悠遊世界一人旅 おばちゃんバックパッカーが行く

旅行記のフォーマット

岡崎 祐子
平成22年9月8日〜10月7日

 2010年9〜10月、インドネシアのスラウェシ島とフローレス島を巡る旅をした。
インドネシアの島巡りといっても、何とその数1万数千にも及ぶ。主な島だけでも20近くある。よって今回は特異な文化を持つスラウェシ島とフローレス島に的を絞って行くことにした。前半はタイのチェンマイに行き、久しぶりに懐かしい友人たちと再会し、尽きぬ話を楽しんだが、タイの政情を反映して観光客が激減し、シャッターを閉めている店が目立ったのは寂しかった。3ヶ月来なかったら町の様相が変わっていた以前の元気さとは様変わりし、沈滞ムードが漂っていた。


タイでの老人介護
 チェンマイ滞在中にチェンライに在住しておられる当会員の中西英樹さんを訪ねた。
以前ウズベキスタンに行ったときにJAICAで活躍していた中西さんにお会いし、素晴らしい人柄に接していたが、今彼はチェンライでお兄さんと共にお母さんの介護をされているとのことで、海外での介護の実態をぜひ見せていただきたく、ご自宅までおじゃました。
 チェンライのバスターミナルまで車で迎えに来ていただき、約10分、静かな住宅街のお宅に案内される。庭付き2階建で1階は20畳ほどのリビングダイニングルーム2階は10畳ほどの部屋が2つあり、お母さんはリビングルームでWベッドで寝起きしている。2人のメイドさんを雇っているが、お母さんのベッドの横にSベッドを並べ交代で24時間付き切りの介護をしてくれているそうだ。
 日本にいた時は2人がかりで介護をしても、なかなか自分たちが生活を楽しむゆとりも無く大変だったそうだが、今はテニスやソフトボールを楽しむ時間も持て、随分生活が変わったと言っておられた。
 生活費も家賃、メイドさんの給料、お母さんの医療費、メイドさんも含めての食費、その他の雑費全て含めて一人分の年金で賄えるそうだ。医療費は日本にたまに帰るときに請求するそうだが、1割負担とはいえ元々の医療費が非常に安いので助かると言っていた。
 お母さんは日本の施設にも入ったことがあるが、認知症が進み充分に納得の行く介護を期待することはできなくなり、思い切ってチェンライに移ってきたのだが、チェンライに来て以来メイドさんたちや近所の人の優しさもあって、随分安らいだ毎日を送ることが出来ているとの事だ。実際にお母さんにお会いしても実に穏やかで、いつも誰かが相手をして上げていて、何て幸せな老後なのだろうと思った。
 今の日本で老人介護の将来を考えても何ら明るい将来が見えてこない状況の中で、海外で老後を送ると言うのも選択肢の一つとして考えなければならないと思った。

今回の旅の日程
 今回はユナイテッドのマイレージが溜まっていたので、関空―バンコクーデンパサール往復を使うことにした。(3万マイル)
9月8日  関空・・・・・・バンコク・・・・・チェンマイ
9月14日 チェンマイ・・・バンコク
9月15日 バンコク・・・・・デンパサール(バリ島)
9月16日 デンパサール・・・マカッサル(スラウェシ島)
9月17日 マカッサル・・・タナトラジャ(スラウェシ島中部) 車で移動
9月20日 タナトラジャ・・マカッサル(車で移動)・・マナド(スラウェシ島北部)
9月25日 マナド・・・・・デンパサール・・・・ウプド
9月28日 ウプド・・・・・デンパサール・・・・マウレメ(フローレス島)
9月30日 マウレメ・・・・モニ(フローレス島中部)
10月1日 モニ・・・・・・マウレメ
10月2日 マウレメ・・・・デンパサール・・・・ロビナ(バリ島北部)
10月6日 ロビナ・・・・・デンパサール・・・・バンコク
10月7日 バンコク・・・・関空

インドネシア共和国のジェネラルインフォメーション
 インドネシアというと日本人にとってバリのイメージが最も強いが、意外とインドネシアの全体像を把握できていないのではないか、それは余りにも多様性に富み、掴み所がないと言うことに起因していると思う。ざっとインドネシアという国について述べると、
  面積  約190万5000ku(日本の5倍)  1万数千の島々で構成
  人口  約2億3800万人
  民族  ジャワ人、スンダ人、バタッ人
       その他マレー系、中国系、パプア系(490の民族)
  宗教  イスラム教 87%、プロテスタント 6%、カトリック 4%
      ヒンズー教 1%、仏教 1%
  言語  インドネシア語、バリ語、ジャワ語、その他250の言語
  通貨と両替レート   ルピア(Rp)  100Rp=1.1円
  ビザ  空港で支払い可  7日以内     10USD  
                8〜30日以内  25USD
と、まあ何とややこしい国かと改めてあきれる。言語もマレー半島で使われていた言語を基にして作られたインドネシア語が共通語となって、普及してまだ50年もたっていないし、この多言語、他民族、他宗教、多島国家を治めるということが如何に大変なことかと、今回訪れたスラウェシ島を知ることによってだけでも実感させられた。
 また、インドネシア多他民族国家であるので、世界の様々な地域から人種や民族が集まってきており、その中で混血も繰り返されたりで、世界の人種がどのように移動してきたかについて非常に興味深い地域なのだそうで、日本からも多くの民俗学や生物学関係の学者が訪れ、DNA鑑定によるインドネシア人のルーツの研究をしているそうだ。
 

利用した旅行会社
 いつもは行き当たりばったりの旅をする私だが、今回に限っては事前に旅行会社を通じて日本語が通じる現地のツアーを依頼した。交通も非常に不便で、とても公共のバスでは回れないし、地方の言葉も理解できないし、特殊な文化についての解説も欲しかったからだ。
今回のツアーは1部を除いて非常に良く、お勧めできると思う。
  利用した旅行社  PT.Kampung Expeditions
           E-mail abe@kampungx.com
           Web   www.kampungx.com

費用   関空―バンコクーデンパサール往復  マイレージを使用
      インドネシア内  
       ツアー代金 タナトラジャ(3泊4日、ホテル、食事込み)41,000円
             タンココツアー(2泊3日 ホテル、食事込)31,000円
       フライト  デンパサールーマナドーマカッサルーデンパサール
                 (メルパチ航空 )         30,000円
             デンパサールーマウレメーデンパサール   15,000円
                 (バタビア航空)
       ホテル代  バリ(ロビナ melka hotel)25USD×3泊=75USD
             フローレス(マウレメ silk hotel) 1泊=30USD
                  (モニ guest house)   1泊=2500Rp
            計 11550円
         (食費、雑費、島内の交通費を除く)     合計128,550円

スラウェシ島へ
9月15日  関東方面から来る友人たちとバリのホテルで合流し、16日にスラウェシ島マカッサルに向かった。マカッサルの空港にはPT.Kampung Expedetionのガイド、マルセルが迎えに来てくれていた。出発前からガイドはマルセルと言う男性と聞いていたので、何となくフランス人っぽい白人を想像していたのだが会って見てびっくり。
一瞬「え!アボリジニ?」と思ってしまった。それほど彼は特異な風貌で、この人と一緒に過ごすのかと思うと正直不安がよぎった。しかしその不安は5分もすると解消され、
彼の上手な日本語、行き届いた態度、やさしい笑顔に安心し、親しみを覚えるようになった。
 彼はフローレス島出身で、大学在学中に日本語に興味を持ち独学で習得し、ガイド暦20年以上、ベテランの有名なガイドだそうだ。日本人の性格やクセ、好みなど正確に把握し、何の不満も感じることないどころかツアー終了後にもかかわらず、フライトの突然の変更やチケットの手配まで先回りしてやってくれていて感激したくらいで、彼には120点を上げてもいい位だった。
 彼はパプア島のガイドも得意としていて、現地人に受け入れてもらいやすいように髪を長く伸ばしているそうで、インドネシアの島を訪ねる時は彼のガイドをお勧めする。
 マカッサルで1泊し、昼食、夕食をマルセルと共に採ったが、すごい量と種類で、スラウェシ特有の料理を沢山食べることが出来、自分たちではとても注文できず、味も私たちの口に合い、大満足だった。

スラウェシ島の概要

 ウォーレス線で区切られ、アジア側とオセアニア側の両方の生態と地質を持つ。
  人口  1400万人
  民族  マカッサル人、トラジャ人、ミナハサ人、ゴロンタロ人、その他
  宗教  イスラム、プロテスタント、ヒンズー、仏教
 マカッサル
  スラウェシ島最大の町、フライトもジャカルタには頻繁にある。
 タナトラジャ
  マカッサルからタナトラジャまで車で10時間
  伝統家屋、岩窟墓、盛大な葬式、など独特な文化、歴史を持つ
  標高1000mで涼しく、トラジャコーヒーの産地(キーコーヒーの工場がある)
 マナド
  タンココ国立公園へのアクセスの町
  隣接するモラスビーチは世界有数のダイビングスポット

タナトラジャ へ
 9月17日  8時から車でガイドとドライバーと共にタナトラジャへ向かう。休憩を入れて10時間。途中は車が結構多く、運転も大変そうだったが、道は思っていたよりずっと良い。
 タナトラジャに入るまではイスラム教の人が多く住んでいて、モスクも町のあちこちに見られるが、トラジャに入ると急にキリスト教の教会とトンコナンとう船形の家や墓が目に入る。トラジャまでの道にはココア、マンゴー、バナナ、パパイアの実のなる木が沢山繁っている。
トラジャの人は紀元前1500〜2000年に中国の雲南省から船に乗って移住してきたそうで、今でもその名残で船形の家や墓が残っているのだそうだ。
トラジャはキリスト教の影響なのか非常に教育熱心で、就学率、進学率も他の地域と比べると非常に高く、生活も豊かで、都市部では多くの人が医師、弁護士、教師、実業家として活躍しているとのこと。
     

この日も昼食はまたすごい量。余りの量の多さにマルセルにこの半分でいいからと言ったが、その後も量はあまり減らなかった。こちらも美味しさにつられて、ついつい食べ過ぎてしまうのが怖い。水もたっぷり提供されるが、ちょっと過剰サービス。
夕方ホテル着。ホテル内(トラジャ ミシリアナ)にはトンコナンの建物が9棟建っており、部屋も民族っぽい。大きなホテルだが、客は殆どいない。

9月18日  昨日も今日も天気は晴れたり曇ったりだ。今日はタナトラジャの村や墓を回る。町の中心をサダン川が流れている。
 墓はトラジャの中でも各村によって形態が違っていて、狭い地域だがそれぞれの村が独自の文化を持っていたのが分かる。
 葬式はバリ島でもそうだったが人生最大の行事で、しかもバリ島よりずっとお金をかけ、富と名誉を競いあう場となっているのだそうだ。この日は幸運にも村で葬式があるということで、見学させてもらった。ただマルセルに言わせるとこの日の葬式はあまり大した葬式ではないそうで、お金持ちの葬式はもっともっとすごいですよ、と言うことだった。11時ごろ葬式のある村に着くと、村人たちが竹で組まれた桟敷のような所に300人ほど集まっている。そして牛が10頭、杭に繋がれている。これからこの牛を1頭ずつ殺して死者の魂が天に昇り、死後の幸せを祈るのだそうだ。牛達はこれから自分が殺されることを悟っているそうだが、おとなしくじっとつながれている。待つこと1時間、最初の牛を殺すことになった。私たちの一番近い場所に繋がれていた牛で、いきなり男性が刃物で牛の頚動脈を切りつけた。牛は鳴き声一つ立てない。ただ苦しそうにもがき、首から鮮血がほとばしる。2〜3分してぐったりと地面に横たわって、もう死んでしまったのかと思ったら、やおら立ち上がりまた苦しそうにもがく。地面に血が流れ、吸い込まれていく。15分程も見ていたのだろうか。牛はなかなか死なない。もうこれ以上残酷で見ておられなく退散することにした。見物客の中には欧米人も沢山いたが、彼らは平気で見ていた。

 マルセルいわく、この葬式には牛が10頭使われたが、1頭平均5万円,計50万円、もっと豪華な葬式では白黒まだらの牛を使い、それは1頭200万円程もし、この地方ではどんな牛を何頭使ったかで葬式の豪華さを競うのだそうだ。葬式は5日間行われ、最終日に殺した牛を村人に振舞って終わる。一般人が葬式に参加するときは、タバコ1カートンを土産に持参するのが習慣なのだとか。
 村の習慣としては、病人がいる時は家の前に白い旗を出さないといけないそうだが、これはもうすぐ葬式があるよという合図なのか。また、村は教会が中心となって自治が行われ、土曜は村のミーティングの日、日曜はミサの日となっている。

 この日訪れた村は、次の通りでそれぞれに特徴があった。
 レモ村(レモ=みかん)  断崖に墓を作り、墓の中にタウタウという故人とそっくりの人形を置いている。貴族の墓と庶民の墓に分かれていて、村を見下ろす絶景に作られている。

 ロンダ村  この村は洞窟の中に墓が作られ、ここも貴族と平民に分けられているが、やはり人形が置かれている。

 ケテクン村  この村は舟形の家の集合村で、古くからの舟形の家が多く残っている。
また墓は断崖の中腹に作られ、墓に収めるまでの骨が洗骨され断崖の下に集積されている。以前は頭蓋骨がもっと沢山あったそうだが、外国人特にフランス人が持ち返ってしまったのだそうだ。これはすごい悪趣味だと思うし、訪問国の民族や文化を尊重していれば絶対に出来ないことだと思った。


9月19日  この日はマクラ(温泉)に行った。温泉と言っても、ちょっとぬるいプールで、水着に着替えて地元の人たちと一緒に泳ぐ。日本人など見たことがないらしく子供たちが珍しがって、私たちは大人気。きゃっきゃと童心に返って戯れた。
 ちなみにタナトラジャは、タンポロラーシというトラジャの最初の王が天から降りてきて治め始めたということで、最近まで貴族社会で構成されていた。トラジャの意味もトウは王様、ラジャは人なのだそうだ。
 町の中心にある市場はタナトラジャのスーパーマーケットだ。ありとあらゆる物が揃っていて、買い物客も多い。珍しい食べ物や野菜、調味料など興味は尽きないが、買って帰ってもどう調理すればよいのか分からないものが多かった。

 スアヤ村  この村はトラジャでは珍しくキリスト教とイスラム教が混住していたらしく墓も両方のスタイルがミックスしている。

 サダン村  ここはインドネシアの織物として有名なイカットの村だが、実際には技術的にも大したことは無く、がっかりした。

 パワラ村  トンコナンの家が沢山あるが、全て土産物屋になっていて、内部を見ようとするとみやげ物をしつこく進められ、落ち着かない村だった。

 ボリ村  広場に石柱がいっぱい立っていて、これは死後魂が天に昇るための階段であるとのこと。
 マラビ孤児院財団  インドネシア人の男性が10年ほど前にこの島の孤児たちを救うために作った財団で、自分たちで作った笛や太鼓で観光客の前で音楽を演奏して寄付を仰ぎ、孤児たちの生活に当てている。8〜15歳くらいの子供たちが、最初は「ウェルカム」の曲、そしてスラウェシの民謡、最後は「元気で旅を」と上手に演奏し踊ってくれる。素朴な楽器だが、とても優しい音が出る。お土産に手作りの竹の笛を貰った。



 タナトラジャの特殊な文化を多く見てきたが、果たしてこの文化はいつまで続くのだろうか。この島では多くの人が都会の大学で学び、就職して活躍している。もう既に葬式にしても派手な葬式をするほど来世に幸せになれると信じている人は、殆どいないと思う。生活の全てを葬式に掛けていた今までの価値観は早晩崩れてくるのではないか。私たちが泊まっていたホテルのオーナーは女性だったが、彼女はご主人が亡くなった時簡素なキリスト教式の葬式を行ったそうだ。しかし、それはこの地方では受け入れられず、まるで村八分のような扱いを受けたそうだ。しかし、新しい考え方をする人も徐々に増えてくるのではないか。文化を継続していくことは重要だが、現代の生活との兼ね合いも必要で、いずれ過去の文化となってしまうだろうと思う。

 マルセルにインドネシアの人たちの生活について聞いたので、一部を紹介する。
インドネシア人の平均月収  2万円
スラウェシ島の平均月収   4万円
年金は公務員のみに与えられる。
健康保険は一般の保険会社の保険に加入可能な人のみ。

マナド へ
9月20日  タナトラジャからマカッサルに車でまた8時間かけて戻り、マルセルと別れ、フライトでマナドへ。空港にはタンココ国立公園のガイドを依頼していたボビーが出迎え、モラスビーチのホテルまで送ってくれた。このホテルは広大な敷地に様々な形態の部屋があるが、なぜか泊まっているのは私たちだけ。タナトラジャのホテルでも沢山の部屋数があるのに、ほんのわずかの宿泊客しか泊まっていなかったが、オフシーズンでもないのにどうしてと疑問に思う。多分、十数年前のアジア経済が落ち込んだとき以前に大規模に作られ、その後閑古鳥が鳴くような状態になったのではないかと思う。
9月21日  この日は丸1日休息日。ホテルの周辺は何も無いので、ホテルの車でマナドの町まで連れて行ってもらう。スラウェシ一番の町だけあって、かなり大きく道幅も広いが信号は少なく、車の数が多くて道を横断するのがちょっと怖い。
デパートや商店を見て回り、人口の多さや人々の活気に圧倒される。レストランに入ったが、殆どの店がインドネシア語のメニューしかなく、とても不便だった。

タンココ国立公園 へ
9月22日  早朝タンココのガイド、ボビーの出迎えでタンココ国立公園へ。車で2時間半。ボビー所有のロッジは本当にお粗末。電気は夜のみ、水シャワーでそれはこんな僻地では仕方ないのだが、食事がとても貧しい。全ての食事がご飯と焼きサバと少しの野菜のみ。2日間同じものを食べさせられると、気分まで落ち込む。これまで贅沢な食事をしてきたので、あまりの落差にショックを受ける。これで1泊3500円もするといって日本人のバードウォッチャーが文句を言っていた。ボビーはバードウォチングにかけてはエキスパートなのだそうで、ガイド料は他の人より高いと自慢していた。
 3時からジャングルトレッキング。虫が多いので長袖、長ズボンで全身を覆い、虫除けのスプレーを服の上からもかける。
 最初に黒ざるの大群に出会う。1つのグループで約60匹。それが4つほどのグループで移動する。全身真っ黒、愛嬌のある顔、小猿と一緒に行動していてとても可愛い。
サイチョウは白い羽と尾、黒い胴、赤いトサカの美しい鳥で、羽を広げると2m近くにもなり、飛ぶとバッサバッサと周辺の空気が揺れる。木のほこらに住み子育てをするのだが、毎日夕方5時半頃になると餌を持ち帰り、噛み砕いて子供に与える。この日も丁度5時半に餌を口に咥え帰ってきて子供に与えた。最近の人間の母親より余程子育てをしっかりやっている。
メガネザルは大木に絡みついた寄生木の間に住み着き、彼らも毎日あたりが暗くなった頃を見計らって現れる。この日は2匹が6時ごろ現れ、20人ほどの観光客のフラッシュにも平気で、マイペースで餌を探している。体長15cm、尾の長さ25cm、体重150〜200g、眺めていると一瞬にして5mもジャンプして闇の中に消えてしまった。フラッシュに照らされた大きな眼が印象的で忘れられない。         夜は蚊帳をつり、シーツのみで寝る。湿気が高くなかなか寝付けない。夜間、動物の鳴き声、遠雷、大粒の雨。
9月23日  タンココからマナドへ。ボビーがツアーに含まれていたモーニングウォーキングをしないと言うので、帰路にある湖や周辺の村を回る代わりに、夕食も抜きにしてガソリン代を1000Rp追加するということで折り合う。帰国後旅行社に報告することにする。
 また、ボビーは心臓が悪いらしく、この日も途中から運転を友人に交代してもらったので、ちょっと心配なので9月25日のホテルから空港までの早朝の送迎は、ホテルから車を出してもらうことにした。

トモホン  トロピカルフラワーが栽培されている美しく、馬車が町の人の足でとてものどかな町。

トンタノ湖 対岸に富士山のような火山が見え、涼しい風が吹く。タンココの湿度に比べると夢のように気持ちがいい。

9月24日  マナドでシュノーケリングをした。大きな船に私たち4人で、スタッフ4人、船頭1人、フロントの女の子2人と大勢が参加。多分暇なのでホテルのスタッフ達も楽しませて上げようと言うホテル側の福利厚生なのだろう。
 1時間足らずでブケナン島に着き、3箇所でシュノーケリングをした。ここは私がこれまで世界各地でシュノーケリングやダイビングをした中で、紅海に次いで美しい。
サンゴの種類、色、大小の魚の数、水の透明度、すべてすばらしい。今回の旅で一番楽しかったところだ。一人50USD.高いが充分満足。
 夕食は私たち4人だけのためにプールサイドにテーブルを置き、バーベキュウを始めすごい量と種類の料理。メインディシュの他にサラダ、スープ、デザート2種、トムヤンクン等等。ローソクの灯でロマンティックなディナーとなった。その夜は満月。
オーナー自らサーブしてくれ、恐る恐る値段を聞くと一人1000Rpだった。

バリ島 へ
9月25日〜27日  今回のメンバーの中にバリ島に行ったことがない人がいたので、少しだがバリ島を見せてあげようと言う事になった。
早朝のフライトでマカッサルからデンパサールへ。マカッサルの空港からジャカルタ行きのフライトが1時間間隔で出ているのに驚いた。この多島国家で人口も多く、いかに多くの人が流動しているかを実感した。
 デンパサールからウプドへはタクシーで2時間。2000Rpほど。ウプドでは1昨年約3週間滞在したホームステイに泊まる。(Surunaruta) オーナーも私のことを覚えいて、私たちは友達だからと1泊3500Rpを3000Rpに負けてくれた。
 友人たちがその民宿を気に入ってくれるかが非常に気がかりだったが、高台の2階建で景色も素晴らしく、涼しい風が吹き渡る部屋をとても気に入り、また彼女たちは皆絵を描く人たちなので、スケッチするのに最適だと喜んでいた。
 付近の商店や市場での買い物や、裏のライステラスの散歩やスケッチなど充分に楽しめたようだ。
 メンバーの内2人が27日に帰国。これ以後私ともう一人の友人とで旅を続けた。 

フローレス島
 フローレス島はガイドなしで自分たちで回れるだろうと思い、情報も現地で収集しようと気軽に考えていたが、かなり甘かった。バリ島でフローレスの情報を探したが、全く手がかりが無い。仕方ないので、まあ取り合えず行ってみるかとバリからフローレスのマウレメに飛んだ。
 フローレス島の概要は次の通り
  人口  150万人
  民族  ポリネシア系が多い
  宗教  85%がカトリック
  コモドオオトカゲで有名なコモド島へのアクセスとなっており、また3色の湖で有名なクリ、ムトウ山やフローレス島が誇るイカット(かすり織)を織る村が点在している。

9月28日  12時にデンパサール発エンデ経由でマウレメに3時着。空港内には机1つ置いただけのツーリストオフィスがあったので、フローレについての情報を聞く。彼はガマというガイドで、中部の町モニまでガイドしてくれることになったが、これは失敗だった。
彼はバリでもガイドをしていたと言っていたが、どう見てもあまり有能とは思えず、後にバリのバス会社パルマ社で聞くと、「えー!ガマにガイドを頼んだの?」と大笑いされた。相当無能なガイドだったようだ。旅の良し悪しもガイドによって大いに左右される。下手なガイドに付くくらいなら、一人のほうがましと言うこともある。
 イカットの村とモニに行くことにしたが、以外に高い。クレジットカードは使用できず手持ちのルピーが少なかったので町の銀行に行ったが、閉店後なのに気持ちよく両替してくれた。
 車の1日使用料 500000Rp  島では両替率が悪く、1USD=8000Rp
9月29日  マウレメからイカットの村のシッカとワトブラッピへ行った。
シッカでは博物館がありフローレスの布や土器などが展示されていたが、その中に  日本兵の骸骨がまるで骨格の標本のようにケースの中に展示されていた。第2次世界大戦の時に戦死した日本兵だそうだが、骨も本国に返されること無くこんな状態で曝されなければならないなんてと言葉も無かった。             
 博物館の館長がオールドイカットを収拾していると言うので、自宅まで見せてもらいに行く。100年以上前のものから4〜50年の物まであり、100年前のものは白地に紺のチェックと赤い浮き織りで、以外にシンプルだ。値段は100USD〜1000USDで、本当に価値あるものは100万円以上するものもあるそうだ。私は興味はあるがそんな高価なものを買う気は無いので、ただ見るだけだ。
シッカ  シッカのイカットは色が比較的鮮やか。すぐに村人が集まり、イカットを広げる。買わないと非常に機嫌が悪い。ガイドもいやみを言う。
ワトブラッピ  織りをしている家を訪ね多くのイカットを見せてもらう。全体的に色は渋め。ガイドが何か買えとうるさい。仕方ないので村の音楽を録音したCDを買い、見せて貰ったお礼として1000Rpをわたす。
村では現金収入を得ようと必死な感じを受けた。何も買わないとあからさまに嫌な顔をする。
 フローレス島のイカットは高い水準にあるが、観光客に対して今のような対応では問題だと思う。縦横絣で有名なバリ島のテンガナン村では,近年英語のガイドを置き、村独特の文化や社会構造について分かりやすく説明し、理解した上で製品を購入してもらうようにしていて、決して押し売りはしない。このような方法も参考にしてはと思うのだが。

9月30日   モニ へ
 マウレメからモニまで片道一人700Rpで安いと思ったら乗り合いタクシーだった。
 出発まで1時間以上待って、この手段は失敗だったと思ったが、途中乗客がジュースを奢ってくれたり、安レストランで一緒に食事をしたりと思いもよらず楽しかった。3回山道を上り下りしてモニ着。
  アワルディというホームステイがいいとガイドのガマが言うので泊まったが、1泊2500Rp。水シャワー。イスラム系のオーナーの女性と家族が私たちの部屋のテラスを独占し、いつまでもおしゃべりをして休ませてくれない。夫の車でツアーに行くようしつこく、商売気たっぷりでうんざりする。
  おまけにこの地域一帯が夕方5時から止水され、シャワーも使えない。他のホテルに移ろうと探したが、近くにはまるで幽霊屋敷のようなホテルがあるだけだった。
  夜半激しい雨が降り、バケツに水をためてやっと体を洗うことが出来た。
 しかし、後で分かったことだが、近くの村でもっと新しいホテルが出来ており、フランス人などが多く泊まっているようだった。ガイドのガマは最低だ。

10月1日   クリムトウ山
  4時に起き車で1時間、真っ暗な中を徒歩30分でクリムトウ山の山頂へ。日の出前で山はすっぽり霧に包まれている。風も強く寒い。日が昇っても霧がどんどん湧き出て風景はあまり見えない。3色の湖があるが、霧が晴れても色は余りはっきり見えなく、ちょっと期待はずれ。帰り道での小鳥の声が美しい。

  モニから近くのイカットの村にも行く予定だったが、イカットの村の人たちのあまりの商売気に嫌気がさし、もう行かない事にしてマウレメに帰ることにした。私はフローレスのもっと他の地域にも行ってみたかったが、交通の便が非常に悪くて島内はバスしかなく、友人が車酔いがひどいので長時間山道をバスで移動するのは困難と言うことで、諦めざるを得なかった。
  同宿していたドイツ人のカップルがチャーターしている車でマウレメに行くと言うので同乗させてもらうことにした。彼らもホームステイの人たちやチャーターした車のドライバーのがめつさにげんなりしていた。現金収入が貴重な彼らの気持ちは分かるが、結局は逆効果になっていると思う。
  マウレメのホテル・シルビアは大して値段も違わないのに綺麗で居心地が良い。
 フローレス島にはいろんな面で失望し、次の日に予定を早めてバリに帰ることにし、
 ホテルで空席の確認をしてもらい、オフィスに行きチケットの変更をしてもらう。
手数料一人1000Rp。

10月2日  14時のメルパチ航空でデンパサールへ。そしてタクシーでクタへ。道はすごい渋滞。クタは相変わらず気違いじみてやかましい。大人の来る町ではない。
さて、後4日間ほど日程が余ってしまったのでどうしようと相談した結果、バリ島北部のロビナに行ってみようと言うことになり、HISでロビナのホテルについて聞くと、ロビナについては全く情報を持っていないという。HISは日本人はクタ、サヌール、ウプド以外は行かないし、情報も必要ないと思っているのだろうか。小さなバリ島の中の情報をろくに持っていないということにあきれる。バス会社のパルマ社で聞くと詳しく教えてくれ、ホテルを予約してくれた。

10月3日    ロビナ
 10時のバスでロビナへ。オンボロバスでクーラーもないが、1000m以上の山を超えていくので、とても涼しい。途中山の中に隠れ家のようなホテルもいくつかある。また、北部のシガラジャという町は、オランダ人が開発し、ゆったりした道路に美しいコロニアル風の家が並ぶまるで南欧にでも来た様な気分になる町で、他のバリの町とは全く違った雰囲気だ。
 4時間でロビナ着。ホテルまで送り届けてくれる。予約したMelka hotelは内部に動物園や保育園があり、イルカショーやイルカと一緒に泳げたりと家族向けのホテルだ。
ホテルの裏は漁村でリガーの小さい船が沢山置かれている。
TVはインドネシアの各地でアルジャジーダが見られ、公平な取材と報道に感心した。

10月4日  浜辺に散歩に行くと、マッサージ、アクセサリー売りのおばさんがあっという間に集まってくるが、相手にせず昼寝を始めると、彼らも一緒に昼寝を始めてしまった。何てのどかなこと。また、友人の描く絵を興味深深で見ている。
昼からロビナの町中に行ったが、海辺に面してホテルや民宿が多くあり、おしゃれな
レストランや店もあり、値段も他の観光地より安い。もし次に来る時はロビナの町に滞在したいと思った。




10月5日  昨日海辺でアウトリガーの船を持っている叔父さんにシュノーケルをしたいと言うと、1000Rpで連れて行ってあげると言うので約束し、6時に出発し、シュノーケルへ。アウトリガーの船に乗り約10分でポイントへ。サンゴは余り無く魚の種類も多くない。食パンを餌にすると様々な魚が70〜80匹集まった。3箇所ほどポイントを回り1時間ほど遊び、機材も含めて1000Rp。ホテルでは70USDと言われたが、多分もっと大きな船で時間も長かったと思うが、このあたりではこれで充分だと思った。バリではダイビングも以前したが、水の透明度はあまり良くない。
 午前中はプールサイドでノンビリ。しかし退屈。日本人は何もしないで居ることは苦痛でしかなく、なんて貧乏性なのかといつも思う。
 昼から近辺の村を散歩。このあたりは裕福な家が多い。

10月6日   帰国
 9時ロビナ発。サヌールの近くでバスを降りタクシーに乗り換え空港へ。13時30分着。フライトは16時20分だがセキュリティーが非常に厳しく、チェックインに意外と時間がかかった。
 タイ航空でバンコクへ。友人は成田へ。私は関空へ。21時ごろ分かれて帰路に着く。   

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