南米の旅 −個人旅行奮戦記U−

(アルゼンチン・チリ・ペル−・おまけのブラジル・ウルグアイ)
―イグアスの滝・パタゴニア・ぐるり“ペル-”周遊の旅―

奥田 知巳・詳子

            
          ペル−編

行程
   ブエノスアイレス⇒リマ→クスコ→マチュピチュ→クスコ→プ−ノ→アレキパ→ナスカ→リマ
      ⇒マイアミ・シカゴ経由成田空港へ

日程   H21年3月5日〜3月23日(2月18日~3月4日:アルゼンチン)

1.ブエノス(8:00発)からリマ経由クスコへ
 朝6:00、タクシ−にてエセイサ国際空港へ。6:30分空港着後、ラン航空チェック・イン。
Tax18ドル支払い、出国カ−ド記入。
6:45〜、出国手続き後、チケットに記載されている“ゲ−ト10”に急ぐ。
しかし、“ゲ−ト10”はなんと8:15分発のサンチャゴ行き。出発案内の表示を見ると、リマ行きは“ゲ−トA”又、飛行機まではバスで移動。席に着いたのは7:45分。本当に何時もぎりぎりだ。
ブエノスアイレスでは、出発時間やゲートの変更は日常茶飯らしい。空港で、出国手続き後は、先ず、ゲ−トまで行き、“確認”をするのが鉄則だ。
リマ(4:45分の飛行時間・ブエノスと3時間の時差あり)着後、2時間の乗り継ぎ時間あり。入国審査を受ける。ここの入国手続きは簡単に済み、定刻発でクスコへ向かう。
         
ブエノスアイレスからリマへ ブエノスアイレスの飛行場

クスコ13:00、ほぼ定刻に着
 空港に、ホスタルから出迎えがあると言う。予約時に到着時間は伝えていたが、その後、この便も発着時間の変更があった。最終的にリコンファ−ム後にメールしたので、出迎えがあるか不安だった。
 荷物受け取りに、ターンテ−ブル前に行くと、突然首に名札をつけた出迎え?の人が、変なアクセントで「オクラ?」と聞いてくる。そして、「ホスタルの人?」と、確認するのも無視し、勝手に私達の荷物を積んで出口へ行ってしまう。(その間数秒で行ける距離なのだが…)
出口に行くと、“OKUDA”と大きな看板を掲げて、ニコニコ出迎えてくれる若者がいる。彼は愛想よく、握手するや否や、車を取りに走って行った。
(…すると、今私達の横にいる、名札をつけた背広姿の人は一体誰?親切な空港職員?)と、訝しく思っていると、突然「チップをどうぞ」と、上手な日本語で請求してくる。                   
(たったあれだけの距離を、勝手に運んで…)“チップ”要求とは驚いた。どうやら、空港内に入れない出迎えの人の代行業務?らしい。ここでは、一つの仕事もシェアしているようだ。
“クスコ”は標高3399m、高山病の心配もあり、前日より薬を服用し予防に備えた。高山病の心配はなさそう。クスコ1泊後マチュピチュ(標高2000m)に行く予定。
 ホステル到着後(PM2:00) @翌日のマチュピチュ行きのチケット購入 A発着駅の確認 B5日後のプ−ノ行きバスのチケット手配を段取りしていた。しかし、B以外は全て失敗。
 ホステルから、列車が発着するサン・ペトロ駅へは徒歩10分、切符を購入する“ワンチャック駅”へは15分、更に10分歩くとプ−ノ行きのバスチケット売り場があると言うのに…。
 街の地形は結構ややこしい。迷路のような石畳の坂道は、地図に表すにも難しい?地図を示し地元の人に尋ねても要領を得ない。線路はあるのに、駅が見つからない。多分、旅行者専用の列車だからだろう。駅に着いた時は、窓口が閉まる寸前。切符は結局買うことが出来なかった。
 クスコ発の列車は、早朝6:05分、6:50分の2本しかない。日本でインタ−ネット予約済みの筈なのに出来ていないと言う。(明日のマチュピチュの宿は予約済み…)、本当に落ち込んでしまった。
 ホテルに帰り、フロントで「明日5時に駅に行き、当日販売のチケットを購入、6時50分の列車に乗りたい。」と相談した。すると、「チケット購入は無理…、」“オリャタイタンポ”迄バスで行き、列車に乗れと言う。そこからは列車の本数も多いと聞き、ひと安心。

クスコで出迎えを クスコの街並み
アマルホテルから クスコの街を 色彩豊かなホテル

2.クスコからマチュピチュへ 114kmの旅
 今朝のホテルの食事は、コンチネンタル風朝食。ウエイトレスさんが、コ−ヒやサラダ、卵料理の希望も聞いてくれる。(本来は、4:30分頃チェックアウトの為、食事も出来ない筈だった。)昨日のチケット購入失敗による落ち込みから一転し、とてもハッピな朝になった。
7:45分 ホテル、チェックアウトしタクシ-(130円)でバス停へ
タクシ−を降りると、切符購入する間もなく、満員の乗合バスに乗れと急かされる。(バスは15分毎にあり。所要1時間、100円、ウルバンバンで乗り換え必要)
 バスはクスコの町並みを上り、ひと山,ふた山と越え進んで行く。地元の人たちの喧びすしい会話を聞きながら車窓風景を楽しむ。(ウルバンバンはクスコの人達の保養地。果物・野菜も豊富、素敵な村らしい。急がない旅なのでゆっくり…)と。しかし、またもやウルバンバンでバスから降りると「オリャタイタンポ、オリャタイタンオポ」と連呼し、あっという間に、ぎゅうぎゅうのライトバンに乗せられてしまった。
(一人50円、30分要)…合計150円(列車の場合28ドル)
 ペル−の人はどうもせっかちな性格の人が多いらしい。車は時間毎ではなく、人を詰め込んだ順に発車して行く。何時も追い立てられた感じで、ゆっくりと考えさせてくれない。
でも、この“おんぼろ乗合バス”と、“ガタゴトのバン”の旅は面白かった。“ペル−”らしさの旅?”を実感させてくれた。何も、早朝暗い中を、食事を急いで済ませて“豪華観光列車”に乗る必要はないのだ。
オリャタイタンポに到着すると、マチュピチュ行きの列車(ここからは他の乗り物はない)と、3日後のクスコに帰る切符を手配することにした。
 案内所で駅を尋ねると、係員が地図をくれ、親切にも案内してあげると言う。
更に、窓口で切符の手配もしてくれた。そして、2人分の代金が228ドルと知り、首を傾げながら「OK?モア-イクスペンシブ!」と、本当に驚いたようだ。
 オリャタイタンポは、クスコから88km、インカ時代の宿とも要塞跡とも言われている。
インカ時代の村の様式、家などを残すオリャタイタンポの村の直ぐ後ろが遺跡。急斜面の石段を上ると広場、インカの石組みが続く。遺跡の頂上に登り、山々に囲まれた村をのんびりと眺めた。
 途中、神奈川から来た学生さん(4月には新入社員らしい)に出会う。ブエノスからボリビア→ペル−に入り、マチュピチュの後はアマゾン→コロンビアに行くと言う。
 4:45分→6:45分、いよいよオリャタイタンポからマチュピチュへ向かう。列車はウルバンバ川沿いの谷間をゆっくりゆっくりジャングルの中を走って行く。

クスコからマチュピチュへ オリャタイタイポの街並み
切符購入 親切なガイドさん オリャアタイタンポ遺跡
閑散としたオリャタイタンポ マチュピチュへ向かう

―マチュピチュ遺跡は、ワイナピチュから眺めよう―       山間にあるマチュピチュ駅
 マチュピチュ村の朝は早い。シャトルバスは早朝5時から走る。9時前後には、クスコから、オリャタイタンポから日帰りの観光客が来る。私達は、7:20分のバスで20分(往復28ドル)遺跡入場門に急ぐ。昨日は雨だったが、ラッキな事に天気は回復に向かっている。
 今日の目標は、ワイナピチュ(2690m)に登ること。遺跡(2400m)との標高差はわずかだが、鎖場もありかなり険しい山だ。登山は1日/400人に制限されている。先ずは登山口管理小屋へ急ぐことにした。
幸いにも、日本の男子学生3人組みがワイナピチュへ登ると言う。一緒に行くことにした。
ところが、彼らは入場券を既に手に持っている。それも麓の村で購入したらしく、「地球の歩き方に書いてある」と、言うとさっさと先に行ってしまう。
仕方なく、入口の案内所に引き返すと、どこかの国のガイドさん?パスポ−トを10数冊重ね、何やら手続きしている。私も真似してパスポ−トを見せて入場券を無事ゲット。
(さあ急がなくては…)迷路のような遺跡の中を下ったり、上ったりしながら、8:00第一の関門登山口に
到着。“入場NO189・190 ”なんと素早い行動だろう!と、自画自賛し、先ずひと休み。
しかし、これから登る”ワイナピチュ“を眼前にし、少々不安になった。“険しそうな登り道、鎖場…、(でも今日一日時間はある。ゆっくり登ればいい…)と、不安な思いを隠しながら、登山開始。

       
マチュピチュ遺跡入口    下って、登るワイナピチュ

 登り始めて直ぐ、金髪の若い女の子がしんどそうに座り込んでいる。日陰を歩いても暑い。私達も余程しんどそうに歩いていたのだろう。ペットボトルの水を勧めてくれる女の子もいた。休憩しながら、ゆっくり登った。
すると、昨日オリャタイタンポで旅の情報交換した、神奈川の学生さんに再会。彼は、朝一番のバスで来て、もう下山中だ。「もう少しですから頑張って!」と励ましてもらう。
 頂上近くになると、更に勾配のきつい細い石段。左右には、そこにも額ほどの段々畑(遺跡)だ。
“後一息”と、一休みしていると、今度は下山中の京都の3人連れが、日本から持参の“きび団子”をくれ励ましてくれた。彼らは、ワイナピチュに登る年配夫婦が珍しい?と、いたく感激してくれたようだ。下山後はクスコヘ、そして夜行バスでプ−ノへ向かうと言う。

        
神奈川からの学生さんに再会     名古屋からの3人連れ

 “ワイナピチュ”の頂上からの眺望は本当に素晴らしい。世界中の旅行者が、日本の今時の若者達も皆、この眺望にいたく感嘆!!360度パノラマのこの世界に魅せられ、いつまでも…、飽くことなく見入っていた。
(…後日談だが、個人旅行の人達との情報交換では、“マチュピチュ”の眺望は、ワイナピチュの頂上からに限る。ワイナピチュから眺めた人だけが、初めてマチュピチュに来たことにしよう“と、勝手に取り決め、何時でもワイナピチュからの眺望の話は尽きる事がなかった。)
 下山後は “マチュピチュ遺跡”をゆっくり歩いた。ここでは、随分沢山の日本のツア−の人達に出会った10人に1人は日本人?とも思われる程の団体の人達が、足早に見学して立ち去って行った。
 マチュピチュ2日目は、あのつづら折りのバス道を歩いてみた。暑い!!なるべく日陰を選びながら…、歩いているのは外国の若者ばかり…、シャツを脱ぎ裸の若者、ブラジャ姿の女性、ここはやはり南米だ。マチュピチュやワイナピチュの遺跡、あちこちに点在する段々畑やマチュピチュ村を眺めながらジグザグ道を歩いた。
そして、夕方には温泉にゆっくり浸かり、旅の疲れをいやす。

   
マチュピチュ遺跡全貌     ワイナピチュ頂上をバックに
     
ワイナピチュ頂上より マチュピチュ遺跡・ジグザグ道路
両手にめざしを ワイナピチュの裏通り
        
コンドルの神殿 太陽の神殿
     
ビュ−ポイントからワイナピチュを臨む マチュピチュ村へ研修旅行?

3.マチュピチュから再びクスコへ           マチピチュ メイン広場
 マチュピチュ村は30分程で歩ける狭い街。街から少し外れるが“ミュウジアム”を訪れ、マチュピチュの歴史と、ボタニカを見学。 廃墟のマチュピチュの遺跡は、アメリカの歴史学者ハイランビンガムに発見されたが、彼をその地に案内したのは地元の、利発そうな少年だ。彼は、探検遊びの最中にでも、山の峰で草に埋もれ、廃墟の地の石組みをみつけたのだろうか。遺跡を理解してくれる人が現れ、どんなにか嬉しかったことだろう。
 列車は15時25分発。クスコへの(2000m→3399m)ビスタ−・ド−ムでの豪華列車の旅。ケーキと飲み物のサ-ビスもある観光客用列車(71ドル)。高度差が大きく、途中で何回かスイッチバックをしながら高度を上げ、密林に覆われたウルバンバ川に沿ってゆっくり走る。
 18時50分駅に到着。外はもう真っ暗。日本のツア−客も沢山下車した。(ホテルまでは歩いて10分…)と、急ぎ歩いていると、何だか変だ?大型バスが数台、迎えのプラカ−ドがずらり、ワゴン車もずらり待機している。
タクシ−もしつこく勧誘してくる。私達の、ホステルに近い“マルナス広場”まで、10ドルで行くと言う。
(ここは一体どこ?クスコの駅前はこんなに広くなかった…)慌てて引き返し車掌さんに尋ねた。
すると、ここはクスコ手前の“ポロイ駅”「この列車はクスコに行かない。」クスコにはシャトルバス(150円、40分)で行けと言う。(クスコ駅周辺に大型バスの駐車スペ−スがないから、ポロイ終点になった?)
結局、ホテル到着は8時。でも、もう少々のアクシデントには驚かない。
ここは“南米ペル−”今日も楽しい1日だった。

マチュピチュの民家 マチュピチュの温泉
マチュピチュ学校・下校風景 マチュピチュ・ミュウジアム
     
遺跡に案内した少年 マチュピチュからクスコへ

−クスコ観光の一日−
 翌日は午前中、インデア−ナ達の市が並ぶと言う“ピサック”村に行くことにした。今日もまた、バス乗り場を探すのに苦労した。ホテルで貰った地図とどうも違う。
地元の人も丁寧に教えてくれるが皆曖昧。結局“地球の歩き方”の地図が正しかったようだ。
 ピサックまでの40分、昨日ポロイ駅から通った道だ。まだ客の少ないピッサックの市を歩き、帰路は道を間違える事もなくホステルに無事帰る。

クスコ・アルマス広場 ピサックの市
ピサックの子どもたち ピサック・パン焼き実演

 午後からクスコのシティツア−を申し込んだ。ホステルの直ぐ側の、カテドラル、サンドミンゴ教会から始まる。外観は何回も目にした建物。以前はインカ時代の神殿、スペイン人に黄金を持ち去られ、今ではインカ時代の美しい石組みが残されているが、どんなにか煌びやかだったことだろう。
クスコ郊外のサクサイワマンは要塞跡。遺跡は巨石を3層に積み上げて造られている。ここもまた、石組み技術が素晴らしく、どこから、どうして運ばれたのか巨石がずらりと並ぶ。


        クスコ市街地の石組み
サクサイワマンの石組 巨石が並ぶサクサイワマン

4.クスコからプ−ノへ                  クスコ〜プ−ノ・田園風景
 今日の移動は、昼食、英語ガイド付きの観光バス10時間の旅。途中教会やラクチ遺跡、プカラ村などを観光し、南米最高所のラ・ラヤ駅(4335m)を通り、プ−ノへ向かう。
先ず、タクシ−でバスタ−ミナルへ(120円)。すると、係員が来て、バスは別な場所から発車するのでタクシで行けと言う。又タクシ−に乗り(120円)指定の場所へ行く。(そこは何回も歩いた所、ホテルから歩いて行けたのに…)と、複雑な気持ちで荷物降ろした。その瞬間、”財布”失った事に気付く。カバンを、ポケットを…探すが無い。(…確かに、タクシ-の中で財布を開いた。小銭でタクシ−代金を2回払った…)1回目のタクシ-の中に落とした?バス会社の人がホテルへも連絡してくれた。
しかし、どうやら、始めのタクシ−下車時、両手を離し、荷物を持ち上げる際に落としたようだ。(布製財布で、紙幣のみ350ドル分の現地通貨はとても軽かった。)
昨日両替したばかり、又、今日の観光コ−スは山村地帯で両替するところはないという。
 豪華なバスは出発し、クスコの街ともお別れなのに…、観光どころの気分ではなかった。
暫く走ると、私達が財布を無くした事を知っているガイドさん「Are You fine?」と聞いてくれる。
「元気はない。全て(ソルだけだが)お金を失った。今から気持を切り換える」と、答えると、「スマイル、スマイル…」と、笑顔で励ましてくれた。
 本当に不思議なものだ。クスコを離れるにつれ、田園風景が広がり自然が美しく広がる。一見、外見はぼろぼろなアンダワイリ−ヤスの礼拝堂の美しさ!!ラクチ遺跡、プカラ文明ゆかりの村などを観光していると、何時しかお金がないことも苦にならなかった。幸いにも、今日はおいしいランチ付きだ!トイレのお金も不要。
 PM5時プ−ノ着。いきなり現実に戻された。まず、両替(タクシ−代もない)そして、3日後のアレキバ行きのキップと、太陽の島(ボリビア)へのキップを、と段取りしていた。しかし、プーノのおばちゃん、親切にも?両替に連れていってくれ、後、どこまでも付いて来る。
「太陽の島は遠いので行けない。」(…マチュピチュで学生さんが、日帰りで行ったと教えてくれたよ!)代わりにアマンタニ島への1泊ツア−(英語ガイド付き、2,000円)へ行けと強引に言う。
(まあいいか、財布も失って…、これが2回目の失敗、ボリビアまで行って帰れなくなっても…)
結局、おばちゃんパワ−に負け、手付金も払ってしまった。
後で気付いたのだが、ホテルは3泊予約済みだった。(1泊ツイン51ドル)しかし、ホテルでツア−予約の件を話すと、気持ちよく2泊に変更にしてくれた。

クスコ→プ−ノ・ラクチ遺跡 プカラの市
のどかなプカラ村 ランチで休憩
クスコ→プーノへ ラ・ラヤ峠 南米最高所の鉄道駅4335m

−プーノ〜ウロス島〜アマンタニ島への1泊ツアーへ−
朝、7:30分ホテルにて昨日のおばちゃんと、ピックアップの車を待つが来ない。旅行社まで歩き、又駐車場まで歩き漸く出発。港近くでは、ホ−ムステイ先にお土産、果物(お菓子は買わないように注意される。)を買ってくるよう言われる。
 今日の私達の英語ガイドつきツア−は13名(ニュヨ-ク、カナダ、アイルランド、リマ…)。先ず船のボロさには驚いた。フロントガラスは亀裂し、テ−プで補修。ハンドルは何故か“トヨタ”、
穏やかなチチカカ湖を走るとは故、この船で大丈夫?と少々不安になった。
 ボートに乗って40分、先ず“トトラ(葦)”で作った浮き島へ。船が近づくと島の人たち総出で迎えてくれる。
2〜3家族が、トトラで作った風鈴などの民芸品や、トトラ船などの観光収入で生計を立てているようだ。

プ−ノ町並み ウロス・アマンタニ島へ・船出前の演奏
サイドガラス破損・ハンドルはトヨタ 浮島ウロス島・歌で歓迎
デジカメを珍しそうに見る子どもたち ウロス島・トトラを試食

−ウロス島〜アマンタニ島でホームステイ(ウロス島から約3時間)−     アマンタニ島ホスト出迎え
 アマンタニ島は、紀元前から人が住んでいるとされ、織物、農業、漁業の島。この段々畑からなる小さな島に、何軒かの民家が増築、改築して観光客を迎えている。
島に着くと、長老風の女性の出迎えを受け、めいめいのホストに振り分けられる。私達のホストは8歳、5歳、1歳の3人の子供がいる家庭。父親は、プ−ノのホテルで働いているという。
リマから民族学の研究の為、2か月間ステイ−している女性が英語で通訳してくれた。
昼食は(馬鈴薯、人参、トウモロコシの粉で作ったス−プとポテト、トマト,玉葱、卵のお好み焼き)島でとれたものばかりの素朴な料理。とてもおいしかった。

ホ−ムスティ・母屋 ホストママ正装
ホストママ・リマの学生さん 妹を抱きあげ・フォ−ト要求
        ティティカカ湖の夕暮れ
 夕方、ツア−客全員広場に集合し、プレ・インカの遺跡がある頂上へ夕日を見に行った。
頂上では、既にアンデスの器楽演奏が始まっている。チカチカ湖に聳える山脈に夕日が落ちると、360度パノラマの大空が茜色に染まり、波ひとつない湖面もいつしか茜色に染まって行った。
幻想的な落日にアンデスの音楽の響きがマッチする。
世界中から旅している人たちが、言葉も忘れたかのように、静かに…見入っていた。この素朴な光景は、私達の心の“故郷”のように思えた。
 一家の主は出稼ぎに行き、女・子供・老人だけのひっそりした感じのこの島は、妙に観光客だけが目立っていた。島には診療所があるが、医師はいない。病気は自然に、薬草で治す。一番困るのは虫歯の治療らしい。歯磨きの水さえないときが多いと言う。お土産は果物で…と言うはずだ。
 夕日を見た後は夕食、5歳のおしゃまな女の子が呼びに来てくれ、電気は消してくるように言う。
カレ−を食べ、20時からパーティがあると言うので部屋で待っていた。
しかし、呼びに来てくれない。赤ん坊を背負ったホストママは、無心に編み物で手を動かしている。
英語は通じない。リマの学生さんにパーティのことを尋ねた。そして、ホストママに話してくれ、なんと部屋の前の椅子には民族衣装が既に用意してある。きっと、それらのことはガイドさんから説明あったのだろう。英語が十分理解できていない悲しさを感じた。ともかく民族衣装を着け、ホストママは赤ん坊をグランドママに預け、懐中電灯の明かりを頼りにパーティ会場へ急いだ。
 パーティは既に始まっていた。他のツア−の日本の若者達が、ニュヨ−ク、アイルランドからの旅人達が踊りの輪に入れと手招きしてくれる。アンデスの音楽に合わせ、パーティのひと時を楽しんだ。

アマンタニ島 落日風景 アマンタニ島の夕日
アマンタニ島ダンスパ−ティ 民族衣装で

−アマンタニ島からタキーレ島→プ−ノへ−                   タ−キ−レ島
 朝、雲がおもいなあーと、思ったら大粒の雨、嵐。昨日の好天からは想像もつかない。小さなボロ船、大丈夫?船の揺れは半端ではない。若い船長は、ワイパ−を時折動かし、キョロキョロ前方を確認しているが、大きな波が押し寄せてくると生きた心地がしなかった。しかし、一時間少々、タキ−レ島に着く頃には雨も上がった。
 タキ−レ島に着くと、急な階段を上っていく。なぜか人数が減っている。あの若者バックパッカ風3人組みがいない。ほとほと疲れた様子で眠っていたが…。そう言えば、昨日夕日を見に行く時も彼らの姿はなかった。
そう、ここチチカカ湖は標高3,855m。少し登ればすぐに4,000mなのだ。
すっかり高山病のことは忘れていたが、若者3人組みはどうやら高山病?らしい。
 この島は、素朴と言うより少し寂れた感じ。織物や民芸品を買って貰う為に、11:30分と少々早いランチの為に立ち寄ったみたいだ。昼食もツア−の大半の人が断り、ガイドさんに何やらブ−イング。こういう時、日本人の私達は変に気を使う。お腹もすいて居ないのにランチを食べ、米人に「あなたの胃は素晴らしい!」と、あきれられた。彼らは「昼食、ノ−。早く帰りたい」とはっきり断っていた。
 朝の悪天候が嘘のように晴れ渡り、無事ツア−も終えた。夕食はホテルで食事することにした。プ−ノはこれからが観光シ−ズン、ウエイタ−がやたら忙しそうに動き回る。たった一組の客の為に、嬉しそうにテ−ブルクロスを張り、キャンドルを灯し準備を進めてくれた。

タキ−レ島・何処でも編み物を タキ−レ島・手工芸品が並ぶ
静かな湖面・ティティカカ湖 プ−ノのホテル・貸切レストラン

5.プ−ノからアレキパへ
朝、出発前プ−ノの街を散策する。街では食べ物や日用品を売る店が並ぶ。道端では豚や羊の売買もしている。
今日はプ−ノ11時発、6時間余りのバスの旅。街中のバス停留所のあちこちに寄っていく。バスが止まると飲み物やお菓子の物売りが客席の中にまで入ってくる。お客の数はまばらなのに、やたらと売り子が多い。
アレキパの街はとても整備され、ホテルもコテ−ジ風で庭もお花がいっぱい。当初2泊予定していたが、コンドルツア−(45ドル、英語ガイド、宿泊付き)に行くことにした。
ツア−の会社はホテルと同じ経営で、宿泊も、ナスカへの切符手配(朝出発→夕方出発でナスカのホテルには夜中2時に着く)それらを含めて全て手配してくれた。

電車は週2回発車 プ−ノ〜アレキパへ
プーノからアレキパへ ペル−第二の都市アレキパ

−カニョン・デル・コルカヘツアー−(アレキパ)へ−
 7:45分 スイス人夫婦(2か月間、オ−ストラリア→シドニ→南米の旅をしている)、ドイツ人夫婦と私達6人のツア−。先ず、街の中からミスティ山(5821m)チャチャニ山(6075m)の雪山を眺めながら出発。街を離れるにあたり、飲み物、キャンディなど買うようにと…、小さなお店に寄る。
 10:00 小休憩 ここは4000m地点、これから5000m地点近くまで行くと言う。ガイドさんの指示で、他の4人は、先ほどお店で購入したらしい、コカの葉に何やら粒状のものを包み口の中に入れている。悲しいかな…飲み物、キャンディは買い求めたが、高山病対策のガイドは全然聞きとっていなかった。
私達は「ダイアモックスを持ってきている…」と、慌てて薬を服用。スイス人「ダイアモックス?ナイスメディスン!」と、感心したように言う。現地の自然薬は、口の中で15分間も噛んでいるらしく、「もう20分過ぎた。苦い…」と、言いながら吐き出していた。
 今日の道路状態は最悪。この辺り1,2月は冬期で雨が多い。道路全体に、ドラム缶位な大きな穴がボコボコだ。車は穴を避け右に左にハンドルを切り走るが、穴が多すぎ、何時もガタンゴトン、車体は大きく傾く。
すると、突然スコップを片手に持った少年が、ロ−プで車を通行止めにしている。ガイドの説明では、4〜5か所のデコボコ穴を砂で埋め、車を走り易くした“仕事”に対してのお礼を、要求しているらしい。
ドイツの旅人、苦笑しながらお菓子を渡すと、もっとと請求してくる。
乗客一同感心し大笑い。道路付近に家はない。この少年は一体どこから?まだまだデコボコ道は続いた。

富士山のようなミスティ山・5825m 6075m・チャチャニ山
休憩地で ロ−プで通行止め・砂で穴を埋める
休憩地は何処でもバザ−ル 4800m地点で
5000〜6000mの山々を 毛並みのいいビク−ニャ
          チバイのホテルで
4800m地点まで幾つかのバザ−ルがあちこちであり、そこから標高3000mのチバイへと下っていく。
 2:30ホテル到着。近郊にはスペインから移り住み着いた村、山に住んでいたインカ人が住み着いた3つの集落・村がある。昼食後は集落をハイキング、そして、温泉へ向かった。
夕食はバイキング、水着、タオルを何時ものようにパネルヒ−タ(ガス暖房だった)にかけ、食事を終え部屋に帰ると、なんと部屋中が煙?でもうもう、慌てて窓を開き、煙を追い出す。
漸く煙も落ち着いたころ、ドアをノックする音。「変わったことはないか?」タオルを干していたことを告げると、「オ−、ノ−」と、ヒータの横に小さく書いている注意書きを読んでくれる。大惨事にならずに本当に良かった。水着2枚、バスタオルの被害だけで…(3回目の大きな失敗になる)

チバイのホテル チバイ散策
ダリアが咲き誇る コンドルツア−メンバ-・ガイドさんと

翌朝、いよいよアメリカのグランドキャニヨンより深いと言われる渓谷へのツア−、コンドルは、早朝の澄んだ空気の時しか見られないと言う。5時起床、6時出発。
渓谷へ行く道は、やはり雨季の後で悪い。コルカ川を眼下に臨みながら走る。
ビュ−ポイントに着くと、遥か空高く飛ぶコンドルを見る。
残念ながら、渓谷の谷間に飛ぶコンドルは見る事が出来なかった。
ガイドさんのアンケ−トに、ドイツの旅人から一言。「渓谷は素晴らしかった!!今度は、コンドルが沢山飛んでいるポイントへ連れて行ってほしい。」全く同感だ。 いまや希少化しつつあるコンドルは、更に奥深い渓谷に、道なき道に入って行かないと見る事が出来ないらしい。
 13:15分チバイから再びアレキパのホテルへ向かう。あのデコボコ道は目下、観光シ−ズンに備えて?穴埋め作業中。きっと、2〜3週間後には平坦な?道路に変身していることだろう。

カニョン・デル渓谷 カニョン・のコンドルデル
空高く舞うコンドル カニョン・デル・渓谷

6.アレキパからナスカへ夜行バスの旅(ホテル着後(16:15分)18時発)
 一昨日、ホテルツア−デスクの受付嬢に変更して貰ったバスチケットを頼りにバスタ−ミナルへ行く。
しかし、18:00のバスは17:00に変更になったので、この便はないと言う。結局8:30分のバス(ナスカへは朝5:00着)に乗れと言う。席番号は、一番前の同じ席(2階席?)とのこと、しかし、このバス、いわゆる地元の人の乗合バス、2階席はない。トイレは故障の為使用不可だ。
夜中走るため、外の状況は分からない。道路はガタゴト、暑すぎる暖房、バスは再々停留所に寄り、乗客の乗り降りもあるが、休憩時間の案内もない。トイレにも行かれず、バスは大幅に遅れて6:30分着。
                                   ナスカ・ホテル街
−ナスカの地上絵遊覧飛行へ(80$)−
 機長を含め6人乗りの小型セスナ機で20分間の遊覧飛行。機内には「チップ有難うございます」と日本語でも書いてある。その為か?機長はとても愛想が良く、可能な限り低空飛行でガイドしてくれる。
ナスカの広い沙漠の中の、地上絵を目の当たりにし、今まで写真で、テレビの映像で何度も見てはいたが改めて、地上絵の鮮明さ、広大さを実感した。

ナスカ・フライト順路 地上絵遊覧・機長さんと
宇宙飛行士 ハチドリ

−夕方からはミラドールツアーへ(30$)−
 空港まで送迎のガイド、ジョシ(22歳)に地上絵をミラド−ルからみるツア−を依頼する。
ジョンは「僕は下手だけど…」、ツア−のガイド(25歳)は日本語が上手とやたらと褒める。
彼女は独学で日本語勉強中。1歳の娘がいると言う。話している内に分かったのだが、ジョンと、彼女はご夫婦。
どうやら、ご自慢の奥さんらしい。
 奥さんガイドは、マイカ−を運転し流調な?日本語で、道路脇のテント(貧民街?)で暮らす人達や、“2010、KEIKO FUJIMORI"の看板などは、それらは全て「(頭が)変な人」と教えてくれる。
 高台のミラド−ルから地上絵を見ると納得だ。遊覧飛行で見たあのハチドリやコンドルなどの数々の地上絵や直線は、一見岩に彫り込んでいるようにも見えた。しかし、すべての線は、3cm〜30cmの深さの広い溝だ。
この地は砂漠の乾燥地帯、雨は年に一度か二度か降らず、地上絵が消えないらしい。

ミラド−ルから地上絵を 日本語独学勉強中のガイドさんと
ナスカ・この看板が目につ ミラド−ルからの地上絵

7.ナスカからリマへ
 いよいよ、南米旅行最後の地リマへ向かう。今日こそは、2階の一番前の見晴らしのいい席をと、思っていたのに…、1階の値段の高いファースト席(30$)しかとれなかった。座席は広いが何か暗い。
ランチも飲み物サ−ビスもあるが、2階席の方が断然眺めもいいのに…、何故1階の席がファ−スト席?
車窓風景も、殆どが砂獏地帯ばかり。やはり緑がないと疲れる。
 リマはやはり大都市。今日から3日間は日本語の通じる“当山ペンション”少し安心だ。
ペンションは、日本大使館も近く静かな住宅外。住所を頼りに行くのだが家の番号が書いてあるだけで、なかなか分かりにくい。タクシ−の運転手さんもあちこち訪ねてくれた。
玄関にもどこにも当山ペンションの表示はない。
 ペンションの泊まり人は、大半が若い人、春休みということもあり、学生さんが多い。福岡からの3人連れの学生さん、カナダからキュ−バに入り、コスタリカ→ペル−周遊25日間旅し今日帰国の途に着くと言う。マチュピチュ話題になり、私達が、“ワイナピチュ−”に登ったことを話すと吃驚してくれた。
横浜からの68歳の男性は、リオのカ−ニバル→イグアス→リマ→マチュピチュ→プ−ノを一人旅。
今回の旅で出会った、初めての昔の若人だ。
ペンションの憩いの場は、これから旅する人、旅を終えた人達がすれ違う場所。旅の情報交換しながら、これからお互いの無事な旅をと、エールを送り合う貴重なひと時だった。

−リマ市街地散策−
 リマの街は暑い。どんよりした曇り空もいつものことらしい。
まず、旧市街地のセントロ、カテドラル、サンフランシスコ教会へ。地下にある墓地、カタコンベには本当に驚く。迷路のような暗い、細い通路の横には、シャレコウベと、手足の骨が、芸術作品のように並べられている。
 午後は、ガイド予約している天野博物館へ、時間もあるので歩いて行くことにした。
地図では簡単そうに見えるが、道が途中で途切れてなかなか行きつかない。
路線マイクロバスからの客寄せの呼び声は無視して、どんどん歩く。
博物館到着は約束時間15分前。インタ−ホンで予約している旨告げるも、電話は入っていないと言う。
(当山ペンションで、電話しておくと言っていたのに…、日本語が通じても当てにならないこともあるようだ。)
幸い、先客のガイドが終わり次第、案内してくれると言うので嬉しかった。
博物館は、事業家で考古学にも興味があった天野氏が、チャカインカ文明に魅せられ、集められた織物や土器などが展示されている。考古学者でなかったので、発掘作業には参加できず、掘り出され,捨ててあったものを集めたらしいが、織物,繊細なレ−ス地は特に素晴らしい。
 翌日、今日は、太平洋も見える恋人達の公園まで歩くことにした。
地図片手に近道の積もりが方向を違えたらしい。ウオ−キング中の女の子に道を尋ねると、途中まで一緒にと、なんと1時間喋りながら歩いた。彼女は、「今日、仕事は休み。健康の為ウオ−キングしている」と言う。
ワカ・ブクヤ−ナ遺跡に着き、記念に写真を撮ろうとしたら、彼女、「ノ−、私もウオ−キングを楽しんだ」と。お礼のチップを渡すと勘違いされたらしく、「グッド、メモリ−に」と、足早に立ち去って行った。
遠く離れたリマの街で、異国の女の子と一緒にウオ−キングし、楽しい思い出が又一つ加わった。
 遺跡からまた歩いて、“恋人達の公園”海岸へ歩く。公園からは太平洋を一望できる。

ナスカからリマへ リマの大統領府
ワカ・ワヤマルカ遺跡 ワカ・ブクヤ−ナ遺跡
恋人達の公園 太平洋を臨む海岸通り

帰国の途に
いよいよ旅行最後の日、近くの日本人移住80周年記念会館で昼食する。(天丼、セビッチョ、ビ−ル)書き初めや日本人形などの展示がされ、また、剣道、柔道などのカルチャ−センタ−や日本庭園…などを見ていると、何故か日本より日本らしさを感じてしまう。
―リマの空港に早めのチェック・イン―
チケットは、リマ→(5時間40分)マイアミ→(3時間)シカゴ→(12時間31分)成田までの乗り継ぎ便全て発券してくれた。空港でのチェックの厳しさには閉口した。荷物やパスポ−トのチェック何回受けたことだろう。
「誰がこの荷物をパッケ-ジ?」の質問は全然聞きとれず、ちんぷんかんぷん。そんな質問を予想もしておらず質問を紙に書いてもらい漸く「マイセルフ」と答える。
セキュリ−ティチェック後も、「空港内で何を買い物したか?」と問われた時は少々うんざり。チョコレ−トと、安物のブレスレットを見せると、笑いながら納得してくれた。
 シカゴでの乗り継ぎ時間は30分しかないと言う。始めニュヨ−ク乗継1回の予定が、マイアミ→シカゴ乗り継ぎ2回になり、又、南米の飛行機は遅れる事も多いらしく心配だった。しかし、乗継時間30分で可能と判断し、航空会社が発券した以上、乗継に責任を持ってくれると聞いて少し安心。席も前の方にしてくれていた。
シカゴで、“乗り継ぎ”を無事済ませた。後は、成田に、伊丹空港に向かうだけだ。

無事旅を終えて
 パタゴニアの大自然を旅した後の、ペル−の旅は慌ただしかった。始めの内は戸惑うことさえあった。マチュピチュ行き列車のチケットが取れなかった時は最悪だった。
しかし、日程に余裕があれば何も悲観することはとはない。別な方法が…、旅を楽しくしてくれた気がする。
失敗を重ねながらも、いつしかペル−の旅もまた、楽しいものになって行った。
 コンドルツア−、アマンタニ島の一泊ツア−では、異国の人との“旅は道連れ”は本当に楽しかった。
言葉は十分通じなくても交流は出来るようだ。(スイス、ドイツの旅人に、我々の中で日本が”一番古い歴史を持っている国”と教えて貰い驚きでもあり、嬉しかった。)
 マチュピチュや、リマでは日本からの個人旅行の若者達にも出会った。
春休みに、卒業旅行…と、皆それぞれオリジナルの南米旅行だ。ニュヨ−クに留学中の学生さんは、女性一人でインカ道のトレッキングツア−(1週間)に参加すると言う。
世界一周旅行の若者からも“旅のノウハウ“を教えて貰った。奈良の女性は、シドニ−→タイ→フランス→エジプト→リマ→サンチャゴ→イ−スタ島→ブエノス→イグアス→ブエノス→シドニのチケット(約24万円)で自分探しの旅行中だ。
南米の個人旅行は、不安を抱きながらの旅立だったが、一度も危険を感じることなく、無事終えた。
幾つかの失敗もし、いろいろな“旅人”にも出会った。個人旅行ならではの楽しさも味わう事が出来た。
それにしても…、ペル−の旅は、写真を撮る余裕さえなく、本当に慌ただしく過ぎ去った。
いつかまた、今度はもう少しのんびりと…、南米の広い地を旅してみたいと思う。
最後に、この南米旅行を思いたつきっかけともなった、LSC関西のKさん、Oさんの南米旅行記を
コピ−して、参考にさせて頂きました。有難うございました。

               

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