岡崎祐子
2009年1月12日〜2月5日
まえがき 2004年1月にエクアドルを旅し、とてもよい感触ですっかりこの国を好きになってしまい、いつか再度訪れたいと思い続けてきた。 前回は時間に余裕もなく表面だけサラーリとなでる程度の旅だったが、今回はエクアドルだけに3週間を費やしかなりゆっくり回ることができた。 今回は2009年1月12日〜2月5日まで友人3人と同行したが、再び行こう行こうと思いつつ早や5年の歳月が流れていた。そして当然のことながらエクアドルも大きく変わっていた。(目次へ) これまで何カ国かに年を隔てて何度か行ったが、その度に大きく変貌していく国に驚き、国は生き物、世界は絶えず変化していくということを実感してきた。そして人間そのものも変わっていく。 特にロシアは3回行ったが、最初は12年前、ソ連が崩壊しやっと少し落ち着いた頃で、人々は急変した社会に戸惑いつつも社会主義時代の素朴でシャイで、言葉も全く分からないまま旅した私に感激するほどの親切な態度で接してくれた。不自由だらけの状態だったが、その分物価も超安く、人々に助けられて楽しい思い出いっぱいの旅となった。 そして2回目は8年前。多少の経済発展はあるものの前回とそれ程大きな差は感じなかった。 そして3回目は5年前。わずかの間にびっくりするほどの様変わりで、町中はおしゃれなアーケードやバー,レストランが建ち並び、ファッション誌から抜け出たようなステキな毛皮のコートを着た人たちが街を闊歩し、人々の生活はずい分忙しくなったように見えた。それもそのはず、多くの若者は経済成長に乗じて2〜3種類の仕事を掛け持ちし、夕方5時過ぎのメトロの駅ではまるで突撃するような勢いで次の仕事に向かう若者の姿が多く見られた。 当然無知な旅人の相手などする余裕もなく、質問しても「ノータイム」という一言が返ってくるだけという事が多かった。 ああ、この国もこれから目まぐるしく変わっていくんだろうなと思ったものだった。 前置きが長くなったが、エクアドルもご多分にもれず、大きく変化していた。特に都市部では、そしてアマゾンに住むインディオやガラパゴスの島民の生活も否応なく変化させられている。(目次へ) 1.行 程 ノースウエスト航空で 成田―ニュウヨークーマイアミーキトーマイアミーロスアンジェルスー成田(目次へ) 2.エクアドルの概略 エクアドルは赤道直下に位置する国で、アンデス山脈の標高が高い地域と,熱帯のアマゾン地域、ガラパゴスを含む海洋地域に分けられ、国土は日本の4分の3だが非常に変化に富んだ国である。この国は常春の国と言われていて、乾期と雨季はあるが年中温暖な気候に恵まれ、アマゾンの密林地帯以外は農業や牧畜が営まれ、太平洋にも面しているので基本的には食料は豊富な国だ。 通貨は米ドルがそのまま使えるので、両替の必要もなく便利だし、物価もとても安く5年前と余り変わっていなかった。ただ首都のキトのみならず地方都市までずい分経済発展してたんだなーと感じることが多かった。町中にスーパーマーケット,マンション、レストラン、カフェがびっくりするほど建っていて、5年前にはキトにすら1軒もなくて不自由したインターネットカフェが田舎町にまで出来いていた。 しかし、アメリカ経済の破綻を受けてシャッターを下ろした店舗も多く見られ、マンションは空室が目立っていた。たった5年の間にこの国の人も激動の時代を実感したんだろうなと思わせられる街の様相だった。また一度豊かさを味わった後の凋落は人心にも変化をもたらすのだろう、以前より治安はかなり悪くなっているように感じた。(目次へ) 3.首都 キト 伊丹―成田―NY と飛んで、NYで1泊しマイアミ経由でキトへ。 NY−マイアミは満席で、なぜかユダヤ人が多く、彼らはこんな金融危機の中でも避寒に行けるほどやはり豊かなのだろうか。 マイアミーキト間は空席が目立ち、ゆったり座れたがやはりエクアドルまでは遠い。 キトのホテルで友人たちと待ち合わせ。彼女たちはコンチネンタルで成田から同日の夜中に着き、かなりの疲労のようだった。 今年のキトは寒かった。5年前は常春ということを実感したが、今年は乾期にも拘らず雨はシトシト降るし、旅の前般は昼間でも気温12℃〜15℃くらいでうすら寒―い毎日が続き、後半になってやっと本来の23℃〜26℃位の春らしい陽気に戻りほっとした。これも地球変動の影響だったのだろうか。 3人とも寒さと高山病のために殆ど眠れず、高山病の薬を飲んだが大して効かず体が慣れるまで3〜4日かかり、とてもしんどい思いをした。そして旅の後半には高山病による消化不良も加わり、5年前には4000mのアンデスの上でも元気で旅したのに、今回はたった2800mがとても応える。やっぱり年なんだーと実感する。
4.ツアーの申し込み 到着した翌日友人の一人が完全にダウンしたので、2人でアマゾンとガラパゴスのツアーを探し予約する。旅行社も以前とは比べ物にならないほど多くなっていて大小の旅行社を回ったが、同じ内容でもずい分値段が違うこととクレジットカードが使えない旅行社が多いことに驚く。また、銀行でキャシュカードで下ろそうと思っても1日に200jまでしか下ろせなく、とてもツアー代金には足らない。T/Cはというと使える銀行は殆どなく、CitiBank発行のものであるにも拘らずCitiBankでも使えず、街の両替所でやっと両替でき一苦労だった。 何とか料金や内容も納得でき、クレジットカードも使える旅行社にめぐり合え、アマゾンとガラパゴスのツアーを申し込んだ。 日本の旅行社にガラパゴスについて問い合わせると、全ての旅行社が日本から事前に申し込まないと行くことが出来ない。現地で直接申し込んでも環境保全のために入島制限をしているので、一定以上の人数を受け入れられないから無理だろうと言う。仕方なく日本の旅行社に申し込みをしたが、折からの金融危機で小さな旅行社がバタバタと潰れだし、友人がチケットを買っていた旅行社も潰れたりしたので心配になり、違約金が発生するギリギリの時点でキャンセルした。直接行っても何とかなるんじゃないかという思いと、行けないならそれも仕方ないと思ったのだった。 しかし、実際に現地に来て見ると以外にどこの旅行社でも行けるということだし、同じ内容で日本での料金の約半額だった。 ガラパゴス(クルージングでなく島に滞在) 日本で手配 4泊5日 16万円 現地で手配 4泊5日 8,5万円 アマゾン 3泊4日 5,8万円(目次へ) 5.ホテル 初日のホテルは日本からの待ち合わせの場所なので日本で予約し、英語が通じる所を選んだ。しかし値段の割りに大したことないので2日目に前回来たときに泊まったホテルに変更した。内容、値段共に納得できるので、今後キトの基地はそのホテルにした。1泊18j、スペイン語のみ通用。 地方のホテルはキトより割安なこともあり、そこそこ良くてエクアドルの地方色が出ているホテルを使った。 (目次へ) 6.食 事 食事に関しては前回もそうだったが、特にエクアドル特有の料理というものには出会わなかった。チャーハンぽいもの、ヤキソバらしきもの、ピザ風のもの、シーフードスープなどがあるが、あまり記憶に残るほどの物はない。ビールは殆どピルスナーであまりおいしくない。 町中にはエクアドル料理のレストランがあり、日替わりメニュウが人気でOLやビジネスマンが大勢入っていた。 そしてこの国にもチャイニーズは多いらしく、各地でChifa〔中華レストラン〕を見かけた。 しかし全体的に油っぽくボリュームがありすぎて、高山病の影響で消化不良になってしまった胃には重すぎ、果物やジュース、軽食で済ますことが多かった。(目次へ) 7.キ ト 到着3日目にやっと友人も少し元気になり旧市街に行った。以前は旧市街の真ん中の独立広場にはたくさんの警官が立っていて、この一帯の治安の悪さを象徴していたが、今回はずっと少なくなっており一見治安が回復したように思われたが、後になって逆に国全体の治安が悪化したため旧市街ばかりに集中して配置することが出来なくなったのではないかと推測された。 以前はカテドラルの裏にインディオの生活用品や香辛料、生薬、布地などを売る露店がびっしりと出ていてインディオの薫りを存分に楽しんだのだが、今回すっかり無くなってしまっていた。町中はきれいになったが、町の特徴が消えてしまうのは寂しい限りだ。(目次へ) 8.手工芸市場 以前日本大使館に面した広場でインディオたちの手作りの手工芸品の市が立っていたが、それも今回なくなってしまっていた。一体どうなったのだろうと思って聞くと、すこし離れた一角に大規模な手工芸品市場ができていた。以前の何十倍という店の数で何列にも続き、何百軒あるのだろう数え切れない。しかし売られているものはそれ程多種類あるわけでなく、同じ商品が多くの店で売られている。値段も交渉しだいでかなり負けるし、それ程売れているようにも見えず商売として成り立っているのだろうかと心配になった。 この市場は後日行ったオタバロとほぼ同じ商品を扱っているし、値段も同じくらいだ。オタバロは手工芸品の町として有名だが、手工芸品を買うためだけにオタバロに行くならこの市場で買っても充分だ。(目次へ) 9.日本大使館のパーティー キト在住の日本人女性の紹介で日本大使館主催の新年パーティーに連れて行ってもらった。高級住宅街の美しい広い日本庭園を持つ大使公邸にエクアドルに在住する日本人、企業の駐在員、JAICAの青年協力隊などが集まり、寿司をはじめとする日本食や酒類、デザートがふんだんに振舞われ、皆久しぶりの日本食を前にしてまるで同窓会のように旧知の人たちと語らい、心から楽しい一時を過ごしているようだった。 パーティーの初めに大使の挨拶があり、今回の金融危機がエクアドルや日本企業にも多大な影響を及ぼしていることに触れ、また日本人会代表の三菱自動車エクアドル支店長は「多分私の会社はこの経済危機のためにエクアドルから撤退せざるを得ないのではないか、だから日本人会会長としての挨拶も今回が最後になると思う。」と新年早々皆非常に暗くきびしい現状を述べていた。 挨拶の後「君が代」の斉唱があったが、ふだん私は君が代はあまり好きではなく、せめて歌詞だけでも変えてほしいと願っているのだが、歌詞云々は別として異国で頑張っている人たちと一緒に聞く国歌はまた違った感慨をもたらし、熱いものがこみ上げてきた。 立食パーティーだったので出席した企業の人たちや青年協力隊のメンバーからエクアドルの国内の様子や活動状況を聞かせてもらったのは大きな収穫だった。(目次へ) 10.ガラパゴス諸島のツアー AeroGal航空でキト9:45発、グアヤキル経由でガラパゴスのサンタクルス島に11:30着。キトとガラパゴスには1時間の時差がある。 島の概要 ガラパゴスはエクアドル領で太平洋上に主な5つの島と約20の小島で成り立っている。赤道直下で1年中真夏の気温で1〜4月が雨季、7〜9月が乾期となっているが、サンタクルス島のクロッカー山の山頂付近は常に雨が降っている。この島は海底火山の噴火で出来た島で、地質学的にも非常に興味が持て、私は行かなかったが一番大きなイザべラ島では活火山もあり、サンタクルス島にも2つの火口や噴火によって出来た長いトンネルがある。 また真っ白な砂浜、溶岩で出来た黒い砂浜、美しい入り江、真っ青な空、吸い込まれそうな青のグラデーションの海とこれまで見たどの海より美しい光景が見られた。(目次へ) ナチュラリスト この島での行動はプエルトアヨラの町中以外は全てナチュラリストというガイド兼通訳が同行しなければならない。ガイドは英語とスペイン語が話せる人がいて、ガラパゴス出身者が殆どで約300人いるが、かなりむつかしい試験が課せられていて言葉のハンディもあり日本人ガイドはいないということだ。 島全体が国立公園になっており、私たち3人には日によって顔ぶれが変わるが、常に1人のガイドが付いてくれた。 しかし英語のガイドを希望していたにもかかわらず、3日目にはスペイン語のガイドで言っている事が理解できず困った。(目次へ) 1日目 チャールズ・ダーウィン研究所 ツアーの始まりは全てこのダーウィン研究所からはじまるらしい。サンタクルス島の北側のパルトラ島の空港に着きすぐにサンタクルス島のガラパゴス一番の町プエルトアヨラに向かいホテルで一休み。昼食後ダーウィン研究所へ。 若いガイドが熱心に説明してくれる。動物ばかりでなく、島特有の植物、地質など島の生態にずい分詳しく、今フィアンセがキトの大学で生物学を勉強しているので、卒業したらこの島の生態について2人で研究していきたいと言っていた。 ダーウィン研究所内はダーウィンフィンチ(スズメの一種)を初めとし、ツグミやカツオドリなどの鳥や、リクイグアナやゾウガメが自由に歩き回っている。ゾウガメは現在11種類いるそうで、中でも絶滅間違いないカメとして、ロンサム・ジョウジが有名だ。推定年齢100歳と言われ、ビンタ島に1頭だけ生存していたのをダーウィン研究所に連れてきて、お嫁さん探しをしたが見つからず、絶滅せざるを得なくなったのだ。ジョージを見てみたかったが、広い園内のどこかに隠れてしまって対面することは出来なかった。他のゾウガメは平均して50歳くらいで、体重は250〜300sだそうだ。 イグアナはウミイグアナとリクイグアナに大別されるが、そのイグアナ達も近年の気象の変化による食物の不足から徐々に新しい進化を遂げつつあるとの事。まず、ツアー初日はダーウィン研究所に行き、ガラパゴス全体の動植物に関する大まかな勉強をする。
2日目 サンタフェアイランドnシュノーケリング 翌朝船でサンタクルス島の南東30`にある小さな美しいサンタフェアイランドに行った。船の上から海をのぞくと、黒い大きな岩がある。しかしよく見るとそれは魚の大群だった。アシカも岩場にたくさんいて、泳いだり昼寝をしたりで寛いでいる。 シュノーケルをつけて海に潜ると体のすぐ横をアシカがヒューンと通り抜ける。白い海底と抜けるような青空とアシカと熱帯魚、もうキャッキャとはしゃぎまわる。 昼食を島の砂浜で採る。決しておいしいとは言えないチャーハンのような炊き込みご飯のようなものとジュースで、以後このツアーの昼食は全て同じものだった。 しかし、真っ白な砂浜、サボテンの緑、境界線も定められない海と空、全てを覆い尽くすまぶしい太陽、これ以上何を望むのかという思いになる。 ホテルに戻り、プエルトアヨラを一周するオープンカーの電気列車に乗り町を見学、ガラパゴスの環境悪化を裏付けるような町の様相だった。近年多くの人が観光収入目当てにガラパゴスに移住してきて、町の郊外にも多くの家が建ち、目下建築中の家も多く見られた。 エクアドル政府はガラパゴスの自然保護のため1日に100人しか入島させないと聞いていたが、とても信じられない。だって約100人乗りの飛行機がTame航空とAirGal航空と合わせたら1日10便ほどキトやグアヤキルから飛び立っているし、ほぼ観光客で満席だから。 一時の経済発展に浮かれることなく長期的な視野にたって、この島に対してほしいのだが。
3日目 タートルベイ 港からサンタクルス島の西にあるタートルベイに行きシュノーケリング。魚は小さかったが、海がめが水面近くで悠然と泳いでいたり、ウミイグアナも長いシッポで優雅に泳ぐ。他の海では絶対に見られない光景を楽しめた。 昼からは場所を移しアシカがたくさん泳いでいる岩場に行った。岩場にはカラフルなヒトデやイソギンチャクが美しい。 私がモグルト3匹のイルカが目の前にやって来て、「遊ぼう、遊ぼう」と誘う。 30pほどの所まで来るので触れてやろうと手を出すと、ヒュイと逃げる。真正面に向き合ってしばらくにらめっこ。つぶらな瞳にかわいいヒゲで何とも愛らしい。あまりの可愛さに水中で狂喜の笑いが込み上がる。彼らも私と泳ぎのが楽しそうで、「もっと遊ぼうよ、おいで、おいで」と言うので、付いて行ったらあっという間に波で岩場に流されてしまい、溶岩の岩で足を切ってしまった。そして気づいたガイドが岩場から救ってくれたのだが、船に上がるとかなり出血していた。 海に入る前に、岩場に行かないように注意があったようだが、ガイドがスペイン語のみだったので理解できていなかった。 しかし、あのアシカたちと泳げたことは、一生忘れられない楽しい思い出だ。 次はイルカと泳いでみたい。(目次へ) 4日目 真っ白なビーチ 午前中は友人たちがバテテしまったので,一人で参加。ダーウィン研究所をガイドしてくれた青年がマンツーマンでガイドしてくれた。 ガラパゴスで一番美しいと言われるビーチに行った。真っ白な広い砂浜にどこまでも広がる遠浅の真っ青な海、その間をレースのような白波が生まれては消えていく。地球はまだまだ美しい、大切にしなければと思う。 真っ白のビーチにイグアナとペリカンがのんびり日光浴したり、瞑想(?)をしたりしている。最近このイグアナの生態にも変化が生じてきているそうだ。気候の変化によりリクイグアナの食料となるサボテンが少なくなり、低い位置のサボテンの葉が食べにくくなってきてリクイグアナがサボテンの木に登ることを覚えたそうだ。また、食料を補うために海にも潜る者も出てきたそうだ。 餌を求めて陸と海に住み分けるようになったのに、また新しい変化が起こっている。生物が環境になじむには長い年月を要すると思っていたのだが、意外に早く必要に応じて変化できることに驚いた。 このビーチの後ろには海がめとペリカンのコロニーがあるそうで、そこは立ち入り禁止となっている。 ビーチの裏側に静かな湾があり、どこまで泳いでいっても遠浅で太陽を思い切り受けてゆったりと泳いだ。湾の奥には50〜80mくらいのサメがたくさん泳いでおり、ちょっと怖かったが、このサメは人を襲うことはないそうだ。
クロッカー山 火山の火口 昼からはサンタクルス島の最高峰クロッカー山の頂上部分の熱帯雨林と2つの死火山の火口と火山によって出来たトンネルを見に行った。山頂は常に雨が降っている状態で、緑濃く苔むした木々に覆われていて、当日も霧が深く激しく降ったり小康状態になったりだった。 火口は直径100〜150m、深さは20〜30mで火口の底は緑の木々が繁りジャングルになっている。 トンネルは火口の爆発時に偶然できたもので、長さは500っもあり、高さは殆どの場所で5m以上ありかなり巨大だ。トンネル内は一応照明はあったが、非常に暗く足場も悪く、こんな所で捻挫でもしたらと大変緊張した。 夕食は同じホテルに投宿していた小学生のグループと同席だったが、その日その1人が誕生日だということで、大きなケーキが置かれ、ダイニングを飾りつけ、バースデーパーティーが始まったが、小学生達が堂々と友人を祝福するスピーチをするのには驚いた。日本の小学生のように「○○君、お誕生日おめでとう」なんて挨拶ではなく、ちょっとした演説で、普段から自分の意見を人前で話すのに慣れているのだろう、たいしたものだ。日本人の大人だってああはいかない。(目次へ) 11.アマゾンへのツアー アマゾンへのツアーは前回エクアドルを旅した時にも行き、今回2度目だったが、同行した友人も行きたいと言うし、私もせっかくエクアドルまで来たのだからまあいいかと思い再度行くことにした。 友人たちは始めてのアマゾンで結構楽しかったようだが、私としては前回のほうが面白かった。というのも今回は奥地まで行った割にはツアー自体のアクティビティが少なく、出会える動物も少なかった。(目次へ) 1日目 早朝空港へ。7:30のTame航空で約1時間、アマゾン支流にあるコカの町に着いた。しかし迎えが来ていない。9時前なのでキトの旅行社への連絡も取れない。一体どうなっているのだろうと気を揉むこと40分、やっとサファリ用の車のようなオープンカーが迎えに来た。ガイドはカロリンという28歳のドイツ人女性。彼女いわく「ついさっき迎えに行くことを聞いたのよ」。本当かしら、その割には食料や水など準備がきちんと整っているし、とちょと不信の目を向ける。しかしその後の彼女はなかなか熱心に仕事をこなし、遅刻への怒りは収まった。 オープンカーでボート乗り場まで3時間、ボートに乗り換えロッジまでアマゾン支流を2時間半、着くのに1日がかりだ。前回はバス1時間、ボート1時間で昼ごろにはロッジに着いていたのだが、今回はずい分奥地まで来たという感がする。 バスからは新しく作られた石油コンビナートが見られる。この国は農業国でもあり、石油もかなり産出されるそうで、ここで働くインディオ達が建てた簡単な家が道路わきに散在している。コンビナートからは石油の火柱が見られ、アメリカ、カナダ、ドイツ、中国などが開発しているそうだ。 ボートからは鬱蒼としたジャングルを両脇に見ながら茶色のアマゾンの支流を遡っていく。木々の間からはリスざる、カメ、サギ、ツバメなどが見られ、鳥の声、セミの声、虫の声などなかなか賑やかだ。 ガイドのカロリンは素早く動物を見つけて教えてくれるが、私たちは殆ど自分で発見することが出来ない。 (目次へ)
ロッジの生活 ロッジは草葺の2棟の2階建てと食堂がある。食事は前回のときもそうだったが、予想どおりとてもおいしい。スープ、メインディッシュ、デザートが出て食べきれない程だし、キトのレストランよりおいしい位だ。 従業員は全てインディオで、彼らはコツコツと本当にまじめによく働く。アマゾン周辺は以外に蚊も少なく朝夕は涼しく過ごしやすい。私たちが滞在中、発電機が故障していて、夜間は全て蝋燭と懐中電灯での生活だったが、かえってその方がはるばるアマゾンまで来たという感が深まってよかった。 また水も水道など当然なく、飲み水はガイドが運んできていたが、それ以外は全てタンニンいっぱいの茶色の水を使う。歯磨き、洗顔、シャワー、洗濯とアマゾンの水を使ったが、全く問題なかった。(目次へ)
2日目 ジャングルウォーキング 朝6時からボートで川を下る。エンジンを切り流れに任せていると静寂の中、早朝の鳥の活発な動きが感じられる。さまざまな鳥の鳴き声と川のせせらぎは癒しの音だ。 朝食後ジャングルウォーキングを3時間、現地のガイドと共に歩き、様々な植生を習う。自然のサイクル、輪廻転生、人の手が加わらなければ全て自然に運用されていくのだと実感した。 アマゾン周辺のインディオは幼少時の死亡率は高いが、100歳以上生きる人もザラのようで、ガイドの父親は130歳だと言っていた。まあ正確な生年月日も記録されていない土地なので、どこまで信じていいのか分からないが、かなり高齢であることは間違いないのだろう。自然の食物、生薬、クリーンな空気などの生活様式が体に良いのだろうか。 昼から雨。乾期でもアマゾンではやはり雨が多い。4時過ぎからピラニアフィッシング。雨の中ボートで川を下り、3度場所を変えてトライしたが、ピラニアは1匹も釣れずガイドが鯰を2匹釣っただけだった。 暗くなって赤く光るカイマン(わに)の目を見るため、あたりをライトで照らしてボートを進めるが、ワニの目はそれ程はっきりとは見られなかった。(目次へ) 3日目 巨大な木の根の一部 朝食後再びジャングルウォーク。根が扇のように広がり直径5mもある大木の根っこは、土地の人が雨を避けたり一夜を過ごすための仮の宿として使うとか、ジャングルの木を日常生活にどのように活用しているかなどの説明を聞く。 虫下しに用いたりする多くの薬草や整髪料、石鹸に使う草、建築資材用、家具用、日用雑貨用と様々な植物が自生しており、ここのインディオが日常生活に十分な材料をこのジャングルから得ていることが分かる。 スタッフと遊ぶ 捕まえたアナコンダ 船でラグーンへも行ってみたが、この日は殆ど動物や魚は見られなかった。 夕食前にインディオが普段使っているカゴを椰子の葉で作ってみたが、形もかわいいしエコでとても便利だ。また吹き矢も体験させてもらったが、思ったほど難しくなかった。 私たちはお礼に折り紙でツル,風船、ハコ、船などの作り方を教えてあげたら、興味深々だった。 夕方ロッジの中で6mもあるアナコンダ(大蛇)が見つかり、従業員が捕まえていた。毒はないそうだが、こんな大物が周辺にいるなんてやはりアマゾンだなと納得する。この ヘビは次のゲストにも見せるのだと言って、コンクリートの箱の中に入れられてしまった。最後は森に返すのだろうか。(目次へ) バースデイパーティ 友人のバースデイパーティー 朝、ガイドに「今日は72歳の友人の誕生日だ」と言っておいたら、夕食にはテーブルに熱帯の花が飾られケーキも作られ、椰子の葉のティアラも用意され皆でハッピーバースデーを合唱。こんなアマゾンの中での思いがけないバースデーパーティーに感激した。ケーキもとてもおいしかった。 乾期にもかかわらず断続的に雨が降ったり、湿度も高く洗濯が出来なかったが、この日は快晴で見学の合間に洗濯にはげみ、干しておくと見事に乾く。 そして発電機が壊れていてローソク生活だったおかげで、夜空の星が降り注ぐように煌いていた。 このツアーではインディオの村を訪ねたり、シャーマンにも会えると聞いていたのに全くそういう内容はなく、ガイドに問い合わせたら「この地域には近くにインディオの村はないし、シャーマンもいない、どこの旅行社がそんないい加減なことを言ったの?」とびっくりしていた。 前回のツアーではそういう内容が盛り込まれていたのだが、アマゾンツアーといっても広いアマゾン上流地域にたくさんのロッジがあり、ロッジ毎のツアーになるので内容もまちまちで、旅行社も個々のツアーの内容をあまり把握していないようだった。私は内容的には前回の方が面白かったが、友人たちは充分楽しかったと言ってくれたので安心した。(目次へ) アマゾンのインディオ アマゾンのインディオたちの生活も最近変化しつつあるようだ。石油コンビナートが出来たおかげで、現金収入を求めて多くのインディオが村からコンビナートに働きに来て、コンビナート近くに住み始めた。しかし、やはり村の生活が恋しくて村に帰っていく者もいるそうだ。 アマゾン周辺にはいくつものインディオの村があるが、お互いに交流のない村も多く、決して他の村人や外国人を受け入れない村もあり、以前ミッションの人が3人村に入っていくと3人とも殺されてしまった事もあったそうだ。 多くに村の住人は昔どおりの生活を守っており、自然と一体になって暮らしているようだ。 4日目 帰路に着く。ボートでバス乗り場まで3時間半。途中タピオカ(巨大ネズミ)の親子が2匹いてボートの音に気づいて大慌てで川に逃げ込む姿の可愛さに大笑い。 バス待ち2時間、バス3時間、飛行機1時間で、キトまでまた1日がかりだった。(目次へ) 12.キ ト 久しぶりのキトはやっと本来の常春の町と言われるにふさわしい陽気に戻っていた。日中最高26℃くらい。 キトの繁華街アマゾナス通り周辺をぶらついて土産物屋などを冷やかす。以前と比べておしゃれなブティックもたくさん出来ていて、ずいぶん華やかになったような気がする。 夜に民族舞踊を見に行こうということで、インフォメーションに行き、場所、当日の予定、そしてその後に行くいくつかの町のバスステーションや時間を聞くと親切に教えてくれたが、のちに全て間違っていたことが分かった。行く先々で予定が狂わされ大いに迷惑し、一体あのインフォメーションは何のためにあったのだろうと思ってしまった。 以前スペインを旅したときもインフォメーションのいい加減さに振り回され、大迷惑したのを思い出し、「ああ、やはりスペイン系の国ってこんなものか」と再度落胆させられた。この日も教えられた所に行ったが、民族舞踊ではなく詩の朗読が行われていた。(目次へ) オタバロ周辺の町へ キトから直接サン・ペドロに行くつもりが、インフォメーションのウソ情報でそのバスステーションからはサン・ペドロ行きはなく、仕方なくカヤンバ経由で行くことにした。バスで2時間、途中は畑、牧場、花畑、ビニールハウスが続き、山の中腹まで開墾されて畑や牧場になっていて、この国が農業国であるのがよく分かる。 カヤンバ カヤンバの町はキトの旧市街を小振りにしたようで、町の中心カテドラルでは葬式が執り行われていた。亡くなった人は小学校の先生だったらしく生徒も含めて多くの参列者がいたが、全員が手に大きな花束を抱えている。一体この葬式にどれほどの花が使われたのだろうと下司な想像をしてしまった。 カヤンバで有名なビスケットを求めてやっと手に入れたが、バターの味がきつくパサパサで、私たちの口には全く合わなかった。 カヤンバでバスを乗り継ぎサン・ペドロまで30分。キトからバス代1.7jと驚くほど安い。
サン・ペドロ プエルト・アロヨのホテルからの風景 サン・ペドロのホテル、プエルト・ガロは湖に面した最高のロケーションで、今回の旅では最高の宿だ。 庭ではリャマが放し飼いにされ、緑の芝生の中にコテージが並んでいる。手入れされた庭に花が咲き乱れ、花から花へとハミングバードが飛び交う。 湖の対岸には富士山のような美しい山が聳え、その山も中腹まで耕されて畑となり、美しいパッチワークを見せてくれる。 友人がスケッチをしていると地元の子供たちが珍しそうに見に来たので、紙とサインペンを渡すと皆真剣に写生を始めた。学校の授業に美術などあるのだろうか、3人3様なかなか個性あふれる絵を描いたので色をつけてやると、皆喜んで持ち帰った。ホテルでタクシーを呼んでもらい、コタカチへ。
コタカチ コタチカの町中で 昨日からの食べすぎで胃の調子がすっかりおかしい。この周辺も高度2800mくらいで、高山病による消化不良だと気づく。外国での1人前は日本人にとって1.5人前〜2人前に相当するので、よほど控えめに注文しないといけないし、高度のある所ではなおさらだ。 コタカチは本当に小さな町で、これといって見るものはない。革製品で有名なのだが、なめしの技術も良くないしデザインも劣る。 コタカチからオタバロはタクシーで20分ほどだ。 (目次へ) オタバロ 土曜市 オタバロは土曜市が有名で、この日を目ざして多くの観光客がやってくるし、町中の殆どのメインロードが露店で埋め尽くされる。町自体も北部では一番大きくおしゃれな店もあり、毎日開かれている観光客用の市場と、地元の人用の市場がある。 この町のお年よりは私たちに出会うと皆にこやかに挨拶してくれ、貧しい人たちも見かけたが、のどかなエクアドルを感じることができた。 土曜市の当日、広場はおろか周辺の道路も通行止めとなり、店が数え切れないほど並んでいる。タイのチェンマイのナイトバザールとウィークエンドマーケットを合わせたほどの規模だ。しかし同じ商品を扱う店が多く、観光客もそれほど多くなく、これで採算が採れるのだろうかと心配になる。 3人で毛糸で編まれたインディオの親子が乗ったリャマの置物を買っただけ、しかし手間隙かけて編んでいるのに1匹たった4j、かわいそうなくらいの値段だ。 たらたら歩いていても高度2800mは疲れ、Chifa(チャイニーズレストラン)に入り食事をしたら、普通の量を食べたつもりだったが、高度の影響もあり全員消化不良に陥り、その日の夜から朝にかけて苦しい思いをし、一人は1日中寝たきり状態になってしまった。
教会での結婚式 町の中心の教会 オタバロ最後の日は日曜日で、2つの教会で結婚式が行われていた。田舎からバスで2台に分乗し、村の楽団が演奏しながら教会に到着し、式が始まる。花嫁、花婿はとっても素朴で、リンゴのホッペが日焼けで赤黒くなっている。2人とも洋風のウェディングドレスと民族服がミックスされたような衣装で、とても初々しい。式が終わるとまたバスに分乗し、演奏しながら村に帰っていく。1つの結婚式が終わると次の結婚式が控えており、おめでたい空気があたりに漂っている。 今日で同行した友人たちと別れ、彼女たちはキトに帰りそのまま帰国。私は南部のリオバンバの方面を旅することにして、消化不良で寝ている友人を残してもう一人と市場の食堂でお別れの食事をし、キト行きのバスに乗った。 キトの旅行社に行きリオバンバからアンデス山越えルートの列車の時間について聞くと、案の定インフォメーションと違ったことを言う。どちらを信用してよいか分からないので、ともかくリオバンバに行って確認することにした。 キトにはいくつかのバスターミナルがあるが、リオバンバ行きが発着するクマンダバスターミナルは巨大だ。国民の足は殆どバスで、鉄道はどんどん縮小されているそうだ。地方の人にとってバス停以外のどこでも乗り降りできるということはとても便利なのだろう。
リオバンバ リオバンバまで4時間。途中はオタバロに行くときに見た風景よりずっと美しく、両側の山々は山頂近くまで耕され、作物の違いにより様々なパッチワークが延々と続く。この国がいかに農業国であるか、またいかにインディオ達が几帳面に畑を耕しているかが一目で見て取れる。時々畑の中に彼らの鮮やかな衣服の色が見られるのも美しい。しかしあの急勾配の人力でしか耕せない畑を守る彼らの労力は如何ばかりかと思う。 リオバンバの駅に着き列車の時間を問うと、やはりキトの旅行社が言った方が正しかった。これまで国営のインフォメーションで教えてもらったいくつかの情報は全て100%間違っていた。一体何のためのインフォメーションなのだろう。スペインでも同じ体験をした者にとってはスペイン系の人間が本当に信じられなくなる。
リオバンバのインディオ 町中の壁画 リオバンバの町で見るべきものは、町から1`四方に集まっているので、ゆっくり半日もあれば回れてしまう。 町の至るところにスペイン植民地時代の建物が残っていて、観光客もすくなく、住んでいるインディオたちも素朴で、とても穏やかな雰囲気の町だ。ここも2750mで、ゆっくりゆっくりと歩く。 この町のインディオはオタバロ族とは違って、もう少し東洋的な顔をしていてオタバロのように服装は統一されていないが、ショッキングピンクや紫が好きらしく、皆それぞれに鮮やかな肩掛けをしている。 着いた日の次の日は列車は出ず何もすることがないなと思っていたら、ホテルからエクアドルで一番高い山6310mのチンボラッソ山に行くツアーが出ると言う。これ幸いと申し込んだら、スイス人のカップルと3人で行くことになった。6310mといっても2750mのリオバンバから4800mの山小屋までタクシーで行き、5000mの山小屋までたった200mを登るだけだ。これなら楽チンと気軽に出かけた。
チンボラッソ山へのツアー 途中はやはりパッチワークの山がどこまでも続いている。所々にユーカリの林が見られ、牧場にはたくさんの牛が放牧され、牧畜も盛んなことが分かる。乳製品もとても安く、キトのスーパーなどで500gのチーズがたった1.5jで売られていた。 アルパカや羊も道端で草を食べているし、標高4000mを越すとピクーニャが多くいる。 4800mの山小屋に着き、マテ茶を飲んで一休みして5000mの山小屋に向かったがたった200mと思っていたのが如何に大変かを思い知らされる。標高差200mといっても斜めに登るため距離にして1kmは歩いたと思うが、30〜40m毎に立ち止まり息はゼーゼーハーハーだし心臓はバクバク言っているしで、こんな年でこんな事に挑戦するなんて何て馬鹿なことをしているんだろうと思ってしまった。
タフな若者 途中フランス人の青年が登ってきて、軽々と私たちを抜いていった。彼はリオバンバから全て徒歩で登って来たそうで、服装はと言うとシャツの上にインディオが着ているポンチョと綿のズボンだけ。その格好でその日のうちに頂上まで登り、今夜は5000mの山小屋に泊まるのだという。「大丈夫なの?」と聞くと「ミトンがないから手が冷たくてね」なんて言っている。日本人には考えられない無謀さだし、何てタフなんだろうとも思ったが、彼が無事下山できたかは知らない。 やっとの思いで5000mの山小屋に到着。頭がふらつく。こんな状態で長くいるのはヤバイと思い、マテ茶を飲んで小屋の周囲を歩き回りの景色を眺める。山頂は雲に隠れているが、黒い岩と真っ青な空と真っ白な雪山が神々しい。 下りはたった15分で降りてきたが、高山病の頭痛は夜まで続き、やはり5000mはきついと実感した。アルピニストは一体どんな体をしているのだろう。
エクアドルの教育 帰りは視界5mの霧の中を、この近辺の子供たちが寄宿している学校を見に行った。最近エクアドルは教育に熱心に取り組んでいるらしく、町中でも黄色いスクールバスを頻繁に見かける。地方に交通の不便なところに住む子供たちもスクールバスで送迎し、スクールバスでもカバーしきれない所に住む子供たちにはこのような寄宿舎付きの学校を作っているそうだ。8〜15歳くらいの子供が10数人住んでいて、彼らのベッドルームやトイレまで見せてもらったが、清潔に清掃されていた。年長の子が年下の子の面倒を見て、仲良く集団生活に溶け込んでいる様子が伺えた。このように教育に熱心に取り組んでいる様子を見ると、エクアドルの将来に明るい光が見えるようで、こちらまで嬉しくなる。
「悪魔の鼻」への列車 「悪魔の鼻」に行く列車 屋根の上に人が乗る 昼過ぎに駅にアンデス超えの「悪魔の鼻」行きのチケットを買いに行くと、駅員により発売時刻はまちまちなことを言う。2時、3時、4時の3通りの回答でどれが本当か分からない。もしチケットがを買えなかったら、もう帰国も迫っているので乗るチャンスを逃してしまうと思い、2時に駅に行くことにしたら、発売は3時だった。あっという間に売り切れて、やはり早めに行って正解だったと胸をなでおろす。(目次へ) 悪魔の列車 「悪魔の鼻」を下から見上げる 次の日、朝6時に駅に集合、6時半に出発。まずアンデス山中のアウレシという町に向かい、そこから希望者は1j払って座布団をもらい屋根の上に足を外に出して座り、スイッチバックで「悪魔の鼻」に向かう。 列車はびっくりするほど小さく、市電の車両と同じ程度のがたった1両、オンボロで窓の開閉もままならない。おまけに狭軌でヨタヨタと片道3時間半,途中故障して立ち止まり、「悪魔の鼻」を通り過ぎた所で脱輪してしまった。 ジャッキで持ち上げ戻そうとするが、なかなかうまくいかず長時間かかり今日中にキトに帰りつかないと明日早朝のLA行きの飛行機に間に合わないと大いに気を揉む。最終的に乗客も手伝って、皆で電車を持ち上げ軌道に戻したが、こんな事って頻繁にあるのだろうかと心配になる。 行きは私は谷を背にして座っていたので、山側ばかり見ていたのだが、帰りは谷側に座ることになり、ぞっとした。何百mもの谷がいきなり足元から下に落ちている。自分のクツの先はすぐ谷で枕木も何も見えない。 さっきみたいにここで脱輪したらどうなるのだろう、絶体絶命だな等と考えたら胃の府がキューンとなる。 昨日といい今日と言い私って何て年甲斐もないことをしてるんだろうと自分の無謀さにあきれてしまう。しかし無事に終わってしまえば、もう楽しい思い出しか残らない。 肝心の「悪魔の鼻」は鋭くとがった単独の山で、たしかに悪魔の鼻のようにビヨーンと突き出ている。あの山をスイッチバックで下りてきたのかと驚く。下りを谷側に座っていたら、まるで谷底に落ちる心地だったろうと思う。またスイッチバックで元の道を登っていくのだが、どうしてこんな所に鉄道を作ったのかとただただあきれるし、これは「悪魔の列車」だと思った。(目次へ)
完 |
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