのに。昨年の秋も行けたのにHISの不手際で行けなかった。日々アメリカとの緊張感が増してきているだけに、行けるチャンスを逃したことは本当に心残りだ。次はいつ行けることか。
シリアとイスラエルとレバノンも相互に緊張感があり、今は安心して行けない。ヨルダンだけは行けるが、今は経済発展してアンマンも高層ビルが林立して美しい町並みになったそうだ。
 中東の人たちは親日的で人懐こく親切でとても好きだし、ローマ遺跡などの世界遺産もたくさんあり、とても魅力的な地域だ。私が元気なうちにまた行く機会があればぜひもう一度行ってみたい。
 中東は人々との交わりも楽しかったが、それまで感じた事がなかった宗教、民族、世界の平和について私の無知さを思い切り認識させ、その後の私の旅の視点を大きく変えてしまった。


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