悠遊世界一人旅 おばちゃんバックパッカーが行く

旅行記のフォーマット

岡崎 祐子
平成23年3月18日〜4月27日

はじめに  今回の旅は2011年3月16日の東北大震災直後の出発で、こんな時に旅に出ていいのだろうかとか、旅の途中で日本が大変なことになってしまうのではないかとか、大変心配もし後ろ髪を引かれる思いでの旅立ちとなった。
機内でも気持ちは晴れず、ワインを2本飲み干しほろ酔い気分になった頃からやっと「これから旅に出るのだ」という海外モードに切り替わり、楽しみを少しずつ味わい始めた。
 関空からエールフランスでパリへ。機内はフランスから帰国命令が出たフランス人が成田空港を使えないので、東京方面から大勢乗ってきて満席だった。これに反して帰りのパリと関空間はがら空きで、4席分を独り占めにして横になって寝て帰れたほどで、如何に外国人が原発に対して敏感に反応したかが分かった。
 
 今回行ったポルトガルとパリは実に約20年ぶりで、スペイン南部は5年前に行ったが、マドリッドは何と約30年ぶりという懐かしい旅だった。
しかし、基本的にこれらの町は何十年たっても変わっていない。もう完成されてしまった町とでも言うのだろうか、問題をはらみつつも懐かしさを想い起こさせる町だった。だから今回は一応有名な観光地は回ったが、以前行った観光地の中でもう一度行って見たかった所と前回行けなかった所を回ることにした。
 この旅行記には定番となっている観光地に関する記述はできるだけはずし、あまり観光客が行かないところを書くことにした。
 
 ただ今回訪れた国や町は、殆どが一番の見所は教会で、歴史や建築に関しても、とにかく一番優れているのは教会。だからどこに行ってもまず見るべきものは教会となり、私は無宗教であるにも関わらずまるで巡礼をして来たような印象すらある。サンチャゴ デ コンポステーラやモン サン ミッシェルにも行ったので観光がてらの巡礼とも言えなくもないが。


ポ ル ト ガ ル

リスボンへ  パリで乗り換えてリスボンに向かう。夜9時30分着のフライトで20年前もそうだったが、飛行機はリスボン上空を夜間飛行のようにグルッと一周して着陸する。リスボンの町は全てオレンジ色の灯がともり、町全体がオレンジ一色でそれはそれは美しい。この夜間飛行はポルトガルを訪れる人にとっては最高のプレゼントだ。
 ポルトガルには3月16日から4月5日までの合計21日間の滞在だった。
 空港でタクシーバウチャーを買い、ホテルへ。市内中心部のロシオ広場に面していて、ロケーションは最高だ。しかし部屋は4階(実際は5階)、エレベーターなしの安宿なので、毎日の上り下りは結構疲れた。だが、部屋から真正面に見えるサン ジョルジェ城は夜間ライトアップされて美しく、朝な夕なに眺められ楽しかった。
 ポルトガルは日本よりかなり暖かいと思っていたら、到着後3〜4日は意外に寒く、しかしその後は初夏のような陽気となり、時には真夏のような暑さで、行くところ行くところ春爛漫、百花繚乱で春から初夏の花まで一斉に咲いてしまった感があった。これはスペインとフランスでも同様で、今年の春は例年より2週間早くやって来たそうで、まるで爛漫の春を追いかけるような旅となった。

リスボン市内
アズレージョの建築物 前回ポルトガルに行った時は1997年だった。
1998年にリスボンで世界万博が催されるので、その人ごみを避けてわざわざ前年に行ったのだが、既に町は大工事中で美しいポルトガル独特のアズレージョを施した建物がバリバリと壊され、新しいピカピカのビルに建て替えられる最中だった。アズレージョはアラブの影響を受けたポルトガル独特のタイルで、美しい絵が描かれ民家やビルの壁一面に飾られているのだが、何て勿体無いことをするのだろうと思った。
他の国では古い歴史的な建物は大切に保存し、リニューアルして使っているのにと驚いたが、今回来て見てもう殆どのアズレージョの建物が残っていないことに改めて残念に思った。
以前はビルの壁面全体に美しいタイルで描かれた一服の絵としてアズレージョのタイルが施されていたが、今はもうどこにも見ることは出来ない。万博後、やっと古い建物の外観を変えてはいけない、リニューアルして使用するようにという法律が出来たそうだが、もう遅い。ポルトガルにとってアズレージョの建物は貴重な観光資源でもあったはずなのに。

リスボンの大津波  1755年にリスボンも大津波に襲われている。リスボンの町は岩山の上に作られた様な町で、町中いたるところアップダウンがあり、歩くのもとても疲れるが、この低地の部分を津波が襲い多くの家や人が流されてしまったそうだ。1755年以前のリスボンの風景画を見ると、港周辺も今は美しい港となっているが、以前は全く違った風景だったのが分かる。しかし、この地震のせいで世界中の建築に関する意識が一変し、その後の建築に多大な影響を与えたそうだ。
 自身も地震の経験者として、ポルトガルでは私が日本人と分かるとよく地震に対するお見舞いの言葉を掛けられた。ポルトガルは今経済的に行き詰まっているので、経済的な援助は何も出来ないようだが、気持ちだけでも嬉しかった。

ロマのスリ  リスボンでは今ロマのスリがとても多い。フランスでサルコジ大統領がロマを一斉にルーマニアに送り返したのだが、その後多くのロマがポルトガルに舞い戻ってきてスリなどロクでもないことをして生計を立てている。ポルトガルは今新しい家がたくさん建っているのだが、古い家を取り壊す費用を節約したのか多くの家がそのまま残っているので、町中には無人の古い家と新しい家が混在している。その無人の家に多くのロマが住み着いているのだそうだ。
 私も2度ロマにリュックのファスナーを開けられていたが、幸いリュックには何も貴重品は入れていなかったので何も盗まれなかった。ザマアミロだ。

リスボンの日本人画家  ケーブルカーの坂道を登ってぶらぶらしていたら、年配の日本人の画家に出会った。もう11年もリスボンに住み着いて、リスボンの風景を描いているそうだが、彼は妻を早くに亡くし、その後阪神大震災に会い家も全壊しポルトガルに移り住み、以来ずっと絵を描き続けている。
日本でもプロの画家であり画壇の審査員も勤めたが、画壇の裏の汚さや人間関係に幻滅し、全く知り合いもいないポルトガルに来て、自身の絵を追求して描き続けている。
近年の奇抜さを狙ったような画風では全くなく、親しみやすく心が洗われるような絵だ。彼は何度も「ポルトガルに来て本当に良かった。」と言っていたが、その間には食費にも事欠く日々もあったそうだ。
しかし今年、個展をしてみないかと言う話があり、大統領府の隣のギャラリーで催したところ大変反響がよく、かなりの絵が売れ、テレビや新聞にも取り上げられ、今ではすっかりリスボンで有名になってしまった。彼とはその後2度会い町を案内してもらったが、一緒に歩いているとあちらこちらから「オラ」(やあ)と声が掛かる。やっと生活も少し安定し、日本に残してきた娘さんにも安心してもらえると喜んでいた。
 日本にいたら多分画壇の汚さに塗れてしまっただろうが、彼は日本を切り離すことで自身を取り戻し、自身の絵を追求することが出来たのだろうと思った。

ポルトガルの食べ物  ポルトガルは食事と食材がとても安い。レストランで食べてもその量の多さにびっくりするし安いし、味も馴染みやすい。
またポルトガルでは何と言ってもパンがおいしい。日本やフランスやドイツのパンとも違う。しっかりとした歯ごたえの麦の美味しさが直接感じられるパンで、種類もとても多く、前回来た時も全種類のパンを食べてやるぞと毎日パン屋通いをしたが、今回もせっせとパン屋に通った。
 そして家庭料理的なものでは結構日本と共通したものもあり、テンプラはもともとポルトガルから来たものだし、海産物も種類が多くて美味しい。アジのから揚げや卵のおじやなどもあり、明太子まで食べるのには驚いた。
 果物も種類が多く、とても安い。ワインも勿論とても安く、5ユーロも出せばコクのあるポルトワインが手に入る。ワインの種類は色々あり、有名なものではサクランボで作ったジンジャ、ワインとウィスキーをミックスしたマデイラワイン、ワインに蜂蜜を加えたチチャなどそれぞれに美味しい。
 またこの国の人はケーキが大好きで、日本人にはちょっと甘すぎるが、種類はとても多く、老若男女が町を歩きながらちょっとカフェに寄り、カウンターで立ったままケーキにエスプレッソを飲んでいく。特にいい年をした男性がケーキを美味しそうに頬ばる姿はちょっと日本では見られない。
 この国に住めば食べ物は美味しいし安いし、取りあえず食べることには困らないなと思った。

ファド  ポルトガルを代表する音楽と言えばファド。リスボンにも何軒ものファドレストランがあり、夜10時を過ぎた頃から始まる。歌手も素人からプロまでたくさんいて、何軒かのレストランを掛け持ちして回っている。しかし上手い歌手に当たることもあれば時には期待はずれのことも結構ある。
 アラファマ地区という津波からの被害を逃れた200年以上たつ古い町並みの地区にある、ガイドブックで5年間も推薦され続けているファドレストランに行ったが、ちっとも良くなかった。もう黙っていても入り切れない程の観光客がやって来るのですっかり慢心してしまったのか、料理はまずい、料金はすごく値上がりしているし、歌も下手。主人も他人に店の切り盛りをまかせっきりで外で遊んでいる。
 コインブラで行った男性がファドが歌うバーでも全く真面目さが感じられなかった。まあ、こんな所にもポルトガル人の性格が現れているのだろうが。

リスボンのマラソン大会  修道院の前の公園でその日はマラソン大会があった。世界中から選手を集め、一般市民も多数参加してすごい盛り上がりだった。
マラソンと言ってもコースは長短何コースもあり、色んな場所で様々な楽しいゲームもあって、身近な感じで楽しんでいる。リスボン挙げてのお祭りで、ポリスは総動員で準備や救護に当たり、騎馬隊や軍楽隊も参加して盛り上げているし、応援の仕方も面白いプラカードを持ったりしてとても楽しい。
殆どのリスボン市民が参加したのではと思うほどの人出で、交通が殆ど遮断され帰りはタクシーもつかまらず、相当な距離を歩かされ大変だった。

国立考古学博物館  ここはすばらしい。1〜4階まで広いスペースに中世の宗教画、アンティークの家具、陶器、ガラス器、銀器、宗教用の装飾品など大航海時代の富がいかばかりかを想像できる品々が数多く展示されている。日本や中国のものも多くあり、この美術館は一見の価値がある。この日はジェロニモ修道院もこの博物館も入場無料で、こんな素晴らしいものを無料で見せてくれるなんて本当に有難い。日本のけちくさい展示と高い料金の正倉院の展示とは大きな違いだ。日本も日本の価値あるものをもっと国民が身近に見られるように配慮すべきだし、日本人が日本に自信を持てるようにすべきだと思う。


グルベンキャン美術館  ちょっと郊外にあるグルベンキャン美術館に行ってみた。メトロを降りても何の表示もなく分かりずらいが、土地の人に聞くととても親切に教えてくれた。ミュージアムは古くはエジプトの物、そしてイスラムとの交易で得た織物、陶器、日本、中国の陶器や漆、絵付など、絵画は宗教画、19世紀の風景画、近代ではマネの絵があったが、ガイドブックに書かれていたような印象画は殆どなかった。多分入れ替えされたのだろう。
 美術館の周りは美しい公園になっている。リスボン西部には広大な公園が広がっているし、とにかく町を歩いているとすぐ公園に行き当たる。そして公園にはバルがあり、コーヒーやビールをのんびり飲んでいる人を多く見かける。

アズレージョ美術館  リスボンから電車とバスで国立アズレージョ美術館に行った。アズレージョはポルトガルのタイル画で、アラブから伝わった技法によりポルトガルに定着し、町のビルや家の壁面に描かれ、独特の雰囲気を町に醸し出してきたが、1998年の万博開催時に多くのアズレージョを施したビルが取り壊されてしまった。
今はその一部がアズレージョ美術館に保管されているが、それらを通じてかってのビル全面に描かれたアズレージョを偲ぶしかない。
 この美術館は以前教会であったのを美術館に転用しており、中には金ぴかの教会があり、祭壇の脇にもアズレージョが飾られていた。
 館内にはもうリスボンでは見られなくなったアズレージョがたくさん展示されているが、中には20世紀のモダンなものもある。
ただ一つ疑問なのは、アズレージョの柄はすばらしいが、どうして絵自体が全て稚拙なのだろう。絵画以上に後世に残る物なのに、プロの絵描きはアズレージョを描かなかったのだろうか。どう見ても素人が描いた物としか見えない。

リスボンの感想  物価も安く、気候も良く、治安は良いとは言えないが人も陽気で、とても暮らしやすい町だ。明るい太陽と爽やかな風、美しいレンガ色の屋根と白い壁の町、夕日に輝く町並み、オレンジ色の灯に包まれる夜の町。リスボンを思い出すと懐かしさがこみ上げる。まだ本格的な観光シーズンではないのに多くの観光客が町に溢れている。経済的にも落ちこんでいるリスボンにどうしてこれ程の観光客が来るのか不思議だが、どこを取っても絵になるこのリスボンの何とも言えない懐かしさに惹かれているのではと思う。

シントラ
リスボンの西方30キロにある世界遺産に指定されている地区で、山中に8世紀から14世紀にかけて建てられた王宮や城、美しい別荘が立ち並んでいる場所だ。ロシオ駅から電車で40分、駅から周遊バスで王宮、ペーナ宮殿、ムーア城を回った。
王宮は異様な形をした大きな煙突を持ち、山の上に建っていて、内部は博物館になっている。
 ペーナ宮殿はノイシュバンシュタイン城を作ったルードヴィヒ2世のいとこのフェルナンド2世が作ったそうで、やはり岩山の頂上にピンクと黄色の趣の異なる2つの建物からなっている。ピンクはおとぎの国のような城で、黄色は険しい要塞になっている。
 内部には多くの部屋があるが、1室1室は以外に小さく、部屋ごとに様々な様式を取り入れていて、アラブの間、インドの間、中国の間と続き、重厚な家具や装飾に囲まれているが全く私の趣味に合わない。何とも装飾過剰で不必要な物が多いことか。やはりルードヴィヒの血を引いているのかなと思ってしまった。
 ムーア城は険しい岩山に築かれた城跡で、ムーア人により築かれたが、きつい石段と城壁を登りやっとの思いで最高峰に登ると360度大西洋やリスボン近郊の町が見渡せる。眼下にはいくつかの小さな城があり、往時の社会や権力抗争を想像してしまう。

エヴォラ
 リスボンから東へ100キロ、バスターミナルからバスで1.5時間。道中はもうすっかり初夏でTシャツ1枚でも暑く、椿、木蓮、エニシダ、藤など様々な花が満開だ。牛達は幸せそうに草を食み、羊は丸々と毛を蓄えている。流れる風景を見るだけで幸せな気分になり、どうしてポルトガルに生まれてこなかったのだろうなんて思ってしまう。
経済が落ち込んでも大して気にせず、シエスタにワインやビールを飲んで楽しく語らい、結局ラテン系の人って得な性格なのかな、いいなーと羨ましく思ってしまう。
 エヴォラはローマ時代の城壁に囲まれた小さな町だが、中心にカテドラルやローマ遺跡のティアナ神殿、サンフランシスコ教会があり、民家はやはりオレンジ色の屋根、白い壁で何処をとっても絵になる。
 石畳の道をゆっくり歩いても2時間で回れてしまう。真っ青な空と心地よい風の中でカフェを飲んでいると全て満足、もう充分という気分になる。
いいな、いいなポルトガル。住んでみたいな。


マデイラ島
リスボンの空港からマデイラ島へ。マデイラ島はポルトガルとモロッコの中間の大西洋に浮かぶ亜熱帯性気候の島の一つで、東西57キロ、南北22キロの小さな島で、年中暖かく美しい花が咲き乱れ、ドイツや北欧の人たちが大勢やってくる。
日本では殆ど知られていないが、ヨーロッパでは随分有名らしくドイツからだけでも1日に何便もの直行便が飛んできているし、私が滞在した時にも豪華客船が4隻停泊していて、次の日には2隻が出港したが、すぐまた1隻が入港した。
 中心となる町はフンシャルで、街中はものすごい観光客で賑わっている。主にクルージング中の老年のカップルが多く、足元もおぼつかなく手を取り合ったり助け合ったりしながら観光している。人生の終盤を良い思い出にと暖かい所を巡るクルージングで過ごそう思ったのだろう。見ていて何とも微笑ましいが、あまりの混雑でげんなりしてしまう。
 町中はドイツ人、フランス人、北欧の人が殆どだが、中国人のツアーにも出会ったし、台湾人の個人旅行者にも出会った。しかし日本人にはついに一度も出会わなかった。

市場  町の中心にありマデイラ島に来れば必ず来るところらしく、多くの観光客が来ている。亜熱帯の果物、珍しい海産物、藤で編んだ籠、マデイラワインやチンチャなどが売られていて、北ヨーロッパの人たちは珍しそうに買い求めている。









カタリーナ公園  フィンシャルの西部にあるこの公園は、亜熱帯の花が咲き乱れ、3月はデイゴの花が盛りだった。町から徒歩でも行けるので、多くのお年寄りの観光客がやって来てそぞろ歩いており、海を見渡せる美しい公園だ。

トロピカルガーデン  ケーブルに乗りトロピカルガーデンに行った。島の中腹まで行くが、ケーブルから見下ろすだけでこの島が如何に観光開発されてきたかが手に取るように良くわかる。
以前はこの島は山の頂上近くまで段々畑が耕されており、山の斜面には小さな農家が点々と建っていたのが、観光開発により畑が別荘地となりおしゃれなレンガ色の屋根の別荘が至る所に建っている。あまりにも観光開発を進めると、この土地本来の魅力がなくなってしまう。ポルトガルはリスボンの世界万博以来リスボンの町並みやこの島のように観光開発により多くの観光資源を失っているように思う。
島の不動産物件もたった70uほどの土地と家が3000ユーロもする。かっては日本人が世界中の土地を買いあさって値を吊り上げたが、今はドイツ人だ。南アフリカでも彼らは値を吊り上げていた。
 トロピカルガーデンはすごく広い敷地に亜熱帯の植物が数多く植えられているが、植物だけでよいのに何故だか中国風の東屋や赤い橋、中国の人形、西洋風の館、おまけに朱色の鳥居まである。悪趣味極まりない。一体このオーナーはどんな人物なのかとあきれてしまった。暑さと山の上り下りと、園内の毒気に犯され辟易して半分ほど見て帰ってきた。

ツアーに参加  マデイラ島の東半分をミニバスで巡るツアーに参加した。イギリス人、カナダ人、ポルトガル人の夫婦と私。ガイドはだみ声の老人で、英語だが聞き取りにくい。
 9時発、サンタクルス−カマーチャ−ピコ デ アリエルト−リベイロ フリオ−サンタナ−カニサル−5時フンシャル着というコース。
この小さな島に数え切れない程のツアーバスが走り、各ポイントでは駐車するのも大変だった。10年前に来たと言うポルトガル人夫婦は、この10年間でこの島はすっかり変わってしまったと言っていた。
 この島は2つの顔を持っている。年中花が咲き誇る亜熱帯の明るい顔と、草木もなく夏も雪が残る険しい山岳地帯と、切り立った崖からなる海岸線だ。
島の中央部のピコ デ アリエルトは1800mを越す山で、頂上は気象観測のドームがあり周りは切り立った断崖で、温暖なフンシャルからは想像もつかない。気温も低く風が吹きすさぶ。
海岸線は2〜300mの垂直の断崖で、眼下は吸い込まれそうなコバルトブルーの海に白波が打ち寄せている。
 こんな島の内陸部まで古代から人が住み、今でもその頃の茅葺の三角屋根の小屋が家の庭先に残されていて使われている。彼らは斜面を利用して小さな畑を耕しているが、残っているのは殆ど老人だった。

マデイラ島の酒  マデイラワインというワインとウィスキーをミックスした酒がある。度数は強いが口当たりはさっぱりしている。
 ビールはローレルという地ビールがあるが、これもさっぱりした口当たりでサンミゲル系のビールだ。
 また、チンチャという蜂蜜とフルーツやハーブを加えた酒があるが、こってりとした甘い酒で度数はとても強く、テキーラ用のような小さなグラスで飲んだが、ほんの少しでほろ酔い機嫌になってしまった。

コインブラ
 オビドス、ナザレ、ポルトも巡ったが、観光地なので省略する。ナザレからバスで2.5時間。コインブラも2回目だがもう一度ゆっくり歩いて見たかった。コインブラは13世紀に出来た由緒ある大学都市で、モンデコ川に面した丘の上に建てられた町だ。やはり20年の間にこの町も経済発展し、郊外に高層マンションが建ち、雰囲気が違っていた。

コインブラ大学  大学は急な坂道を登っていかないと行けないので、今回はバスで大学の正門まで行った。偶然にもその日(3月31日)は大学の卒業式で、黒いマントを着た学生が記念撮影をしていた。1.2.3の掛け声で一斉にマントを放り投げる。女子学生がすごく元気だ。卒業式では大学の中でも最も格式のある講堂で学位記を受け取り、夜は全学生が町に繰り出しビッグパーティーをするのでそうで、この夜は学生たちが夜遅くまでバーを借り切って大騒ぎをしていた。
 以前来たときに学生がマントの裾を鋏でいくつも切っていたので、どうしてと聞くと、「1回恋をするたびにマントに一つ切れ目を入れるんだ。」と言ったので「あなたの学生生活は随分忙しかったのね。」と言ってやると、自慢そうに「シー」と言っていた。
 大学のチャペルと図書館を見学したが、両方ともこれでもかと言わんばかりの金ぴかで、この大学が当時は限られた特権階級のものだったことが明らかに分かる。
 各国からのツアーバスが次々とやって来る。チャペルと図書館を見て嵐のように去っていく。その間15分。なんと慌ただしいこと。
 以前も通った大学裏の下宿街を歩く。急な下り坂の石畳の両側に古びた築何年か分からないような下宿が多くあるが、ここもやはりあまり古いものは新しく立て替えられていた。新しい建物は趣きもないが、趣だけでは生活できないので仕方ない。
 大学の北側のエレベーターに乗り町に降りてみた。広い通りの中に公園があり、それを登りつめると広大な森林のある公園に出る。その少し先はローマ時代の水道橋、その先は植物園。小さい町だが美しさを凝縮したような町で、目的もなく坂をぶらりぶらりと上り下りして楽しむのが一番だ。

ブサコ
 コインブラからブサコへバスで行ったが、バス停を町の人に聞いても言うことがマチマチで、インフォメーションさえ正確に知らない。やっと見つけて行くことが出来たが、本数が少なくブサコでは4時間しか滞在することが出来なかった。
 コインブラから北へ30キロ、ポルトガルを代表する国立公園で,広大な森林に囲まれた中に嘗てはカルメン派の修道院であった建物が、今はポサーダとしてホテルになっている。どっしりとした重厚な石造りで、細部まで彫刻が施され、内部も高い天井でちょっと威圧感がある。ロビーの階段横にはナポレオンと戦ったときのアズレージョが壁一面に描かれている。
 時間に余裕がなかったので、付近を散歩しポサーダでお茶を飲んで帰った。
 今年は桜を見ることが出来ないなと思っていたら、ソメイヨシノはないものの八重桜は至る所で見られたし、桜そっくりのアーモンドの花とリンゴの花はフランスに行くまでずっと見続けられた。

レグア、ピニャオン
 ポルトからドウロ川を遡ってレグアとピニャオンに行った。この地方はポルトワインの原料のブドウの生産地として知られている。
 ポルトから1時間ほど列車で走ると、眼下にはドーロ川の流れが、見上げれば山の頂上までのブドウ畑が見渡せる。この風景が約2時間延々と続く。日当たりの良さと朝夕の寒暖の差がブドウにとって最高の条件で、沢山のおいしい
ブドウが収穫できるのだろう、さすがポルトと思ってしまう。
 ピニャンで降りる予定だったが、ドーロ川のクルーズは4月15日以降で、今は何もないというので仕方なくポシーニョという終点まで行った。ただピニャオンは美しいアズレージョで飾られた駅が多くある中で、ポルトガルで最も美しいと言われる駅の一つで、ここを見られなかった事は残念だった。
どこまで行っても天まで植えられたブドウ畑が続く。真っ青な空と田園風景を堪能できた一日だった。

ブラガ、ギラマンイス
 ブラガとギラマンイスはポルト北部の小さな町でブラガは宗教の町と言われている。旧市街は狭く、その中に教会や司教館など特徴のある建築がぎゅっと詰まっている。教会のデザインも時代や宗派によって実に様々で、デザインの品評をしながら歩くことになる。この国で美しい建物、目立つ建物となるとどうしても教会かせいぜい城になる。
 ギラマンイスへはポルトガルの田舎町を通りバスで行く。この町はかなり大きくスーパーやショピングセンターもあり、この国にしては珍しく平地の町だ。
 旧市街の城壁までの道は小さなベランダと可愛い窓を持つ特徴のある家並みが続き、一見スイスの山間部のようだ。その間にカテドラルや城砦のような建物が点在している。
 城壁の中は町中よりもっと小さな家が並んでいる。城壁の北のほうに行くと、広い公園の中にブラカンサ公爵館という今は迎賓館として使われている石造りの館や、こじんまりとした城、石で出来た本当に小さな教会がある。
 この町は風情もあり暮らしやすそうで気に入ったが、午後は気温がどんどん上がり、木陰のカフェでビールを飲むと生き返った。しかし、こんなに暑いのに冬のコートを着たままの人が各地で見られ、この国の人の体感温度はどうなっているのかと不思議だった。

ある日本人のポルトガル人評価
 ポルトで出会った日本人女性とポルトガル人について話をした。彼女はこの地に来て5年、ポルトガル語はぺらぺらで夫はポルトガル人。彼女にポルトガルとポルトガル人について率直な辛口意見を聞いてみた。
 今、ポルトガルは経済的に破綻寸前の状態だが、ここに至るまでの状況についてだ。
 まず、ポルトガル人はとても明るくおおらかだが、とてもいい加減な国民性。
この国では1998年に世界万博をし、その後EUに加盟したが、その頃から他のEUの国に追いつけ追い越せとばかりにインフラの整備や社会保障の充実に力を入れ、EUや国際金融機関から多額の融資を受けた。
その後国民は先進国なみに権利ばかりを主張するようになり、政府も国民の要求を受け入れ、「人権」と言えば全ての主張が通るような状況になってしまったそうだ。
しかしその反面の義務については全く関心がなく、この状態は経済が落ち込んだ現在でも続いている。
公務員は高給を取っているが、一般の人は月収5万円ほどしかないそうだ。失業率も高く、しかし一旦就職したら法律で手厚く保護され、よほどのことがない限りクビにはできない。だから一旦採用されるともうクビになる心配がないので、皆時間にもルーズになるし、真面目に働かなくなるそうだ。もしクビにすると企業はすごい額の違約金を支払わなくてはならず、契約期間が過ぎての解雇でも慰謝料が支給され、失業保険と慰謝料を繰り返していると何とか生活が出来るので働かない人が多いそうだ。
ポルトガル人は現在フランスなどに出稼ぎに行く以外は外国旅行などしないので、他の国と比較しようもなく井の中の蛙で、現状のままで良いと思っているらしい。
友人、親戚からの借金も全て「お金がないから」で済ませてしまう国なのだそうだから、EUや国際金融機関からの借金も同じような感覚で何とかなると安易に考えているようだ。
アルゼンチンやギリシャも同様。経済が落ち込んで年金や公務員給与や社会保障を減らそうとすると各地でデモが行われ権利を主張することしか知らない。
私は国内の移動に鉄道を多く使ったが、いつもデモがあるから予定通りに行けないかも知れないと何人かの人に言われていた。まあ運良く予定通りに行くことが出来たが、それ程頻繁にデモは行われているようだ。
毎日ケーキとコーヒーを何度もカフェで飲んで、食事は外食でワインかビールで長々と話し込み、有り金はたいて着飾り、それで人生が送れていけばこんな幸せなことはない。
もしこの国が地震や津波に襲われたら、この国は絶対自力で立ち上がることは出来ないだろう。産業もビジョンもなく借金を重ねながらのその日暮らしだ。最近ブラジルから経済援助の申し出があったそうだが、かつての植民地にされていた国として見るに見かねたのだろうか。
彼女は「今の日本は大変だけれど、この国に住んでいると日本が光り輝く国に見えるわ。真面目に税金を払うのが馬鹿らしくなる。」と言っていた。全くラテン系の人達の無責任さには旅するたびにあきれる。
「ただ旅をしたり、お金をたんまり持ってこの国で老後を過ごすのなら、こんないい国はない。気候はいいし、人間は明るくて穏やかだしね。」とも言っていた。
私が滞在したわずかな間にも、ソクラテスという名のイケメンの首相が公的資金の使い込みと身内の有利な登用で批判に曝されていたし、主だった銀行の格付けが2段階引き下げられたし、インフレは3.5%UPと大変な状態だったが、皆はのんびり、ゆったり。ほんの一部の人は上を目ざして頑張っているそうだが。これからどうなるのでしょうね。

ス ペ イ ン
サンチャゴ デ コンポステーラ
 ポルトガルのポルトから列車でスペインのサンチャゴ デ コンポステーラに向かう。国境のTUIという駅で乗り換え、ビーゴからサンチャゴに行った。
 サンチャゴ デ コンポステーラはスペインの北部にあり、エルサレム、ローマとのキリスト教の3大聖地で、聖ヤコブの墓がこの地で発見されて以来ヨーロッパから多くの巡礼者が訪れるようになった。
 巡礼者は杖に帆立貝の貝殻を付け、スペイン北部のピレネー山脈を越えて巡礼の道を辿りながらやって来る。全てを徒歩で歩き通す人もいるが、最近は一部を歩いたり、自転車やバスを利用する人も多いようだし、殆どレジャー感覚で来る人も多いようだ。私は全くの無信心者なので、最も安易な方法でやって来た。
 サンチャゴの町は結構大きく、世界遺産にも指定され、多くの巡礼者や観光客が来るのに駅にはエレベーターもエスカレーターもなく、ロッカーすらない。当初は夜行列車でマドリッドに行く予定だったが、荷物を持って移動できないので仕方なく1泊することにした。
 早速カテドラルへと向かう。荘厳極まりなく威厳をたたえ聳え立っている。一部時計塔は修復工事中で見栄えは悪かったが、今回の旅の中ではジェロニモ修道院に次ぐ規模だ。内部は聖ヤコブを讃え、祭壇には金ぴかの聖ヤコブが置かれている。祭壇の地下には聖ヤコブの遺体が収められた銀製の棺が置かれていたが、随分小さくこんなに小柄な人だったのかしら、本物かどうか疑わしい。
 聖ヤコブの像の裏側に行くことが出来、皆ヤコブのマントの部分に口付けしている。私はこれまで宗教的な施設に入っても自分が無宗教なので一切祈ったりはしなかったが、今回ばかりは思わず「どうぞ日本を救ってください。」と祈ってしまった。
 カテドラル前の広場には、巡礼を終えた人が疲れた体を休め、カテドラルを見上げ感激に浸って去りがたい様子だった。
 近くの緑いっぱいのアラメダ公園からはカテドラルや周辺の修道院の全景が見られる。
 町中では赤い十字が書かれた貝の杖やカテドラルグッズが多く売られ、名物のアーモンドクッキーやチョコレートワインもおいしかった。
 物価は6年前にスペインに来たときより下がったような気がする。思っていたほど高くなくて安心した。
 スペインにはマドリッドを中心に4月6日から16日までの10日間の滞在だったが、その間寒暖の差が激しく昼間は30度を越す日もあるかと思えば、まるで冬に逆戻りしたような日もあり、日本では考えられないような激しい気候の変化だった。
 しかしカスティリアを横切っていく道中には八重桜、木蓮、石楠花、藤、マロニエなど百花繚乱、スペインの春を堪能できた。

マドリッド へ
 サンチャゴからマドリッドまでバスで移動したが、早朝8時のバスに乗るためにバスターミナルに行くと、8時のバスは随分前からなくなってると言う。
前日インフォメーションで確認したのに。ああ、またスペインのインフォメーションはやってくれました。以前スペイン南部を旅した時に、どれほどインフォメーションのいい加減な情報に振り回されたことか。スペインに一歩足を踏み入れた途端にまたインフォメーションのいい加減な情報に振り回されるのかと憂鬱になる。
次のバスは9時45分だと言う。仕方ないのでターミナルをぶらぶらしていると、窓口に「ALSAカードで40%オフ。」と書かれている。窓口の女性にこれは何?と聞くと「ALSA社のバスのこのカードを持っていると運賃が40%オフになる」と言う。私でも発行してもらえるのかと聞くとOKよと言って、その場で申し込み用紙に記入までしてくれて発行してくれた。
これはその後大いに役立ち、交通費は随分節約できた。ちなみにポルトガルではシニアは40%オフだし、フランスでもTGVが20%オフだった。
 マドリッドまで休憩時間を入れ11時間。サンチャゴから逆コースの巡礼をした気分になるくらい長時間に感じた。隣のおじさんは巡礼帰りだが、音楽を聴きながら体でリズムを取り、片時も退屈そうではない。同乗した他の客も私がスペイン語が分からないのに気を使ってくれ、何かと英語に訳して親切にしてくれる。
 サンチャゴを出て5時間ほどしてカスティリア地方に入ると、一変して視界が開け、広大な平野が延々と続く。360度地平線のかなたまでの平原が時速80キロで4時間にわたり続いた。前半の2時間ほどはまだ手付かずの荒野が続くが、マドリッドに近づくに従って牧草地、小麦畑、ブドウ畑と緑が多くなり、牛や馬も飼われている。
 この広大な平原を見ていると、この国の食料自給率は90%もあり、恵まれた気候で何て幸せな人たちだろうと思ってしまう。エネルギーも太陽光発電と風力発電でかなり賄っているようだ。平原のあちこちで太陽光パネルと風車が見られる。
 なのにどうして経済的困窮に陥ってしまったのだろう。地道な暮らしをしていれば生活に困ることはなさそうに思うのだが。
 日本人は真面目に働いても一向に生活は向上せず、彼らは何とか働かずに楽をしようとする。どちらもおかしい。

マドリッド
 マドリッドではやはり地の利の良いマヨール広場の近くに宿を取った。そしてその日の内にマヨール広場のインフォメーションに行き情報を求めた。これまでの経緯からあまり期待していなかったが、なんとここの情報は非常に正確だった。
後日このインフォメーションに再度行くと、日本語が出来るスタッフまでいた。しかも複数人いるそうだ。そして「あなた方の情報はとても正確だったが他の地方のインフォメーションが余りにもひどいので、指導をして欲しい」と言ってみたが、スペインのインフォメーションは観光省のような所が一括しているのではなく、それぞれの地区が独立しているので、指導は出来ないということだった。それにしてもマドリッドは完璧で、他の地方はあまりにもひどい。
マドリッドは30年ぶりだが、殆どの観光地は以前見ているのでざっと回ればいいと思っていたが、年月がたつと記憶もうすれ何だか初めてみるような気持ちになる所も多かった。
サン イシドロ教会、王宮、プラド美術館などまわったが、プラド美術館にいたっては「裸のマハ」と「着衣のマハ」の記憶しかなく、再度見直しと言う感じだった。
前回はツアーで来たので本当に有名な所を駆け足でまわるだけだったが、今回はその他の有名な美術館や博物館にも行くことが出来た。

テッセン・ボルネミッサ美術館
 プラド美術館の近くにあり、外観は愛想のない建物だが、中身はなかなか充実していて、2階は主に宗教画、1階は印象派の展示室になっている。名の知れた印象派画家のものは殆ど揃っており、あまり有名でない画家の絵もそれぞれが如何に試行錯誤しながら自身の画風を追求していったかが良くわかる。特にゴーギャンの絵の転変は非常に面白かった。
 地上階はアメリカの画家や抽象画が主で、ピカソ、モンドリアン、カンディンスキーの絵も展示されていた。
 日本ではあまり馴染みのない美術館だが、ここは行く価値があった。

王立植物園
 やはりプラド美術館のすぐ近くに王立植物園がある。ここはシニア無料。
広大な園内には各国から集められた草木が植えられ、始めてみる植物も多かった。外国に行くたびに新しい植物に出会うが、一体世界には何万種類の植物があるのだろうと思う。
 植物園は町なかにあり、多くの中高年の人々が木陰でくつろぎ、市民の憩いの場になっている。

ソフィア王妃芸術センター
 国鉄のアトーチャ駅の向かいにあり、ここにはピカソ、ダリなどスペインの画家の絵が多く集められているが、何と言っても圧巻はピカソの「ゲルニカ」だ。しかし、個人的には私はこの絵を画集や写真で何度も見ているが、何回見ても理解できない。豚に真珠か。

マドリッドの町
 以前スペイン南部を旅したときに、スペイン人のいい加減さにうんざりし、また世界一犯罪の多さに気が抜けない毎日を過ごしたことで、今回のスペイン旅行もかなり緊張していた。しかし、マドリッドに着いてからは警察官が町のいたるところを巡回していて、それ程危険を感じることはなかった。マドリッドの町は交通網もかなり便利で明るい楽しい町という印象だ。
 夕方のマドリッドはもう町中が人、人、人。マドリッド中の人が出歩いているのではと思うほど町なか、公園などをただおしゃべりしながら歩いている。繁華街のグランビアなどは歩くのも困難なほどだ。
面白いのは若い人たちはラフな格好で散歩しているが、中年以降の人たちは皆キチンと正装して歩く。男性は上着を着て、革靴を履き、ネクタイを締める。女性はスーツを着て、お化粧をし、アクセサリーもきちんと付けている。毎日これを繰り返すなんて大変だろうと思うのだが、これもお年よりにとっては一種のボケ防止なのかとも思った。皆手を取り合い助け合って歩いている。
取りとめもない話をしているのだろうが、人間関係が密なのが分かりうらやましい。これは日本人が昔行っていた銭湯の雰囲気に似ていると思った。

サラマンカ
 サラマンカは中世から開けた町で、スペイン最古の大学がある。
 マドリッドの南バスターミナルから3.5時間。大平原を通って行く。ここは素晴らしかった。昔の話とはいえ、大航海時代のスペインはやはりすごい。このすごい建築物に囲まれて毎日過ごしていると、スペイン人がスペインNo1と思ってしまうのも分かる気がする。
 旧市街の狭い地区にゴシック様式の建築物がいっぱいあるので、写真を撮ろうにも後ろにさがるスペースもなく、建物全体を写すことが出来ない。
 町の中心はマヨール広場で、スペインはどこに行っても町の中心はマヨール広場と言う。その広場を中心に新旧のカテドラルとサラマンカ大学がある。
カテドラルのファサードはビッシリの装飾で、模様はイスラム文化の影響が見られる。中の大理石の柱の太さと天井の高さにも驚かされる。天井のフレスコ画、巨大なパイプオルガン、全てに“超”がつく。
 マヨール広場ではたくさんの学生が石畳の上に直に座り込み、おしゃべりを楽しんでいる。

アビラ
 マドリッドからアビラへバスで、約2時間。旧市街の入り口に立派な城門がある。アビラは城壁に囲まれた町で、見所はやはりカテドラルで聖堂内には見るべき物がたくさんあるとガイドブックに書かれていたが、行ってみると目下修復中で殆どがビニールシートで覆われ、祭壇すら見られない。
 この町はサンタ・テレサが「裸のカルメン会」を作ったところで、一生を清貧に過ごした彼女の十字架が祭壇に祭られているのだそうだ。
 修復が終わったら一見の価値のあるところなのだろう。カスティリアの大平原の小高い丘に築かれた城壁の小さな町だ。

セゴビア
 アビラからセゴビアまでバスで1時間。バス停からしばらく歩くと巨大な水道橋が見えてくる。その先の高い石段を登ると旧市街で、この町は絶壁のような地形に城壁で囲まれて出来ている。町に入るとすぐに立派なサン マルティン教会があり、最初これがカテドラルかと思ってしまったほどだ。
 カテドラルは見事に素晴らしい。「カテドラルの貴婦人」なんて呼ばれているそうだが納得できる。規模もセビーリアのカテドラルに匹敵する大きさだ。
 その先を歩いていくと公園があり、その前方にアル・カサルがある。まさに絶壁の先端の岩場に建てられた要塞のような建物だが、歴代のスペイン国王やハプスブルク家の人たちが住み、イザベラ女王の即位式やフェリペ二世の結婚式などにも使われた由緒ある城だ。城の窓からはカスティリアの平原が遠くまで見張らせる。
 またバス停近くにはサン・ミリャン教会があり、こじんまりと可愛い教会だが、12世紀に建てられたロマネスク様式の回廊が美しい。

トレド
 トレドも30年前に来ているが、記憶ははなはだ不鮮明になっている。
 マドリッドからバスで45分。以前はマドリッドからトレドまではただ広い平原に道路が1本通っているのみだったが、今は所々に工業団地ができ、それに伴って新興住宅地もでき、時の変化を感じた。
 トレドもやはり断崖のような山の上にできた町で、城壁にしっかり囲まれて見るからに堅固だ。カテドラルはスペインカトリックの総本山というだけあってさすがに巨大で、巨大すぎてどうアングルを変えてもカメラに収まらない。
祭壇も当然金ぴかで2千tの金が使われているそうで、その一部はコロンブスが南米から略奪してきた金だそうだ。祭壇は檻に囲まれて一歩たりとも近づけないようになっている。カメラもすべてダメ。
カテドラルも他の教会も装飾の至るところにイスラムの影響を受けたムデハル様式が見られる。
カテドラル内の美術館にはエル・グレコを初めとしてティティアーノ、ラファエル、カラヴァッジョ、ヴァン・ダイクの絵が掲げられ、中でもグレコの絵は18点もあった。他の画家と交じってもグレコの絵は一段と目立つ。あの時代としては荒々しい筆使いだが、グレコの描いた人物画ははっきりと自己主張している。今まで宗教画は全くと言ってよいほど興味がなかったが、グレコだけは一目置くことにした。
 この町では以前はカトリックとユダヤ教が共存していたので、町にはシナゴークが10箇所あったそうだが、今では1箇所のみとなっていてユダヤ教の博物館になっている。中ではユダヤ人の祭や教育、生活習慣などについてのビデオが流されていて、興味深かった。

チンチョン
 マドリッドからバスで1時間、チンチョンという小さな町に行ってみた。途中はオリーブ畑が多く、黄や紫の花に混じって真っ赤なアマポーラがあちこちで咲いている。
 バス停から坂道を下るとマヨール広場があり、丸い広場を囲んで3階建てのテラス付きの西部劇に出てきそうなカフェやレストランが取り囲んでいる。
時にはこの広場で闘牛も行われるそうだ。
広場を囲んですり鉢状に家が建ち、広場を見下ろす教会からは町全体が見わたせ、遠く平原の中の城砦も見られる。
小さな町なので外国人の観光客はいなく、静かでスズメの鳴き声だけが響く。また教会や鐘楼では鳩のために岩をくりぬき鳩小屋を作っていて、たくさんの鳩が飛んでいる。なんとものどかなちょっと珍しい町だった。

ビルバオ
 スペイン北部にあるバスクの本拠地の町で、バスクの独立運動については大して詳しくはないのだが、ついでにちょっと行ってみたかった。
バスで5時間。若いスペイン女性の隣に座った。何気なく彼女の膝の上を見ると、村上春樹の「ノールウェの森」が置かれている。おやっと思って話しかけると彼女はバスク出身で、休暇で帰るところだと言う。ビルバオまでの道中ずっと彼女といろいろ話しながら行ったが、彼女は他に深沢七郎の「楢山節考」や三島由紀夫の小説も読んでいて、日本についてとても興味を持っていた。別に日本文学を専攻しているわけでもないそうだが、普通のスペイン人でこんな人には始めて出会った。
 ビルバオに着くと週末なのかホテルがどこもフルで、なかなか見つからなくて苦労した。この町は観光客があまり訪れないせいか、ホテルが少ない。
 メトロでグッゲンハイムの美術館に行ったが、ニューヨークで見た通りの超モダンな建物で、全く好きになれない。中にも入らず素通りしビスカヤ橋を見にメトロに20分ほど乗る。ここは世界遺産になっていて、橋は対岸との間に空中高く作られ、その下をフェリーのように人と車を載せたゴンドラが行き来する。往復乗ってみたが、片道2分ほどであっという間に対岸に着いてしまう。でもこれはここの住人にとっては貴重な足なのだろう。
 ウロウロしていたらバスク博物館に行く時間がなくなってしまって、バスクについての知識を得ようと思っていたのに残念だった。この町にいきなりやって来てバスクの雰囲気を味わおうとしても無理な話ねと思っていたら、たまたま入ったバルのカウンターの後ろに
「Tourist, Remember You are not in Spain. You are in Bask Country.」
と書かれてあったのが印象的だった。
 次の日の早朝、バスクの町を歩いてみると3箇所の民家の軒先に、バスクの旗が掲げられていた。また町の商店ではバスクのベレー帽が売られていたが、町でベレー帽をかぶった人に出会うことはなかった。
 バスクの独立運動もスペインがEUに加盟したことで半ば独立の意味がなくなってしまった感があるが、5月の総選挙に向けて新政党「ソルトウ」が立ち上がり、テロ糾弾を宣誓することにより独立を求めて行くという方針で、バスク州では期待されているようだ。一方カタルーニャでもやはり独立運動は続いているようだ。
 しかしバスクの人の多くが独立を求めているかと言うとそうでもないようで、泊まったホテルの主人に「バスクの独立についてどう思う?」と聞くと、「今スペインは経済が大変な状態になってしまっているので、独立問題どうこうを言っている場合じゃない。」と言っていた。
 一部の人は独立を目指して頑張っているのだろうが、独立しても経済的に成り立っていかなければやがて行き詰ってしまうのは目に見えていて、感情論だけで行動しても仕方ないのにと思う。

フ ラ ン ス へ
 フランスと言っても今回はパリを中心に近郊の町を巡るというプランだ。
 ビルバオからフランスの国境を越え、TGVでパリのモンパルナスへ。TGVの始発駅なのにEVもエスカレーターもない。重い荷物を引っ張り挙げるのに一苦労だった。TGVには興味を持っていたが、ひどくがっかりした。20分遅れの出発で、車両は何とも古く汚い。日本ではとっくに引退しているような車両で、あちこち傷だらけだ。
 インドネシアのグループと乗り合わせ、彼らはジャカルタからの観光だそうで、インドネシア中流の人たちだ。インドネシアが豊かになってきたんだなと思えた。そしてインド人も乗っていて、彼は車内でフランス語の勉強をABCから始めていて、周りの見も知らぬフランス人に片っ端から発音や意味を聞いている。何てたくましい。日本人には絶対に出来ないことだと思うし、こうして彼らは世界のどこにでも住み着いていくのだろう。
 スペインもフランスもとにかく平地が広い。フランスの食料自給率は120%で、自国の国民が飢えに曝されることは殆どなく、これはフランスが対外的にも強気の発言が出来る根拠になっていると思った。
 農業1軒当たり400~500fの農地を持ち、農民は全国民の3%しかいないと言うのも驚きだ。日本がいかに小規模な農業経営をしているかがわかる。しかし、恵まれているように見えるフランスでも農業の後継者問題や、過疎化問題もあり、国からかなりの援助を受けているそうだ。
 フランス人の平均寿命は、男女とも日本より3歳ほど短いが、世界的に見ればかなり長寿だ。肉食が多いにも関わらず長寿なのは、赤ワインやオリーブオイルを多く取る食生活が血管系に良いことや、マイペースの生活や話好きでストレスを溜めない生活が影響していると思う。

パリ
 パリではリヨン駅近くの便利なホテルに11泊した。そしてここを足場にして日帰りできるパリ近郊の町を訪ね歩いた。20年ぶりのパリだが、何も変わっていないように見えるが、やはり少しは変わっている。でも基本的には変わらない町だ。
 全て自分の足で歩きたかったが、フォンテンブローとバルビゾン、モン サンミッシェルは交通の便がかなり不便なので、ツアーに入ることにした。
 フランスも今年は春が半月早くやって来たそうで、行く所行く所花満開で、今年ほど春の花を満喫した年はなかった。
 パリでも観光客が行くところは再度行ってきたが、ここでは省略する。
かつて大好きだったカルチェ ラタンやサン ジェルマン デ プレはかなり変わってしまい昔の下町風な面影は殆ど残っていなかったのがとても残念だった。また復活祭の時期でもありモンマルトルもものすごい人出で、静かなパリしか知らない私にとっては信じられなかった。
ただリヨン駅の近くに、以前鉄道が通っていた高架を利用して、上部の線路の部分を緑いっぱいの散歩道に、高架下のアーチの部分をおしゃれなアートな店舗に改造していて、市民が散歩やジョギングをして楽しんでいる。これはすごいグッドアイディアだと思った。
 その店舗の中に手織りの布を売っている店があり、中に入ってみると本当にすてきな布がいっぱいあり見とれていると、「地下にもあるから見ていいよ」と言ってくれたので地下に行くと、それはそれは素晴らしい。長時間見とれているとオーナーがやって来て「すばらしいだろう。」と言う。「本当にステキだ。2年前にニューヨークで見た布よりずっとステキだ。」と言うと奥から「これは去年シャネルのショーに使われた布だよ。」と言って見せてくれた生地は素晴らしいと言う以外の言葉がない。手織りでなければ絶対に作れない特殊な技法で、ああ、やはりショーやオートクチュールではこんな生地が使われるのかと改めてフランスのファッション界への敬意を深めた。 
店では次のショーのためのサンプル作りに店員さんたちは忙しく立ち働いていたが、一介の日本人のおばさんにも気軽に声をかけ、商品の説明をしてくれるオーナーの気安さにも感動した。
 ただ一般のフランス人の服装は、日本よりむしろ質素な感じで、特におしゃれと言う印象は受けなかった。これは日本人のセンスが随分良くなったからなのかもしれないし、フランスが経済的に発展していないせいかもしれない。以前来たときはフランス人のイキなおしゃれに感動したものだが。

バルビゾン
 ツアーバスに乗りフォンテンブローとバルビゾンに行ってきた。
 バルビゾンはミレーが住みつき生涯を終えた町として有名だが、ミレーが住んでいた頃は殆ど人家もなく、貧しい農家と小さな旅籠があっただけだったそうだが、ミレーの絵が認められて以降、静かな環境が見直され今やパリの人たちの憧れの別荘地になっているそうだ。不動産屋のチラシでは500~1000uの土地と家で5000万円前後が一番多い。田舎生活を楽しみながら家を手直ししてある程度の間住み、転売する人が多いそうだ。
 パリ市民のあこがれの第1位はセカンドハウスを持つことで、パリから2時間以内が人気で、大体10万〜15万ユーロくらいのところだそうだが、修復や清掃の管理が結構大変で、持っている人は日曜大工が趣味と言う人が多いそうだ。
 小さな村だが石畳の道を歩いていると、聞こえてくるのは小鳥の声だけ。
花が咲き競いまるで桃源郷のような村だった。
 ミレーは晩年有名になり豊かになったが、当初のたった3部屋の小さな家で一生を終えたそうだ。

フォンテンブロー
 フォンテンブローはバルビゾンを含むパリ市の4倍の面積を持つ国有林で、年間1200万人もの人が訪れ、狩猟やハイキングを楽しんでいるとてつもなく広い森だが、市民は気軽にやって来て四季折々の自然を楽しんでいるのだろう。都市近郊にこれ程広大な森を保持しているフランスは尊敬に値する。
 その森の中にあるルイ王朝の狩猟用の城の内部を見学した。狩猟用といっても広大な庭を持つ豪華極まりない城で、ナポレオン1世がこよなく愛した城だそうだ。アンリ4世からルイ16世までが住み、フランス革命の時もパリから遠かったため破壊されなく残ったので、当時の装飾や家具が無傷で保管ふされ今はフランスの貴重な財産となっている。

モン サン ミッシェル
フランス北部のモン サン ミッシェルに足を伸ばしてみた。パリ滞在中はちょうどイースターの真っ只中で何処へ行っても観光客が多かったが、ここも人、人、人。島の入り口を入ってからはもうまともに歩けないほどで、何処の国も観光地は同じだと思った。
 フランス北部のノルマンディーは中世にバイキングが定着し、今では競走馬の産地として有名だが、モン サン ミッシェルはこれまで様々な歴史を辿っている。
最初は708年に聖ミカエルが作らせたものとかで、今の修道院はノルマンディー王が14世紀に作らせ、その後ベネディクト派の修道院に、また一時は牢獄になっていたが1864年にフランスの重要歴史的文化財となったのを機に修復作業が続けられ、現在はエルサレム友好会の修道院となっている。
 現在12名の男女の修道士が生活しており、私が行った時ちょうどミサの最中で、一般の信者も祈りを捧げていて、ミサの後は非常に友好的に観光客の質問に気軽に答えていた。
 1974年に世界遺産となり現在年間350万人が訪れている。ここも巡礼地として有名で、世界各地から多くの巡礼者がやって来るし、フランスの子供達は学校の遠足などで必ず1度か2度は来ているそうだ。
 周辺は細かい粘土質の砂に覆われ、潮が満ちても今は地面が残り島とは言いがたい状態で、今後10年計画で周辺を海に戻す工事が行われていて、将来は陸地と海をモノレールで繋ぐようにするそうだ。
 修道院の内部は壁や床は全て花崗岩、天井は木で何の彩色もなく、教会の内部もどこにも一滴の金も使われていない。ただ一箇所の金は修道院の頂上に立つ聖ミカエルだけだ。

シャルトル
シャルトルは当初の予定になかったが、パリがあまりの人出で逃げ出すことにした。モンパルナスから列車で1時間。イースター休暇で地方に行く人で駅も大混雑でまるで民族大移動だ。
 フランス人の休暇は年間5週間を義務付けされていて、休暇を消化しないと雇用者側と労働者側双方が罰せられる。1週間の労働時間は35時間。これはかなり厳しく守られていて、サルコジ大統領がもっと労働時間を延長して経済発展をさせようと提案したが、国民はゆったりとした日常を確保する方を選択した。彼らは週末はゆっくりと家族や友人との時間を過ごす。
私たちはフランス人といえば海外などに行って優雅にたっぷりな休暇を楽しんでいるように思うが、それはやはり裕福な一部の人で、一般の人は田舎の民宿のような所でゆっくり過ごす人が大半なのだそうだ。
 彼らの楽しみは、ピクニック、ハイキング、森歩きなどで、とにかくお金を使わず楽しむことが上手いようだ。それも平均的給与は日本より安いからだ。
シャルトルが近づいてくると、ノートルダム大聖堂の2つの塔がはるかかなたから見られる。町は菜の花や小麦畑に囲まれ本当にのどかだ。
 フランスやスペインを旅していると、菜の花畑がとても目に付く。至るところにまっ黄な菜の花が咲いている。こちらでも菜種油を使うのかと思いきや、ガソリンの代替エネルギーとして使うのだそうで、昨年より菜の花畑は1.5倍の面積になったそうだ。
 大聖堂はこの町の規模からしては格段に大きく、やはり古くから巡礼者がやってきていたそうだ。内部は青と赤が一際美しいたくさんのステンドグラスがあるが、教会正面と祭壇は修復中で見ることはできなかった。
 教会を取り巻く町は中世さながらで、川幅5mほどのタール川に沿って美しい建物が並ぶ。まるで時が止まったかのような静けさで、パリの雑踏など想像もつかないほどだ。
 この町もパリから1時間と地の利もよく、多くの人が別荘地として買い求めているそうだ。町の中心はスーパーやレストランが並び、生活はしやすそうだった。

ジヴェルニー
モネが半生を送ったジヴェルニーに行ってきた。サン ラザール駅からインターシティでヴェルノンまで行き、バスに乗り換えジヴェルニーに行く。観光客が多くてチケットを買うのも大変だった。
 広大な敷地、3000uはありそうな庭にありとあらゆる花が植えられ咲き競っているが、生前モネが手入れをしていた花園をそのまま活かしているそうだ。
 別の敷地にWater Lily Gardenがあり、庭にセーヌ川の流れを取り込んで様々な木を植え、緑色のタイコ橋を2箇所つくっている。
しかしモネの庭には無くてはないはずの睡蓮の花は全く咲いておらず、睡蓮自体が殆どなくなり池の水は汚く濁って淀んでいた。睡蓮の無いモネの庭なんてと信じられない思いがした。
 柳の木はモネが描いたときよりずっと成長し、20m近くの高さになり、時の流れを感じさせた。
 家は黄色で日当たりが良く、インテリアの細部までモネの好みが反映されており、どの部屋にも浮世絵が壁一面にびっしり飾られたいたのには驚いた。よほど気に入っていたのだろうが、多くの浮世絵は色が退色しモノクロに近いものになっていた。

オーベル シュル オワーズ
 ゴッホの最期の地となった村に行った。北駅からイル ド フランスの土日だけ出る臨時列車に乗った。
 小さな村で、ゴッホが死んだ家や絵の舞台となった周囲の風景を眺めながら村を歩く。それぞれの絵の舞台は殆ど当時のまま保たれ、それが村の財産になっている。
歩いてもあっという間に見終わってしまうが、殆どのミュージアムが午前中は団体客に当て、午後2時からしか一般客には開けないので、皆村のレストランで昼食をとることになるが料金はとても高く、ゴッホの死んだ家のレストランでは60ユーロもする。またゴッホ関係のミュージアムを全て回ると30ユーロもするので、受付の女性に「高いのね」と言うと「私もそう思う。この感想ノートにその旨を書いて。」と言われた。フランスはどこの美術館・博物館も全てが値上げされている。あまり値上げすると結局入館者が減り総収入としては減少するのではないかと思うのだが。
 ゴッホの墓に行ったが、村の共同墓地の一番奥の端っこに、弟のテオと並んで葬られていた。墓の敷地には墓石もなくただ蔦が植えられているだけ。

プロヴァン
 プロヴァンはきっと素晴らしい町のような気がして、最後に行こうと取って置きの町だった。想像通りの素晴らしさ。町は西半分がアッパータウンで高台になっていて、東半分はダウンタウンで平地になっているが、両方とも全てがどっぷり中世のままの町並みが残っている。
 11〜13世紀に栄えた木組みむき出しの柱に土の家や、石つくりの家、木の屋根瓦の家など年代を感じさせる。どの通りを通っても中世がそのまま残った町並みが続く。
これ程手付かずで残るのも珍しいが、中世は交通の要所として栄えたそうだ。しかしその後徐々に衰退し経済的にも改築できないまま残ってしまったのが幸いしたものと思われる。ヨーロッパ中でもここまで中世のまま残った町は珍しいそうで世界遺産にもなっている。
 アッパータウンのセザール塔に登ると、町全体とはるかかなたの牧草地、小麦畑、菜の花畑が見渡せるし、すぐ近くのドーム状の屋根を持つカテドラルも間近にみられる。
 この町は観光客も少なく、落ち着いて散策を楽しむことができ今回の旅で一番気に入った町となった。

            

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